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深淵の蜘蛛の深淵レストラン  作者: カニスキー
第二章 開店!深淵レストラン
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028:防衛長官グレンと【厳選木の実のシャーベット】

028:防衛長官グレンと【厳選木の実のシャーベット】


俺は、この食事が、果たして俺の胃を癒やすのか、それとも、別の次元へ魂を送るためのものなのか、全く見当もつかないまま、恐る恐るスプーンを口に運んだ。


黄金色の液体が、舌に触れた瞬間、川魚の澄んだ出汁と、口に含んだこともない茸の、深く、そしてどこか神聖な香りが鼻に抜ける。

魂が浄化されるような衝撃的な美味さではない。

だが、ふむ…美味い。じんわりと体に染み渡るような、優しい味だ。


一口、また一口と飲み進めるうちに、長年、灼けるような痛みを刻み続けてきた俺の胃が、まるで穏やかな陽だまりに包まれるように、ぽかぽかと温かくなっていく。

弱っていた胃が、この一皿を喜んでいるのが分かった。

これが、あの青年が言っていた漢方の効果というやつか…?


「…美味いな」


俺が絞り出したその一言に、厨房の入り口に隠れて固唾を飲んでこちらを見ていた三人の少女たちが、ぱあっと顔を輝かせた。

「やったー!」

「よかったね、おじさん!」

「…うん、よかった」

アンは飛び跳ねて喜び、ドゥは安堵の息を漏らし、トロワははにかみながら嬉しそうに微笑んでいる。

彼女たちの後ろに立ち興味なさそうにしている青年は、「ふん、当然だ」と尊大な態度を崩さずにいるが、その口調からはどうしても漏れる喜びの感情がにじみ出ていた。


厨房からのドタバタ音で一時はどうなることかと思ったが、この普通に美味しいスープに、俺は心底安堵していた。

彼らが、この見ず知らずの俺のために、あのカオスな厨房で、一生懸命この料理を用意してくれたのだ。


ふと、思う。 俺はいつも、部下たちに「力を合わせろ」「一人で抱え込むな」と説いてきた。

だが、翻って俺自身はどうだっただろうか。

セラフィナやレオの助けを借りながらも、最後は常に一人で決断し、一人で責任を負い、一人で胃を痛めてきた。

彼らを信頼していなかったわけではない。だが、どこかで、彼らを巻き込むことを恐れていたのかもしれない。

目の前の、このちぐはぐで、常識外れで、しかし懸命な「家族」の姿に、俺は指揮官として忘れかけていた、最も大切な何かを教えられた気がした。

俺は、我を忘れてスープを飲み干した。


次に、ただ焼いただけだと言っていた『星屑茸』を口に運ぶ。

塩だけで軽く炙られたそれは、一見するとただの白い茸だ。

だが、口に近づけただけで、月明かりの下の森の香りを凝縮したような、清冽で高貴な芳香が脳を支配する。

数年前、領主主催の晩餐会で、メインディッシュの皿に飾られていた、あの『星屑茸』の香りに良く似ている。

あの時は、紙のように薄くスライスされたものが、たった一枚だけだった。

歯を立てると、サクッ、と小気味良い、まるで音楽のような音が響いた。

次の瞬間、噛みしめた断面から、凝縮された旨味の奔流が溢れ出し、舌の上で踊り始める。


(…いや、まさかな。これが本物の星屑茸なわけがない。あれは茸の姿をした宝石、伝説上の食材だ。こんな山盛りの量を、ただの塩焼きでバクバクと食べられるものではないはずだ。きっと、よく似た別の茸なのだろう。そうに違いない…)


ただのパンですら、噛みしめれば、小麦本来の力強い味がした。

「あなた、本当に美味しそうに召し上がるのね。そんな顔、久しぶりに見たわ」

隣でリリアが、楽しそうに微笑みながら言う。

「そうか?…昔、お前が焼いてくれた黒パンも、これくらい美味かったぞ」

俺がぶっきらぼうにそう返すと、リリアは「まあ、昔の話を」と嬉しそうに笑った。

こんな、他愛もない会話は、本当に久しぶりだな。


職場である鉄血関では、俺の言葉は常に「命令」か「報告」だ。

その重圧から解放された、ただの夫としての会話。

それが、どんな薬よりも、俺の心を軽くしてくれているのを感じた。


テーブルの皿が空になったのを見計らって、またあの青年がデザートを持ってきてくれた。

彼は、まるで舞踏のような音もなく滑らかな足取りで俺たちのテーブルに近づくと、ガラス細工のように美しい器を、そっと俺たちのそれぞれの前に置いた。

その完璧な所作は、王宮の給仕長ですら裸足で逃げ出すだろう。


「デザートに、我が姪たちが森中から厳選した『厳選木の実のシャーベット』を用意した。これは、我が魔糸の技術の粋を集めた自信作だ。心して味わうが良い」

青年はそれだけ告げると、再び優雅な一礼を残し、静かに去っていった。


俺は、ガラスの器に盛られた淡い色のシャーベットを一口、口に運んだ。

青年の自信作、か。なるほど、これは美味い。

木の実が持つ濃厚な甘みと瑞々しさが口いっぱいに広がったかと思うと、次の瞬間には氷の粒がシャリシャリと小気味良い音を立てて溶けていく。

このジューシーさと、シャリシャリとした食感の絶妙なバランス…見事だ。


「まあ、美味しい。ひんやりしていて、後味がすっきりしているのね。これ、どうやって作っているのかしら?」

リリアもニコニコと笑いながら、小さなスプーンでシャーベットを味わっている。

彼女がこんな風に心から食事を楽しんでいる姿を見るのも、本当に久しぶりだった。


食事を終えた俺は、満たされた胃と、何年ぶりかに感じる穏やかな心に、しばし呆然としていた。

この奇妙なレストランで、俺は確かに忘れてはいけなかった何か温かい物を思い出すことが出来た気がした。

俺は、いまだに厨房の入り口に隠れるようにして見つめてくる不思議な少女たちやミステリアスな雰囲気の青年に対して、もはや恐怖の対象としてではなく、畏怖と、そして深い感謝の念を込めて見つめた。

食後の余韻に浸りながら、他愛もない会話をする。

あぁ、セラフィナに押し付けられるようしぶしぶ取った有給だったが、こんな時間が過ごせるとは思わなかった。



「ふぅ。大変満足した。それでは、名残惜しいが帰るとするか」

俺は厨房の入り口でこちらをうかがっている少女たちに声をかけ、会計を頼むことにした。

すると、黒髪の少女、ドゥがおずおずとやってくる。


俺が会計の意を伝えると、頭の上に「?」を浮かべた。

「かいけい…?少々、お待ちください」

彼女はそう言うと、厨房へと戻っていった。


途端に、厨房の中から、またしてもひそひそとした、しかし明らかに喧々諤々の議論が聞こえてきた。

「会計だと?人間は食事の後にも、金というものを払うのか?」

「えー、お金もらうの?むしろ、お土産に宝石でもあげて、また来てもらった方がいいんじゃない?」

「アン、駄目だよ!これからお店を続けるには、その『お金』ってやつが必要なの!」


あーでもない、こーでもないと議論が続いた後、やがて、あの美青年が、先ほどまでのオロオロとした気配を微塵も感じさせず、胸を張り、ふんぞり返りながらやってきた。

「…すまん、人間よ。我はまだ、貴様らの貨幣の価値というものがよく分からん。今日の食事代は、そちらで適当に決めてくれると助かる」

俺たちがポカンとしていると、青年はバツが悪そうにすっと天井に目線を向けながら、早口で付け加えた。

「い、いや、理論は知っているのだ!塩梅はまだ学習中なだけでな!」

その姿に、俺は思わず吹き出しそうになった。

そうだ、この子たちは、市場で野菜を買うために、平然と金塊を差し出すような連中だった。 俺は隣のリリアと目を合わせる。彼女もまた、楽しそうに笑っていた。

(これは、帰る前に、少し教えてやらねばならんな)


俺たちは、店の入り口まで見送られた。

背中から三人の少女たちのまた来てねぇという声が聞こえてくる。

俺は振り返り、この奇妙で、危険で、そして最高に温かいレストランの主人に、こう告げた。

「また来る。必ずだ。このレストランの、最初の常連客としてな」

その言葉に、青年は初めて、驚いたように少しだけ目を見開き、そして、ただ静かに頷いた。


どこか温かい気持ちのまま、ゆっくりと宿へ歩を進める。

言葉にしなくても隣を歩く妻のリリアと、この暖かな余韻を共有しているのが分かった。

温泉街への帰り道、俺はリリアに、ぽつりと呟いた。

「すまなかったな、今まで」

リリアは何も言わず、ただ優しく俺の手に自分の手を重ねてくれた。それだけで、十分だった。



その後


有給を消化し、鉄血関へと帰還したグレンは、ほんの少しだけ変わった。

山のように積まれていた報告書の束は、彼の机の上で止まることなく、セラフィナやレオ、そして各部署の責任者へと、より広く、より信頼をもって振り分けられるようになった。

そして、何かと理由をつけては部下に有給休暇の取得を促すようにもなったという。

執務室の机の引き出しの奥、あまり開けられることのなくなった『鉄血丸』の薬瓶を振ると、中でたった一つ残された白い錠剤が、カラン、と寂しそうな音を立てた。



『厳選木の実のシャーベット』

評価:★★★★☆(ぷるシャリの食感が絶妙)

蜘蛛の少女たちが森中から集めた厳選された様々な種類の木の実のシャーベット。

少女たちのお気に入りで、よくおやつとして食される。

深淵の蜘蛛の冷凍技術は日々の研鑽により、木の実の持つ瑞々しさとシャリシャリする食感の絶妙なマリアージュを実現している。


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