017:深淵の蜘蛛と【心がこもったフルコース】
017:深淵の蜘蛛と心がこもったフルコース
アビス・ゲートをこじ開けた代償は、想像を絶するものであった。
我が魂は摩耗し、世界の全てが色褪せて見える。
姪っ子たちの声は、分厚い壁の向こう側から聞こえるように遠く、肌を撫でる風も、もはや何の感覚ももたらさない。
そして何より、味覚。あの、我が人生を根底から変えた「美味」という名の感動を、永久に失った。
これから先、何を食らっても、ただ砂を噛むような虚無が続くだけなのだ。
これほどの絶望があるのか。
だが…。
目の前で繰り広げられる光景は、どうだ。
我がために、矮小なるはずの人間と、か弱いはずの我が姪たちが、種族の垣根を越え、一つの目的に向かって懸命に手を動かしている。
その姿を見ていると、消えかけていた我が魂の最後の灯火が、ふ、と微かに揺らめいた気がした。
やがて、洞窟内に芳香が満ち始める。
野菜の甘い香り、鶏の香ばしい匂い、そして深淵の素材が放つ、どこか懐かしい香り。
失われたはずの嗅覚の、そのさらに奥深くで、何かが疼く。
それは、腹の虫が鳴るような単純な食欲ではない。
生きることへの、本源的な渇望であった。
調理を終えたジャン=ピエールが、恭しく、しかし絶対的な自信を持って、最初の一皿を完成させた。
それを、我が友、伊勢馬場が受け取り、ゆっくりと私の前に置いた。
「フルコース『魂の再生』、まずは一皿目。テーマは『希望』。…さあ、お召し上がりください」
一皿目:『洞窟茸のブリュレ 酸漿の実のソースを添えて』
目の前の一皿は、芸術品であった。
トロワが集めた「洞窟茸」の濃厚な香りを纏ったクリームブリュレ。
その表面は、香ばしい焦げ目のついたキャラメルで薄く覆われている。
そして、その脇に添えられているのは、アンが集めた、あの「酸漿の実」を煮詰めて作った、宝石のように輝くルビー色のソース。
…酸漿か。
我に嘘をつかせ、姪たちを泣かせた、絶望の味。
だが、今の我には、味など感じられぬ。躊躇う理由もない。
震える脚で、フォークを手に取る。その一口を、口に運んだ。
砂を噛むような無味の世界。…のはずだった。
瞬間、脳天を雷が直撃したかのような衝撃が走った!
なんだ、これは…!?
舌が、痺れる。
キャラメルのほろ苦さと香ばしさ。
洞窟茸のクリーミーで濃厚なコク。
そして、後から追いかけてくる、あの酸漿の実の鮮烈な酸味と、それを優しく包み込む甘み…!
味が、する。
味が、わかるのだ!
閉ざされ、錆びついていたはずの味覚の扉が、無理やりこじ開けられる。
あまりに複雑で、あまりに暴力的な美味の奔流が、魂の芯へと直接流れ込んでくる。
「あ…あ…」
声にならない声が漏れる。
これは、ただの料理ではない。
絶望の記憶を、希望の光へと変えるための、祝福の儀式。
我は、もう一口、また一口と、無心で皿の上の芸術をむさぼった。
失われたはずの『味覚』が、今、確かにここに戻ってきたのだ。
二皿目:『深淵と大地のコンソメ・アンフュゼ』
一皿目の衝撃が冷めやらぬうちに、次の一皿が運ばれてくる。
「二皿目のテーマは『癒やし』でございます」
伊勢馬場が、静かにスープ皿を置いた。
ドゥが捕らえた「川魚」と彼の「鶏ガラ」。
大地の命が溶け込んだ、一滴の濁りもない黄金色のスープ。
立ち上る湯気と共に、ふわりと鼻腔をくすぐる豊かな香り。
それは、色褪せていたはずの世界に、確かな輪郭を与えるかのようであった。
スープを、一口すする。
温かい。
その温かさが、凍てついていた魂を、ゆっくりと、優しく溶かしていくのが分かった。
味は、限りなく純粋で、深く、そして優しい。
川魚の繊細な旨味、鶏ガラの力強いコク。
それらが争うことなく完璧に調和し、体の隅々へと染み渡っていく。
ふと気づけば、遠くに聞こえていたはずの姪っ子たちの息遣いが、すぐそばで鮮明に聞こえる。
洞窟の岩肌を伝う水の滴る音が、音楽のように心地よい。
視界を覆っていた靄が晴れ、目の前のスープの黄金色が、何よりも美しく輝いて見えた。
ああ、そうか。
我は、味覚だけでなく、この世界の彩りさえも見失っていたのか。
戻ってきたのは、味覚だけではない。この世界と我とを繋ぐ、五感の全てであった。
三皿目:『深淵海鼠と川魚のパイ包み焼き “二つの海の祝福”』
「三皿目のテーマは『覚醒』」
ジャン=ピエールが、厳かに告げる。
次に現れたのは、こんがりと焼き上げられた、魚の形のパイ包み焼き。
その美しい焼き色は、それ自体が食欲をそそる芸術だ。
ナイフを入れると、サクッという小気味良い音が響き、中からバターとハーブの芳醇な香りと共に、湯気が立ち上った。
パイ生地の中には、我が故郷の恵み「深淵海鼠」と、姪が捕らえた「川魚」の白身が、寄り添うように詰められている。
一口、頬張る。
サクサクのパイ、ふっくらとした川魚の身、そして、コリコリとした深淵海鼠の力強い歯ごたえ。
異なる食感の波状攻撃が、口の中で楽しく踊る。
トマトの酸味が効いたクリーミーなソースが、それら全てを一つにまとめ上げ、生命力に満ちた祝祭のような味わいを生み出している。
そうだ、これだ。
この「食らう」という闘争。
この「生きる」という実感。
腹の底から、力が湧き上がってくる。
無気力に沈んでいた魂が、内側から叩き起こされ、かつての狩人としての本能が、咆哮を上げている。
もっと、食らいたい。
もっと、生きたい!
失っていたのは、五感だけではなかった。
生きることへの渇望、闘争への本能。それすらも、我は忘れかけていたのだ。
四皿目:『婆娑羅曼荼羅蜥蜴のロティ “魂の息吹”』
「メインディッシュでございます。テーマは『再生』」
ついに、この一皿が我が眼前に現れた。
物語の始まりとなった、あの「婆娑羅曼荼羅蜥蜴」。
完璧な火入れによって、その皮はパリッと香ばしく、身はしっとりとした艶を湛えている。
切り分けた瞬間、洞窟内に、かつて我が人生を変えた、あの至高の香りが満ち溢れた。
いや、違う。
これは、あの時よりもさらに複雑で、奥深く、そして力強い。
一口、食す。
瞬間、全身の細胞が歓喜に打ち震えた。
美味い、という言葉ではあまりにも足りない。
これは、命そのもの。
失われたはずの魔力が、魂の芯から沸き上がり、乾いた血管を再び駆け巡る。
曇っていた八つの魔眼が、世界の理を、時空の果てを、再びクリアに捉え始める。
力が、戻ってくる。 我は、今、この一皿によって、完全に「再生」したのだ。
五皿目:『集いのフォンダン・オ・ショコラ 木の実と苔のクリームを添えて』
「最後のデザートを。…テーマは、『絆』にございます」
ジャン=ピエールが、静かに告げた。
伊勢馬場が取り寄せたという温かなフォンダン・オ・ショコラにナイフを入れると、中から姪っ子たちが集めた木の実を使った、熱いガナッシュがとろけ出す。
脇に添えられた、トロワの苔から作ったという爽やかなクリームが、その濃厚な甘さに軽やかさを添えている。
口に運ぶと、チョコレートの優しい甘さと、木の実の香ばしさ、そしてクリームの涼やかな酸味が、渾然一体となって舌の上でとろけていく。
…温かい。
ただひたすらに、温かい味だ。
これまで食してきたどの皿とも違う。
魂を揺さぶり、力を漲らせるような衝撃的な美味ではない。
だが、この温かさはどうだ。
これまで、我は常に一人であった。
孤独を友とし、力を誇りとしてきた。
この一皿は、力でも、知識でもない。
姪っ子たちが、伊勢馬場が、そしてジャン=ピエールが、皆で力を合わせたからこそ生まれた、温かく、そして甘い「絆」という名の、
我が初めて手にする宝物。
ふと、頬を何かが伝った。 それは、我が永い生の中で、初めて流す種類の涙であった。
【フルコース『魂の再生』】
評価:測定不能(Priceless)
深淵の王の摩耗した魂を救うためだけに作られた、一夜限りの奇跡のフルコース。
地上の人間と深淵の蜘蛛、本来交わるはずのなかった者たちが、ただ一つの目的のために協力し、それぞれの世界から最高の食材を持ち寄った。
料理人ジャン=ピエールは、その食材に宿る想いと物語を、その卓越した技術と哲学によって一つのコース料理へと昇華させた。
それは単なる食事ではなく、『失われた味覚』、『五感』、『生きる力』、『そして王としての威厳』を、一皿ずつ取り戻していく壮大な再生の儀式であった。
そして、最後の皿で王が手に入れたのは、失ったものではなく、これまで知らなかった『絆』という名の温もり。
このフルコースは、料理が持つ無限の可能性と、種族を超えた協力が生み出す奇跡を証明した、伝説の一夜として、そこにいた者たちの記憶に永遠に刻まれることになる。