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深淵の蜘蛛の深淵レストラン  作者: カニスキー
第一章 深淵レストラン開店前夜
19/29

019:深淵の蜘蛛と【忘却の笠(ぼうきゃくのかさ)】

019:深淵の蜘蛛と【忘却のぼうきゃくのかさ


 すがすがしい!

 実に、すがすがしい気分だ!


 古き皮を脱ぎ捨て、生まれ変わった我が身は力に満ち、感覚は研ぎ澄まされ、世界の全てが祝福の光に満ちているかのようだ。

 あたりを見回すと、我が心の至宝、アン、ドゥ、トロワが、こちらにピョンピョンと飛んでくる。

 そして、いつもの指定席である我の頭に飛び乗ると、脱皮したてでまだ柔らかい我が剛毛に、その小さな顔をうずめて歓喜の声を上げた。

「おじちゃんの匂い…なんだかドキドキしちゃう…」

「この柔らかさ…クセになりそう…」

「もっと…もっと顔をうずめていたい…」


 …我が姪たちの性癖が少々心配にならぬでもないが、まあ良い。


 それよりも、と我は洞窟の奥に控えていた二人の恩人に向き直り、我が永い生の中でも数えるほどしかしたことのない、心からの敬意を込めて、深く、深く頭を下げた。

「伊勢馬場、ジャン=ピエール殿。この御恩、終生忘れぬ」


 まずは伊勢馬場に視線を送る。

「伊勢馬場。あのアマルガムとの戦い、最後の一瞬、貴様が作った隙がなければ、我は今ここにはおらぬ。礼を言うぞ、我が友よ」

 すると伊勢馬場は、いつもの飄々とした様子で「はて、何のことですかな?」と首を傾げ、アハハととぼけて見せた。全く食えぬ男よ。


 次に、尊敬すべき料理人に向き直る。

「そして、ジャン=ピエール殿。貴殿の料理は、我が魂を絶望の淵から救い出してくれた。言葉もないほどの、素晴らしい料理であった」

「とんでもない。お礼を申し上げますのは、私の方でございます」

 ジャン=ピエールは、その礼儀正しい手つきでコック帽を掴んで胸に当て、深く頭を下げた。

「先日、あなた様にご提供いただいた『アンギャラス・マチュアード』(婆娑羅曼荼羅蜥蜴の熟成体)のおかげで、私は我が主の名誉と、私の料理人としての誇りを守ることができました。本当に、ありがとうございました」

 なんと誠実な男であろうか。


 我は、この二人に何か礼をせねばと考えた。

(…我が秘蔵の『涙晶石るいしょうせき』を分け与えるか?いや、あれは持ち主の強い悲しみに共鳴して、辺り一帯を吹き飛ばす爆弾宝石だ。料理人の繊細な指が吹き飛んでしまう。ならば『忘却のぼうきゃくのかさ』は…うむ、あれは一口食せば、最も大切な思い出と引き換えに絶品だという、食の探求者にとってはあまりにも残酷なキノコ。困ったな、このような事態になるとは思わず、めぼしい土産は持ってきておらなんだ)


 仕方なく、我は懐から、深淵で暇な時になんとなく集めた宝石類を、ジャラジャラと取り出した。

「ジャン=ピエール殿、まずは貴殿に。大したものではないが、受け取ってほしい」

 その瞬間、ジャンの顔がサッと青ざめた。

「お、お言葉ですが、王よ!そのようなもの、滅相もございません!ここに並ぶ宝石の一つ一つが、城一つを余裕で買えてしまうほどの…!とても、とても受け取れません!」


 彼は必死に首を横に振ったが、ふと、その視線が宝石の山の中の一点に留まった。

 それは、他の石に比べて輝きも大きさも劣る、ただの小さな青い石であった。

「…もし、もしもお許しいただけるのであれば、王よ。私は、この石を頂戴できないでしょうか? 実は、年頃の娘がおりまして…その、婚約指輪に、と…」

「なんと、そのようなもので良いのか?」

 我の問いに、ジャンは「はい、これが良いのです」と、心から嬉しそうに微笑んだ。


 欲のない者よ。

 やはり、道を極めた職人とはこうも違うものか。

 ふむ、娘の婚約指輪と申したな、こっそり石に特別な結界の式を組み込んでおこう、一度だけだが持ち主を守って代わりに砕ける感じの奴、このくらいなら許されるであろう。


 今度は伊勢馬場に振り返った。

「さて、伊勢馬場。貴様の望みは何だ?」

「いえ、私は先日、王より『見えざる糸』という、望外の品を賜りましたゆえ」

 そう言って、こちらもやんわりと断ってくる。

「そうだ!」

 我はポンと脚を打った。懐から、アマルガムに渡すはずだった手土産を取り出す。

「伊勢馬場、これを貴様にやろう。これは『漆黒金剛』。神竜族が好むという、黒い金剛石よ。一応、あのアホ竜に話を通すための材料として持ってきたのだがな。奴は話も聞かずに襲ってきたゆえ、もはや不要。せいぜいそれを使って、アマルガムをおちょくってやるが良い」

 我の言葉と共に漆黒金剛を手渡すと、伊勢馬場の口元が、本当に、ごく僅かにニィッと歪んだのを、我は見逃さなかったぞ。


 さて、これで万事解決かと思った、その時だった。

 伊勢馬場が、何やらいつになく言いにくそうに、ソワソワとし始めた。

「あの…王よ。まことに、まことに恐縮至極なのでございますが…その、王が先ほど脱ぎ捨てられた、その…『皮』を、頂戴することは叶いませぬでしょうか…?」

「…は?」

 我が脱皮した皮だと?

 それは何というか、人間でいうところの「脱ぎたての下着」のような感覚なのだが…。


「…伊勢馬場よ。貴様、それを一体何に使うのだ?」

 一応、確認はせねばなるまい。

 すると伊勢馬場は、なぜか瞳をキラキラと輝かせながら、こう答えた。

「はっ!実はわたくし、昔からセミの抜け殻や、蛇の抜け殻などを集めるのが趣味でございまして…!」

 ……我は魔獣なのだが。

 しかも、深淵の王なのだが。

 それを、セミの抜け殻と一緒くたにされるのは、思うところが無いわけでもない。

 だが、まあ良い。

 迷惑をかけたのは事実。

 この男の、子供のようにキラキラした瞳を見ていると、断るのも野暮というものか。

 我は、深淵の闇よりも深いため息を一つだけつくと、その奇妙な願いを許可することにしたのであった。



 名残惜しいが、伊勢馬場とジャン=ピエールとの別れの時が来てしまったようだ。

「…して、急ぐ理由でもあるのか?」

 我が問いに、伊勢馬場は少しだけバツの悪そうな、それでいてどこか楽しそうな顔をした。

「はっ。実は、我が主、奥様が、この機を逃す手はないと…アマルガム様の宝物殿に忍び込み、財宝をちょっぴり頂戴する計画を発動なさいまして」

「なんと」

 さすがに、我が友の主の突飛な行動には、驚きを禁じ得ない。

「そのようなことをして、大丈夫なのか?あの短気な蜥蜴のことだ、後が怖いぞ」

「ご安心を。奥様は、このような事態になることを見越して数年前より周到に準備を進め、アマルガム様ご本人より『取れるものなら取ってみろ』との言質もいただいておりますので」

 …なるほど。そうであったか。

 あの時、伊勢馬場の名を聞いたアマルガムの目元が、僅かにピクついた理由が、今、ようやく理解できた気がする。


 そんなわけで、ここで彼らとは別れることになった。

 最後に、とジャン=ピエールが我が姪っ子たちを呼び寄せた。

 そして、それぞれに手入れの行き届いた美しい包丁を一本ずつ、恭しく手渡した。

「僭越ながら。先程の料理の際の手際、なかなかのものでした。皆様が深淵にお戻りになられた後も、もし料理をされるのでしたら、どうぞこちらをお使いくださいませ」

 その瞬間、姪っ子たちは今まで聞いたこともないような、甲高い喜びの声を上げてピョンピョンと飛び跳ねた。

「すごい! これって、ピエールさんの弟子になったってこと!?」とアン。

「この刃物の構造、実に合理的です。ありがとうございます、師匠」とドゥ。

「ピカピカして綺麗…」とトロワ。

 三者三様に、これ以上ないほどの喜びようだ。


 …えっ?ワシのは?

 一瞬だけ、本当にほんの一瞬だけ、我が鉄壁の威厳の隙間から、そんな子供じみた感情が漏れ出してしまった。

 それに気づいたのか、ジャン=ピエールは少しだけバツが悪そうな顔をしたが、「そうだ!」と何かを思いつき、自らが被っていた純白のコック帽を脱ぐと、うやうやしく我に差し出してくれた。

 ははは!これは良い!王の威厳に満ちた我が頭に、この純白の帽子。

 実にシュールで、実に愉快ではないか。


 やはり、ここまでされて手ぶらで帰すのは、深淵の王の名折れというもの。

 我は自慢の糸を使い、誰にも気づかれぬよう、こっそりといくつかの宝石をジャンの荷物の中に忍ばせた。

 …伊勢馬場は、それに気づいておったな。

 こちらを見てニヤリと笑うと、ジャンに見えぬよう、親指をぐっと立てて見せおった。

 まったく、食えぬ奴だ!



【忘却のぼうきゃくのかさ

 評価★★★★★(食べるなら自己責任で)


 深淵の最奥、光すら届かぬ「虚無の森」にのみ自生すると言われる伝説のキノコ。

 その純白の傘は、まるで月光を凝縮したかのような淡い光を放ち、食した者に生涯忘れ得ぬ至高の美味をもたらすとされる。

 しかし、その代償はあまりにも大きい。

 このキノコは、その者が持つ「最も大切な思い出」を一つ、綺麗さっぱり消し去ってしまうのだ。

 食の探求者が、その果てを求めてこれを口にすれば、己が何故、美味を求めていたのか、その根源たる記憶を失い、ただの美食家へと成り下がる。

 あまりにも甘美で、あまりにも残酷な、まさに悪魔の食材である。


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