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深淵の蜘蛛の深淵レストラン  作者: カニスキー
第一章 深淵レストラン開店前夜
16/29

016:蜘蛛少女ドゥと【すっぱかった酸漿(ほおずき)の実】

016:蜘蛛少女ドゥと【すっぱかった酸漿ほおずきの実】


 おじちゃんの優しい嘘で、洞窟の空気は冷たく、重たいものになってしまいました。

 姉のアンは泣いてばかりで、妹のトロワは私やアンの後ろに隠れてばかり。

 私も、どうすればおじちゃんを助けられるのか、その答えが見つからずにいました。

 そこに、伊勢馬場さんと、白い服を着た見知らぬ人間が現れたのです。


 ジャン=ピエールさんと名乗ったその男の人の言葉は、大袈裟なものではありませんでしたが、静かながらも揺るぎない覚悟が込められていました。

 それは、この洞窟に垂れ込めていた絶望の空気を、まるで夜明けの光がゆっくりと闇を払うかのように、優しく、しかし確実に変えていく力がありました。


「王よ、お初にお目にかかります。私はジャン=ピエール。貴殿に受けた大恩、この命に代えてもお返しする覚悟で参りました」

 男の人はそう言うと、おじちゃんの前に恭しく跪き、その白魚のような指を、傷ついた外骨格へとそっと伸ばしました。

 触診。

 でも、それはお医者さんのものとは全く違いました。傷の深さ、魔力の枯渇具合、そして魂の震えそのものから、今おじちゃんに必要な『味』と『物語』を読み解くかのような、探究者の指でした。

「…なるほど。これは、ただの傷ではございませんね。魂そのものが、味わうことを忘れてしまっている。ならば、思い出させていただきましょう。食事がもたらす、生きる喜びそのものを」


 ジャン=ピエールさんは静かに立ち上がると、私たち全員を見渡し、穏やかな、しかし芯の通った声で言いました。

「料理とは、調和。最高の料理を作るには、最高の食材の調和が不可欠です。どうか、皆さんが持つ、最高の食材を見せていただけませんか」

 その言葉に、最初に動いたのはトロワでした。

 彼女は、洞窟の湿った岩陰に生える、クリーミーな味わいの「洞窟茸」を差し出しました。

 次に私は、近くの川で捕らえた、小さな「川魚」を。

 最後に、アンが、少しだけ迷った末に、彼女の小さな手の中にあるものを差し出しました。

 それは、おじちゃんの嘘を暴いてしまった、あの真っ赤な「酸漿の実」でした。

 アンは、おじちゃんの悲しそうな顔を思い出したのでしょう、俯いたまま、ごめんなさい、とでも言うように、それをそっと差し出しました。

 ジャン=ピエールさんは、それらを一つ一つ手に取り、香りを確認し、指で弾き、その品質を確かめていきます。

「素晴らしい。皆さんの思い、確かに受け取りました。ですが、これだけでは足りません」


 彼の視線が、伊勢馬場さんへと向けられます。

 伊勢馬場さんは心得たとばかりに頷き、どこからか取り出した大きな袋の中から、自身が調達してきた食材を広げ始めました。

 領内で最も上質な鶏ガラ、風味豊かな香味野菜、そして料理の仕上げに必要不可欠なハーブ類。

 地上の食材が並びます。でも、ジャン=ピエールさんはまだ何かを探しているようでした。


 ふと、私はおじちゃんの瞳を見ました。今まで、まるで深淵の水の底のように淀んでいたその瞳の奥に、弱々しいながらも、確かな意志を宿した美しい光が灯ったのを、私は見逃しませんでした。

 おじちゃんを助けたいという私たちの想いが、そして、自分が認めた人間である伊勢馬場さんと、このジャン=ピエールさんという二人が自分の為に動いてくれたその事実が、おじちゃんの心を動かしたのかもしれません。


「…待て」

 おじちゃんは、か細い声で彼らを制しました。そして、懐に隠し持っていた、神竜への手土産にするはずだった包みを、ゆっくりと差し出しました。

「…我が故郷の恵みだ。これも、使うが良い」

 包みを開くと、中から現れたのは、黄金色に輝く「深淵海鼠しんえんなまこ」と、物語の始まりとなったあの「婆娑羅曼荼羅蜥蜴ばさらまんだらとかげ」の若い個体でした。

 洞窟内に、どよめきが走ります。

 姉妹たちは、おじちゃんが自ら動いたことに驚き、ジャン=ピエールさんは伝説級の食材の登場に目を見張りました。


 全ての食材が出揃いました。

 深淵の恵みと、大地の恵み。

 ジャン=ピエールさんは、それらを前にして、深く一度頷きました。

 彼は目の前の食材たちを、ただの「材料」として見ているのではありませんでした。一つ一つの食材が持つ物語、集めてきた者たちの想い、そしてそれらが合わさった時に生まれるであろう奇跡の可能性を、彼の魂そのもので感じ取り、最高の「一皿」へと昇華させるべく、深く、深く思考を巡らせているようでした。

 その瞳には、これから始まる闘いへの、静かな決意が燃えていました。


「…献立は決まりました。皆様、お力をお貸しください。王に、最高の食卓を届けましょう」

 その号令は、一つの儀式の始まりを告げる鐘の音のようでした。

 洞窟は、瞬く間に神聖な厨房へと姿を変えたのです。

 伊勢馬場さんが手際よく携帯式の魔導コンロを設置し、炎を灯すと、洞窟の陰影が生き物のように揺らめきます。

「アンさん、あなたはこの鶏ガラの下処理をお願いできますか。美味しいスープを作るには、一番大事な仕事です」

「ドゥさん、あなたはこの川魚を。命への感謝を込めて、一分の無駄もなく」

「トロワさん、あなたはこの茸を。その繊細な指先で、土の香りを損なわぬように」

 ジャン=ピエールさんの指示は、私たちを子供扱いするのではなく、一人の料理人として尊重してくれる、温かいものでした。

 だから、言葉が通じぬはずの私たちにも、不思議と正確に伝わってきます。


 アンは、元気いっぱいに鶏ガラを布で磨き上げ、私は一生懸命がんばって魚を三枚におろし、トロワは茸の一つ一つの汚れを、まるで宝石を扱うかのように優しく取り除いていきます。

 伊勢馬場さんは、ジャン=ピエールさんの呼吸を読み、彼が次に何を欲するかを完璧に予測して、野菜を刻み、ハーブを準備します。

 その無駄のない動きは、かつておじちゃんと死闘を繰り広げた武人のそれでした。


 ワイワイと、しかし誰もが真剣に、一つの目標に向かって手と脚を動かします。

 言葉は交わさずとも、まな板を叩く音、水を運ぶ音、そして食材を慈しむ心が、一つの心地よい協奏曲を奏でています。

 人間も、蜘蛛も関係ありません。

 そこには、ただ「愛する者のために、最高の料理を作りたい」という、温かく、そして力強い想いだけがありました。

 その光景を眺めているうちに、おじちゃんの魂を覆っていた冷たい闇が、ほんの少しだけ、でも確実に少しずつ温かな光が戻ってきている気がしました。


 やがて、洞窟内に、今まで嗅いだことのない、複雑で、そして抗いがたい芳香が満ち始めました。

 まず野菜の甘い香りが立ち、次に鶏の香ばしい匂いが重なり、最後に深淵の素材が加わった瞬間、未知でありながらどこか懐かしい、魂の故郷を思わせる香りが全てを包み込んだのです。

 全ての想いと、全ての恵みが、一つの皿の上で結晶となってキラキラ輝きをましていきます。

 そして、ついにその一皿が、私たちみんなの祈りと共に、おじちゃんの眼前に運ばれてきました。



酸漿ほおずきの実】

 評価:★☆☆☆☆(種類によっては★2~4)


 花言葉は**「心の平安」と「偽り」**

 色鮮やかな見た目とは裏腹に、その果肉は強い酸味を持つ。

 食用に育てられている品種は糖度が高く、まるで甘いフルーツのような味がするという。

 元気を出してほしいという純粋な願いが、結果として残酷な真実を暴き、慈愛と絶望という、あまりに矛盾した二つの感情を一つの食卓にもたらした罪深き果実。

 しかし、その強烈な酸味は、最高の料理人の手にかかれば、絶望の味を希望の輝きへと変える、最高の隠し味となり得る可能性を秘めている。


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