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深淵の蜘蛛の深淵レストラン  作者: カニスキー
第二章 開店!深淵レストラン
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026:防衛長官グレンと【朝どれ野菜】

026:防衛長官グレンと【朝どれ野菜】


 湯けむりの向こうで、鳥のさえずりが聞こえる。

 俺は、岩造りの露天風呂に身を沈め、天を仰いだ。

檜の香りと、硫黄の匂いが混じった柔らかな空気が肺を満たしていく。

新しく建てられたばかりだという湯治宿は、見事な木造建築で、静かで落ち着いた雰囲気に満ちていた。


 熱い湯が、凝り固まった全身の筋肉を、一枚一枚、丁寧にはがしていくように解していく。

この三日間、俺を苛み続けてきた胃の痛みも、今は嘘のように穏やかだ。


(普段のこの時間なら…)

 司令室で、怒号と羊皮紙の山に埋もれている頃か。

 ひっきりなしに飛び込んでくる凶報に、胃を絞り上げるようなストレスを受けながら、眉間に皺を刻んでいるはずだ。

 それが俺の日常であり、責務だった。


 そう思うと、このあまりに穏やかな時間に、背徳感にも似た、わずかな罪悪感が胸をよぎる。

 だが、それ以上に、この魂が溶けていくような幸福感は、抗いがたいほどに甘美であった。


 長湯でのぼせる前に、と俺は湯から上がった。

 浴衣に着替え、湯治宿の趣ある玄関先で、湯を終える妻を待つ。

 手には、彼女が好きそうな花の髪飾り。

 若い頃、任務の合間にこうして彼女を待っていたことがあったなと、ふと昔を懐かしむ。

 あの頃は、次にいつ会えるかも分からぬ身だった。


「お待たせ、あなた」

 柔らかな声と共に、リリアが姿を現す。

 彼女もまた、この穏やかな時間を心から楽しんでいるようだった。

「待っている時間も、悪くないものだ」

 俺がぶっきらぼうに髪飾りを差し出すと、リリアは「まあ、綺麗」と嬉しそうに微笑み、それを受け取ってくれた。

 多くを語らずとも、互いの心の内が分かる。

 それが、俺たちが共に歩んできた長い年月の証だった。

「土産物でも探しに行こうか」

「ええ、ぜひ。何か珍しいものがあるといいわね」


 俺たちは連れ立って、湯けむりが立ちのぼる石畳の通りへと足を向けた。

「ずいぶん雰囲気が良い町並みね」とリリアが言う。

「聞けば、この温泉が湧くまでは、しがない寒村だったそうよ。それが、例の『気高い女の魔獣』がこの湯を掘り当ててから、こんなに活気のある町になったんですって」

 魔獣が温泉を、か。荒唐無稽だが、観光客を呼び込むための作り話としては、なかなかの策士が考えたものだ。

 俺がそう言って笑うと、リリアも楽しそうに続けた。

「ふふ、でも、おかげでこうして新しいお店もどんどん建っているし、町が発展していくのを見るのは、なんだか嬉しいわね」

 彼女が指差す先では、職人たちが新しい宿の建設に精を出している。

 どこからか、香ばしい饅頭の匂いも漂ってきた。

 そんな長閑な活気の中を、俺はリリアと並んでゆっくりと歩を進める。


 その時、一際異質な騒ぎが俺の目に留まった。

 店主と揉めているのは、場違いなほど豪奢な服を着た、三人の少女たちだった。


 皆、年は十歳前後といったところか。

 一人は、活発な赤毛をポニーテールにした、動きやすそうなショートパンツ姿の少女。

 一人は、理知的な雰囲気の黒髪を三つ編みにした、少し大人びたローブ姿の少女。

 そして、少しおどおどしている銀髪の少女は、ふわりとした可愛らしいワンピースを着ている。

 その服装は、いずれも遠くからでもわかる上等の布であつらえた貴族が着るような、刺繍や飾りがふんだんに施された異国のデザインで、この土地の素朴な気風からも、気候からも浮いていた。


「だから、これで野菜を全部くださいなって言ってるの!」

「お、お嬢ちゃんたち、本当に困るんだよぅ…こんなもの、お釣りがないどころの話じゃないんだ…」

 赤毛の少女が、店主の前に突き出しているものを見て、俺は我が目を疑った。

 それは、彼女の小さな拳ほどもある、磨かれてもいない無骨な金塊だった。

 店主は顔面蒼白になり、周囲の者たちも、好奇と警戒の入り混じった視線で遠巻きに見ている。


(…どこの貴族の世間知らずな娘たちだ)

 面倒事はごめんだった。胃がまたしくりと痛む。

 だが、少女たちのあまりに純粋で、あまりに無防備な瞳を見てしまうと、今はもう大きくなった自分たちの子供たちが、まだ小さかった頃の姿が重なった。

 隣に立つ妻からの「あなた?」とでも言うような、優しくも促すような視線を受け、俺は深いため息を一つだけつくと、人混みをかき分けて少女たちの前に立った。


「お嬢さんたち、それではお店の方が困るだろう」

 俺は懐から銅貨を数枚取り出し、店主に手渡して野菜の代金を支払った。

「これでいいかね?」

「あ、ああ…助かったよ、旦那」

 店主は心底ほっとした顔で野菜を包んでくれた。


 突然現れた助け人に、三人の少女たちはきょとんとしていたが、すぐに状況を理解したらしい。

「わー!ありがとう、おじさん!」

「助かりました。このご恩は必ず」

「…優しい人」

 三者三様の感謝の言葉。


 あまりに場違いな少女たちに興味が湧いた俺たちは、彼女たちと並んで市場を歩き始めた。

 赤毛の少女が、元気いっぱいに自己紹介をする。

「あたしはアン!こっちがドゥで、こっちがトロワ!よろしくね、おじさん!おばさん!」

 アンと名乗った少女に紹介され、黒髪の少女ドゥはぺこりと頭を下げ、銀髪の少女トロワは恥ずかしそうにドゥという少女の服の裾に隠れた。


 道すがら、俺はそれとなく少女たちに忠告した。

「お嬢さんたち、あまり人前で、あような大きな金塊を見せびらかすのは良くない。悪い者に目をつけられるかもしれないからな」

 すると、アンが悪びれもなく答える。

「えー、そうなの?じゃあ、やっぱりこっちの方が良かったかな?」

 そう言って、彼女はポケットから、今度は燃えるような赤色の宝石と、深い青色の宝石をいくつか取り出して見せた。その輝きは、素人目にも最高級品だと分かる。


 俺は、あまりのことに言葉を失い、考えるのをやめた。

 リリアと顔を見合わせ、苦笑すると、改めて少女たちに尋ねた。

「…君たちは、一体どこから来たんだ?」

「私たちは、大好きなおじちゃんと一緒にレストランを開くために、地下から来たの!」

 アンが、胸を張って言う。

「そうなの。おじちゃんが旅の途中で古い皮を脱ぎ捨てたら、私たちも脱皮が始まって。それで、こんな姿になれたのよ」

 ドゥが、淡々と、しかし誇らしげに続けた。

「まあ、素敵なこと」

 リリアが、少女たちの言葉を比喩表現だと解釈し、優しく微笑む。

 俺もまた、「最近の子供は独特の表現をするものだ」と、微笑ましく思っていた。


「だから、おじちゃんと一緒にレストランを開くために、地上に出てきたの。いつか師匠のジャンピエールと同じか、それ以上に凄い料理を作れるように頑張るんだ!」

 トロワが、その瞳に強い意志を宿して言う。

「ジャンピエール…?」

 その名に、どこかで聞き覚えがあるような気がしたが、思い出せない。


「おじさんたちは、何しにここへ?」

 今度はトロワが、小さな声で尋ねてきた。

「はは、私は少し働きすぎてしまってな。久しぶりに休みが取れたから、妻と骨休めに来たんだ。少し、胃が弱っていてね」

 俺がつい本音を漏らすと、三姉妹の目がキラリと輝いた。


「決まりだね!おじちゃんに、お腹が元気になるご飯、作ってもらおう!」

「ええ、準備中だけど私たちのお店にご招待します!」

「…おいしいよ」

 その純粋な善意と、有無を言わさぬ勢いに、俺とリリアは顔を見合わせて苦笑するしかなかった。

(金塊や宝石を持つような子供たちが営む店か…一体、どんな料理が出てくるのやら)

 俺は、騒がしい司令室や、部下たちの顔を思い浮かべた。

(まあ、どんなものでも、いつも飲んでいる胃薬に比べたら、今の俺にとってはご馳走だろう…)


 常識外れの少女たちと、その『おじちゃん』が振る舞うという料理。

 それは果たして、どんな途方もないご馳走なのだろうか。

 久しぶりに、戦場での緊張とは違う、純粋な好奇心と期待感が、疲弊した胃のあたりをくすぐるのを感じていた。



『燻し木の里の朝採れ野菜』

 評価:★★★☆☆(滋味深い)

 燻し木の里の農家が丹精込めて作った野菜たち。

 岩猪が縄張りを出てまで食べに来ていた野菜なだけあって、①その味わいは瑞々しく、生命力に満ち溢れている。噛みしめれば、野菜本来の力強い甘みと、大地と温泉の恵みを一身に受けた豊かな風味が口いっぱいに広がる。


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