020:深淵の蜘蛛と【深淵マンドラゴラ】
020:深淵の蜘蛛と【深淵マンドラゴラ】
ノッシノッシと、懐かしき我が住処、深淵へと向かう。
脱皮を果たした我が体は軽く、八本の脚は大地を力強く、そして軽快に踏みしめた。
頭上では、我が魂の至宝たちが、生まれ変わった我が姿をキャッキャとはしゃぎながら褒めそやしている。
「おじちゃん、なんだかちょっとだけたくましくなったみたい!」
「本当!瞳の色も、前の綺麗な青色から、もっと深くてドキドキする紫色に変わってる!」
「見て見て、体の模様!前のもかっこよかったけど、今度の魔紋はもっと、こう…すごくかっこいい!」
ふむ、そうであろう、そうであろう。
だが、姪たちが次に放った言葉は、我が威厳ある思考を、ほんの少しだけ停止させた。
「「「でも、一番変わったのは、匂いだよねー!!」」」
三人が、まるで示し合わせたかのように声を揃える。
「そう!おじちゃんの体臭が、なんだかドキドキする良い匂いになった!」
「うん、前の匂いも好きだったけど、今の匂いは、もっと…こう、ずっと嗅いでいたい…」
「…トロワ、この匂い、好き…」
…た、体臭、だと?
加齢臭ではないだけマシか。
加齢臭じゃないよね?
我、まだぴちぴちのナウでヤングだよね?
臭くないのなら、まあ、良いのだが。
ふと、我が敬愛する姉上――冥府の黒百合――の夫君であり、我が尊敬する義兄上『夜天の裁定者』のことを思い出した。
彼もまた、夜の闇が支配する領域において、右に出る者はいない最強の一角。
その威厳と力は、深淵の住人であれば誰もがひれ伏すほどのものであった。
だが、そんな義兄上が、ある日、愛する娘のだれかから「お父様、あのね…最近、お父様と一緒にお昼寝してると、なんだかお腹の奥がむかむかしちゃうの。昔は、森の木みたいないい匂いだったのに、今は…なんだろう、内臓が病気になったみたいな…そんな匂いがするの。ごめんなさい、嫌いじゃないの、でも、息をぎゅって止めちゃうの…」と、純真無垢な瞳で指摘され、その巨躯を震わせ、言葉を失うほどの衝撃を受けておられた。
その後、夜の暗闇の中、彼が一人、香りの強い霊花を浮かべた泉に蜘蛛式正座で浸かり、遠い目をしてぶつぶつと何かを呟いている後姿を見てしまった時は、何とも言えぬ気まずさを覚えたものだ。
見てはいけないものを見てしまった、と。
我、思うに、義兄上の好物である『深淵マンドラゴラ』が原因なのではないか。
あれは、確かに、根の部分をじっくりと焼くと、他に類を見ないほどの香ばしさと、ホクホクとした甘みを持つ絶品ではある。だが、いかんせん、食した翌日の体臭が、どうにも人間の言う「加齢臭」とやらに近しいものになるのだ。
いつの日か、我が魂の至宝であるこの姪っ子たちから、「おじちゃん、なんだかマンドラゴラみたいな匂いがするー」などと、無邪気に指摘される日が来るのだろうか?
もし、その日が来てしまったら…。
よし、決めた。
その時は、霊峰の奥深くにあるという、一年中薔薇が咲き誇るという泉に、一年ほど籠って心と体を清めよう。
そう、そうしよう。
我は、まだ見ぬ未来の己の威厳のために、固く、固く誓うのであった。
それにしても、この度の地上への旅は、本当に色々な事があった。
思えば、始まりは我が友、伊勢馬場に初めての敗北を喫したことであった。
あの時の屈辱と、それ以上に魂が震えた高揚感。
彼に我が秘蔵の婆娑羅曼荼羅蜥蜴を分け与えたのも、ほんの気まぐれと、好敵手への敬意からであった。
姪たちがこっそり伊勢馬場の後を付いていき、持ち帰ったあの衝撃的な一品に心を奪われなければ、我らが深淵を出ることもなかったであろう。
道中では、姪たちの成長に驚かされた。
炎喰のサラマンダーをいとも容易く狩る姿、そして模擬戦で見せた、我が切り札を以てしても防ぎきるのがやっとであった、あの恐るべき連携攻撃。
我が渾身の作であった『サラマンダーの瞬間氷結造り』が、ただの生臭い氷塊と化した時の、あの気まずい空気。
それを優しくフォローしてくれた姪たちの笑顔。
人間の里では、素朴なクッキーの甘さに驚き、岩猪の姿焼きの香ばしさに舌鼓を打ち、そして生まれて初めて酒に飲まれて醜態を晒した。
砦の前では、ミハエルと名乗る、伊勢馬場とはまた質の違う強者との死闘もあった。
我が未来視をことごとく見切り、伸縮自裁の棒で攻撃してきた。
その身に秘めた闘気は、我にもそれ相応の覚悟をさせたほどだ。
その傍らで、得体の知れない猿が、あたかも観劇でもするかのように団子を頬張り、我が姪たちにバナナを分け与えていた光景も忘れられぬ。
ただ「美味」を求めて『住処である深淵』を出たはずが、神竜との戦いで『虚無という名の深淵』を覗き込み、そしてジャン=ピエール殿との出会いで『料理という名の深淵』を体験することになった。
永劫とも思える時を戦いに明け暮れてきたというのに、このわずか数日で、我は世界の広さと、己の小ささを知る事になった。
そして、最後に手に入れたもの。
それは、料理と絆が織りなす無限の可能性。
頭上では、姪っ子たちがジャン殿から賜った包丁をキラキラと輝かせながら、次に深淵で何を料理するか、楽しそうに話に花を咲かせている。
よし、おじちゃんは決めたぞ!
この数日で得た感動を、他の者にも味わわせてやりたい。
我が友、伊勢馬場とジャン=ピエール殿に与えてもらったこの温もりを、今度は我が、誰かに与える番だ。
我は、人間たちが営むという『レストラン』に、手を、いや脚を出してみようと思う。
「どうだ、お前たち」
我は姪たちに語りかける。
彼女たちは、話をやめて、キラキラとした二十四の瞳で、こちらをじっと見つめている。
「あの時感じた感動を、もっと他の者にも!あの時感じた絆の力を、もっと他の者たちと!どうだ?お前たち、我と共に開いてみないか?そうだな、店の名は…『深淵レストラン』とでもしようか!どうだ!アン、ドゥ、トロワ!お前たち、我と一緒にやってみないか!」
「「「うんっ!!やるぅーーーっ!!!」」」
三人の元気な声が、夕暮れの森に高らかに響き渡った。
我らの新たな、そして途方もない冒険が、今、始まろうとしていた。
【深淵マンドラゴラ】
評価:★★★★☆(美味いが覚悟が必要)
獣たちの怨念を含んだ深淵の特定の土壌にしか育たない、人型の根を持つ植物。
ひと齧りすれば、魂の芯を焦がすような強烈な香りが脳天を突き抜け、内側から力が漲るような感覚に襲われる。
その身には、あらゆる腐敗を浄化し瘴気すらも祓うという聖なる力を秘めているが、その代償として、食した者の体からは翌日、深淵の土と古の獣が混じり合ったような、抗いがたいほどに香ばしい、しかし娘たちからは絶望的に嫌われる匂い(通称:おじさんの香り)が立ち上る。
多感な娘を持つ父親にとっては、まさに諸刃の剣と言うべき一品。




