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深淵の蜘蛛の深淵レストラン  作者: カニスキー
第一章 深淵レストラン開店前夜
17/29

017:深淵の蜘蛛と【心がこもったフルコース】

017:深淵の蜘蛛と心がこもったフルコース


 アビス・ゲートをこじ開けた代償は、想像を絶するものであった。

 我が魂は摩耗し、世界の全てが色褪せて見える。

 姪っ子たちの声は、分厚い壁の向こう側から聞こえるように遠く、肌を撫でる風も、もはや何の感覚ももたらさない。

 そして何より、味覚。あの、我が人生を根底から変えた「美味」という名の感動を、永久に失った。

 これから先、何を食らっても、ただ砂を噛むような虚無が続くだけなのだ。


 これほどの絶望があるのか。


 だが…。

 目の前で繰り広げられる光景は、どうだ。

 我がために、矮小なるはずの人間と、か弱いはずの我が姪たちが、種族の垣根を越え、一つの目的に向かって懸命に手を動かしている。

 その姿を見ていると、消えかけていた我が魂の最後の灯火が、ふ、と微かに揺らめいた気がした。


 やがて、洞窟内に芳香が満ち始める。

 野菜の甘い香り、鶏の香ばしい匂い、そして深淵の素材が放つ、どこか懐かしい香り。

 失われたはずの嗅覚の、そのさらに奥深くで、何かが疼く。

 それは、腹の虫が鳴るような単純な食欲ではない。

 生きることへの、本源的な渇望であった。


 調理を終えたジャン=ピエールが、恭しく、しかし絶対的な自信を持って、最初の一皿を完成させた。

 それを、我が友、伊勢馬場が受け取り、ゆっくりと私の前に置いた。


「フルコース『魂の再生』、まずは一皿目。テーマは『希望』。…さあ、お召し上がりください」


一皿目:『洞窟茸のブリュレ 酸漿ほおずきの実のソースを添えて』


 目の前の一皿は、芸術品であった。

 トロワが集めた「洞窟茸」の濃厚な香りを纏ったクリームブリュレ。

 その表面は、香ばしい焦げ目のついたキャラメルで薄く覆われている。

 そして、その脇に添えられているのは、アンが集めた、あの「酸漿ほおずきの実」を煮詰めて作った、宝石のように輝くルビー色のソース。

 …酸漿か。

 我に嘘をつかせ、姪たちを泣かせた、絶望の味。

 だが、今の我には、味など感じられぬ。躊躇う理由もない。


 震える脚で、フォークを手に取る。その一口を、口に運んだ。

 砂を噛むような無味の世界。…のはずだった。

 瞬間、脳天を雷が直撃したかのような衝撃が走った!

 なんだ、これは…!?

 舌が、痺れる。

 キャラメルのほろ苦さと香ばしさ。

 洞窟茸のクリーミーで濃厚なコク。

 そして、後から追いかけてくる、あの酸漿の実の鮮烈な酸味と、それを優しく包み込む甘み…!

 味が、する。

 味が、わかるのだ!

 閉ざされ、錆びついていたはずの味覚の扉が、無理やりこじ開けられる。

 あまりに複雑で、あまりに暴力的な美味の奔流が、魂の芯へと直接流れ込んでくる。

「あ…あ…」

 声にならない声が漏れる。


 これは、ただの料理ではない。

 絶望の記憶を、希望の光へと変えるための、祝福の儀式。

 我は、もう一口、また一口と、無心で皿の上の芸術をむさぼった。

 失われたはずの『味覚』が、今、確かにここに戻ってきたのだ。


二皿目:『深淵と大地のコンソメ・アンフュゼ』


 一皿目の衝撃が冷めやらぬうちに、次の一皿が運ばれてくる。

「二皿目のテーマは『癒やし』でございます」

 伊勢馬場が、静かにスープ皿を置いた。


 ドゥが捕らえた「川魚」と彼の「鶏ガラ」。

 大地の命が溶け込んだ、一滴の濁りもない黄金色のスープ。

 立ち上る湯気と共に、ふわりと鼻腔をくすぐる豊かな香り。

 それは、色褪せていたはずの世界に、確かな輪郭を与えるかのようであった。

 スープを、一口すする。

 温かい。

 その温かさが、凍てついていた魂を、ゆっくりと、優しく溶かしていくのが分かった。

 味は、限りなく純粋で、深く、そして優しい。

 川魚の繊細な旨味、鶏ガラの力強いコク。

 それらが争うことなく完璧に調和し、体の隅々へと染み渡っていく。

 ふと気づけば、遠くに聞こえていたはずの姪っ子たちの息遣いが、すぐそばで鮮明に聞こえる。

 洞窟の岩肌を伝う水の滴る音が、音楽のように心地よい。

 視界を覆っていた靄が晴れ、目の前のスープの黄金色が、何よりも美しく輝いて見えた。


 ああ、そうか。


 我は、味覚だけでなく、この世界の彩りさえも見失っていたのか。

 戻ってきたのは、味覚だけではない。この世界と我とを繋ぐ、五感の全てであった。


三皿目:『深淵海鼠と川魚のパイ包み焼き “二つの海の祝福”』


「三皿目のテーマは『覚醒』」

 ジャン=ピエールが、厳かに告げる。

 次に現れたのは、こんがりと焼き上げられた、魚の形のパイ包み焼き。


 その美しい焼き色は、それ自体が食欲をそそる芸術だ。

 ナイフを入れると、サクッという小気味良い音が響き、中からバターとハーブの芳醇な香りと共に、湯気が立ち上った。

 パイ生地の中には、我が故郷の恵み「深淵海鼠」と、姪が捕らえた「川魚」の白身が、寄り添うように詰められている。

 一口、頬張る。

 サクサクのパイ、ふっくらとした川魚の身、そして、コリコリとした深淵海鼠の力強い歯ごたえ。

 異なる食感の波状攻撃が、口の中で楽しく踊る。

 トマトの酸味が効いたクリーミーなソースが、それら全てを一つにまとめ上げ、生命力に満ちた祝祭のような味わいを生み出している。

 そうだ、これだ。

 この「食らう」という闘争。

 この「生きる」という実感。

 腹の底から、力が湧き上がってくる。


 無気力に沈んでいた魂が、内側から叩き起こされ、かつての狩人としての本能が、咆哮を上げている。

 もっと、食らいたい。

 もっと、生きたい!


 失っていたのは、五感だけではなかった。

 生きることへの渇望、闘争への本能。それすらも、我は忘れかけていたのだ。


四皿目:『婆娑羅曼荼羅蜥蜴のロティ “魂の息吹”』


「メインディッシュでございます。テーマは『再生』」

 ついに、この一皿が我が眼前に現れた。

 物語の始まりとなった、あの「婆娑羅曼荼羅蜥蜴」。

 完璧な火入れによって、その皮はパリッと香ばしく、身はしっとりとした艶を湛えている。

 切り分けた瞬間、洞窟内に、かつて我が人生を変えた、あの至高の香りが満ち溢れた。

 いや、違う。

 これは、あの時よりもさらに複雑で、奥深く、そして力強い。

 一口、食す。

 瞬間、全身の細胞が歓喜に打ち震えた。

 美味い、という言葉ではあまりにも足りない。

 これは、命そのもの。


 失われたはずの魔力が、魂の芯から沸き上がり、乾いた血管を再び駆け巡る。

 曇っていた八つの魔眼が、世界の理を、時空の果てを、再びクリアに捉え始める。

 力が、戻ってくる。 我は、今、この一皿によって、完全に「再生」したのだ。


五皿目:『集いのフォンダン・オ・ショコラ 木の実と苔のクリームを添えて』


「最後のデザートを。…テーマは、『絆』にございます」

 ジャン=ピエールが、静かに告げた。

 伊勢馬場が取り寄せたという温かなフォンダン・オ・ショコラにナイフを入れると、中から姪っ子たちが集めた木の実を使った、熱いガナッシュがとろけ出す。

 脇に添えられた、トロワの苔から作ったという爽やかなクリームが、その濃厚な甘さに軽やかさを添えている。

 口に運ぶと、チョコレートの優しい甘さと、木の実の香ばしさ、そしてクリームの涼やかな酸味が、渾然一体となって舌の上でとろけていく。


 …温かい。

 ただひたすらに、温かい味だ。

 これまで食してきたどの皿とも違う。

 魂を揺さぶり、力を漲らせるような衝撃的な美味ではない。

 だが、この温かさはどうだ。

 これまで、我は常に一人であった。

 孤独を友とし、力を誇りとしてきた。

 この一皿は、力でも、知識でもない。

 姪っ子たちが、伊勢馬場が、そしてジャン=ピエールが、皆で力を合わせたからこそ生まれた、温かく、そして甘い「絆」という名の、


 我が初めて手にする宝物。


 ふと、頬を何かが伝った。 それは、我が永い生の中で、初めて流す種類の涙であった。




【フルコース『魂の再生』】

 評価:測定不能(Priceless)


 深淵の王の摩耗した魂を救うためだけに作られた、一夜限りの奇跡のフルコース。

 地上の人間と深淵の蜘蛛、本来交わるはずのなかった者たちが、ただ一つの目的のために協力し、それぞれの世界から最高の食材を持ち寄った。

 料理人ジャン=ピエールは、その食材に宿る想いと物語を、その卓越した技術と哲学によって一つのコース料理へと昇華させた。

 それは単なる食事ではなく、『失われた味覚』、『五感』、『生きる力』、『そして王としての威厳』を、一皿ずつ取り戻していく壮大な再生の儀式であった。

 そして、最後の皿で王が手に入れたのは、失ったものではなく、これまで知らなかった『絆』という名の温もり。

 このフルコースは、料理が持つ無限の可能性と、種族を超えた協力が生み出す奇跡を証明した、伝説の一夜として、そこにいた者たちの記憶に永遠に刻まれることになる。


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