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深淵の蜘蛛の深淵レストラン  作者: カニスキー
第二章 開店!深淵レストラン
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025:防衛長官グレンと【鉄血丸】

025:防衛長官グレンと【鉄血丸】


鉄血関の司令室は、決して静寂が訪れることのない、思考の戦場であった。

窓から差し込む朝日が、オーク材の重厚な机に積まれた羊皮紙の山を白く照らし出す。

インクと古紙、そして微かに漂う獣の血の匂いが染みついた空気の中、防衛長官グレン・マクシミリアンは、まるで嵐の目のように静かに、次々と運び込まれる報告書に目を通していた。


かつては『鉄血のグレン』と恐れられ、単騎で超獣の群れに突撃したという武勇伝を持つその顔も、今では歴戦の傷跡より深い心労の影に覆われ、睡眠不足で青白い。


彼の両脇には、二人の有能な副官が影のように控えていた。

一人は、冷静沈着な第一副官、セラフィナ。彼女は、膨大な情報を整理し、政治的な駆け引きや戦略の骨子を組み立てる、グレンの頭脳そのものだ。

もう一人は、快活で実直な第二副官、レオ。彼は、グレンの決定を現場の各部隊へ迅速かつ正確に伝達し、実行させる、長官の手足であった。


「長官、こちらを先に」

セラフィナが、数ある羊皮紙の束の中から、最も緊急性の高いものを選び出し、彼の眼前に広げる。


【報告書1:沿岸部における超獣『鳴き声クジラ』座礁の件】

要旨:体長約50メイルの巨大超獣が沿岸部に打ち上げられ、死亡。腐敗による瘴気の発生と、その巨体を狙う肉食獣の出現が予測される。


「…厄介な。レオ、生態学者と衛生班を直ちに現地へ派遣。瘴気拡散防止のため、神獣様の加護を受けた『清浄の布』で死骸を覆い尽くせ。肉食獣が集まる前に、解体して海に還すのだ。骨と皮は貴重な資源となる、無駄にするな」

「はっ!解体作業には、ハンターギルドへ協力を要請しますか?」

「いや、貸しは作りたくない。砦の予算で臨時作業員を雇え。費用は、回収した素材の売却益で相殺できるはずだ」

グレンの言葉を受け、レオは敬礼し、風のように司令室を駆け出していった。


【報告書2:交易都市セレネイアからの公式陳情】

要旨:近年、交易路を脅かす『翼竜乗り(ワイバーン・ライダー)』、通称"空賊"の被害が拡大。鉄血関に対し、共同討伐作戦への参加を正式に要請するもの。


「…政治的な動きか。セレネイアの連中、自国の騎士団だけでは手に余ると見える。だが、安易に戦力を割くわけにはいかん」

グレンは壁に掛けられた巨大な軍事地図に目を落とし、思考を巡らせる。

「セラフィナ、回答は『前向きに検討する』とだけ伝えろ。ただし、条件として、作戦費用と戦利品の分配率について、こちらに有利な条項を盛り込んだ協定案を起草させろ。交渉の席に着くのはそれからだ」

「かしこまりました。外交儀礼担当官に、至急草案を作成させます」


【報告書3:兵站部における物資横流しの疑いに関する内部調査報告】

要旨:複数の証言から、兵站部の一部の兵士が、砦の貴重な医薬品を不正に外部へ横流ししている疑いが浮上。確たる証拠はまだないが、看過できない状況。


グレンの手が、その書類の上で僅かに止まる。彼の脳裏に、長年苦楽を共にしてきた部下たちの顔がよぎった。その一瞬の逡巡を、セラフィナは見逃さない。

「…憲兵隊に、極秘に内偵を命じろ。だが、事を荒立てるな。まずは物的証拠を固めろ。もし事実であれば…法に従い、厳正に処分する」

「…長官のお言葉、必ず」


グレンの瞳に苦悩の欠片を感じたセラフィナは、あえて事務的な報告を重ねることで、グレンの意識を感傷から引き戻す。

「長官、奥様への週次報告書の提出期限が迫っております。また別件で、本日の午後、ドワーフの鍛冶ギルド長が、新型徹甲弾の納入の件で面会を求めておりますが、いかがなさいますか」

奥様、という単語を聞いただけで、グレンの胃がまた一つ、悲鳴を上げた。


ふと、書類の山の中から、ひときわ分厚い報告書の束が彼の目に留まった。

『特級魔獣"深淵の蜘蛛"襲来事件 顛末報告書』と記されている。


「…あの時の投石隊の報告書か」

「ええ。徹甲弾120発、投石機からの火炎弾50発、その全てが奴の魔力障壁に弾かれ、傷一つ負わせられなかったと。対魔獣障壁も、奴の前では無力でした」

セラフィナの淡々とした声が、あの日の絶望を蘇らせる。


鉄血関の全戦力を以て放った砲撃は、まるで祝祭の花火のように、敵に届くことなく虚しく弾け飛んだ。そして、返礼とばかりに奴が放ったあの七色の極光。

砦を狙ったわけでもない、ただの威嚇の一撃が、天を貫き、その余波だけで砦の魔導炉は三日も沈黙した。

もし、あの狙いが少しでもずれていたら、この鉄血関は地図から消えていただろう。


結局、あの規格外の魔獣は、どこからか現れた神竜様の使者と名乗る奇妙な男と猿によって食い止められ、最後は神竜アマルガムご本人の降臨によって、辛うじて事なきを得た。

しかし、その一連の事件の報告と、領主である「奥様」への説明責任、そして今後の対策の策定という、戦闘よりも遥かに厄介な責務が、今も彼の肩に重くのしかかっている。


報告書には、こう追記されていた。

『神竜様の使者を名乗った男と猿は、戦闘終結後、忽然と姿を消し、現在も行方不明。また、深手を負われた神竜アマルガム様は、ご自身の領地の奥深くで療養に入られた模様。その影響か、近頃、領内全域で原因不明の微弱な魔力振動が観測されており、気象への影響も懸念される』と。

謎の協力者の素性調査、神竜の動向監視、そして新たな環境問題の発生。

問題は、解決するどころか増える一方だった。


最後の書類に署名を終え、ペンを置いた瞬間、長官の胃の辺りにかすかな不快感が鎌首をもたげた。

彼は、誰にも気づかれぬよう、机の下で強く拳を握りしめる。

そして、まるで長年の友人に手を伸ばすかのように、無意識に空の胃薬の小瓶を探していた。


「長官」

セラフィナが、静かな、しかし有無を言わさぬ声で一枚の羊皮紙を彼の前に差し出した。

それは、彼の「休暇願」だった。


「この数日、長官の判断速度に迷いが見られます。先ほどの内部調査の件、平時であれば即決されていたはず。それに、その胃薬の小瓶、今月で三つ目でございましょう」

彼女の瞳は、部下としての懸念と、彼を最も理解する者としての、揺るぎない意志を宿していた。

「このままでは、長官ご自身が、この鉄血関における最大の脆弱性となりかねません。幸い、来週は大きな軍事演習の予定もなく、副長官のバルガス殿も砦におられます。戦略的撤退もまた、指揮官の重要な責務です」

それは、命令ではなかった。

だが、誰よりも信頼する副官からの、最も重い「お願い」だった。


グレンは、セラフィナの目を見つめ、やがて、深いため息と共に、その重い肩から力を抜いた。

「…わかった。来週、一週間の休暇を申請する。留守を頼むぞ、セラフィナ」

「御意に」


その日の執務を終え、夕日で赤く染まる司令室で、グレンは一人、窓の外を眺めていた。

壁に掛けられた歴戦の剣が、静かに彼の背中を見守っている。


ふと、彼の脳裏に、もう数日もまとに顔を合わせていない、妻の笑顔が浮かんだ。

彼女は、砦の喧騒から離れた小さな町で、静かに彼の帰りを待っている。


(…そういえば、リリアが、新しく見つかった温泉郷の話をしていたな…)

彼は、久しぶりに感じる穏やかな気持ちの中で、一つの決意を固めた。


この休暇は、ただの療養ではない。

長年、戦場の埃の中に置き去りにしてきた、ささやかな幸せを取り戻すための旅にしよう。

求めるものは、ただ一つ。誰にも邪魔されない静寂と、妻と共にとる、温かい食事だけだった。



鉄血丸てっけつがん

評価:★☆☆☆☆(味はしない、ただの白い錠剤)


鉄血関の医務室で、グレン長官のためだけに特別に処方される錠剤。

医務室の知の結晶にして、長官の胃とアマルガム領の平和を繋ぎ止める、あまりに重すぎる責務を背負った小さな白い粒。

もはやこれが薬なのか、彼の魂を削って燃やすための燃料なのか、医務室の誰もが口にはしない。


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