014:深淵の蜘蛛と【ただの水】
014:深淵の蜘蛛と【ただの水】
アマルガムの口内に、世界の全てを無に帰すほどの、絶望的な光が収束していくのが見えた。
我が結界が、光輪の神聖な波動の前に次々と消し飛ばされていく。
このままでは、我も、そして離れた場所で見守る姪っ子たちも、この神罰の光に焼き尽くされる。
思考が灼ける。
万策尽きた。
いや、一つだけ。ただ一つだけ、残されておる。
この我ですら、その存在を忌避してきた禁断の切り札が。
(…ここでこのカードを切るしかあるまい)
覚悟を決める。
我が八つの魔眼。
そのうち七つは、この世界の理の内側を見通すためのもの。
だが、最後の一つ――固く閉ざされたままの第八の魔眼だけは違う。
それは、時空の果て、因果の向こう側――『虚無』へと繋がる禁忌の瞳。
別次元への干渉。
アマルガムの光輪がこの現実世界への絶対的な干渉であるならば、我が第八の魔眼は、その理そのものを外側から破壊する、唯一にして究極の対抗策。
だが、この術は未完成だ。
一度こじ開ければ、我が魂魄にどれほどの負荷がかかるか計り知れぬ。
一度しか放てない、諸刃の剣。
そして何より、この禁忌の門を開くには、時間が、あまりにも時間が足りない!
脳裏に、姪っ子たちの屈託のない笑顔がよぎる。
あの温かな日々を、こんな所で終わらせてなるものか。
たとえこの魂が砕け散り、虚無の彼方へ消えようとも、構わぬ!
「――間に合えッ!」
我は、己の魂そのものを薪とし、無理やり第八の魔眼をこじ開けようと試みる。
ギシリ、と頭蓋の内側から軋む音が響き、経験したことのない激痛が全身を貫いた。
「滅びよ、蟲けら!」
アマルガムが勝利を確信し、神罰の光を解き放とうとした、その刹那。
奴の巨躯が、ほんの僅かに、しかし確かに揺らいだ。
収束していた光が、一瞬だけ乱れる。
まるで、見えざる何かが干渉したかのように。
(…今のは?)
神の気まぐれか、あるいは運命の悪戯か。
絶望的だった時間の差が、奇跡的に埋まったのだ。
だが、アマルガムは即座にその一瞬の遅れを取り戻さんと、神罰の光の収束を再加速させる。
それに応じ、我もまた、その生まれたコンマ数秒の隙を逃さじと、第八の魔眼の術式――『虚無関数』を、魂が焼き切れるほどの速度で組み上げていく。
もはや、それは物理的な速度の競い合いではなかった。
思考という時間すら存在しない魂の領域で、二つの絶対法則が互いの存在を賭けた演算競争を繰り広げている。
どちらが先に、相手の存在を「解なし」と証明する最終式を完成させ、運命の撃鉄を落とすのか。
もはや、未来視ですらその結果を映し出すことはできなかった。
「ぬ、おおおおおおっ!」
我は、魂の全てを、未来の全てを、この一撃に注ぎ込む。
全身の魔紋が脈打ち、我も知らぬ禍々しくも美しい紋様へと変貌していく。
もはや、我が意思ではない。
闘争の本能が、生存への渇望が、我が身を突き動かす。
「我が第八の魔眼よ開眼せよ! 深淵よ、、、開け!」
神罰の光線と、我が開きかけた『虚無への亀裂』が、互いを喰らうべく真正面から激突した。
瞬間、世界から音が消えた。
現実と虚無。
創造と消滅。
二つの相容れぬ絶対法則が衝突し、凄まじいエネルギーの嵐となって暴走を始める。
光が闇を喰らい、闇が光を飲み込む。
その奔流は、やがて一つの巨大な光球となって膨張し、全てを飲み込まんと、ゆっくりと、しかし確実にこちらへ迫ってくる。
もはや、一歩も動けぬ。
八本の脚は感覚を失い、全身の魔力は枯渇しきっている。
我が魂の全てを注ぎ込んだ一撃の後には、何も残ってはいなかった。
来るべき破滅を、ただ待つのみ。
その時、我が脳裏に、走馬灯のように記憶が駆け巡り始めた。
幾千の夜、深淵の闇で死闘を繰り広げた日々。
孤独を友とし、殺戮を至上の喜びとしていた、血と闇に塗れた永劫の時。
だが、その色褪せた記憶は一瞬で流れ去り、ふと、場面が変わる。
木漏れ日の中、我が背ではしゃぐ姪っ子たちの声。
自信作が失敗作であった『サラマンダーの瞬間氷結造り』を、姪っ子たちが必死に言葉を選びながら食べてくれた、あの困ったような、優しい笑顔。
『そこらの木の実のシャーベット』を頬張り、「おいしーい!」ときゃっきゃとはしゃいでいた、あの無邪気な歓声。
村で食べた『燻し木香る岩猪の姿焼き』の忘れられない味と、酒に酔って醜態を晒した後の、姪っ子たちからの厳しい、しかしどこか愛情のこもったお説教。
…永劫にも思えた深淵での日々が、まるで遠い過去のようだ。
それに引き換え、この数日の、なんと色鮮やかで、満ち足りた時間であったことか。
(あぁ、もっと…もっと、お前たちと…美味いものを、食べたかった…)
光の壁が、目前に迫る。
「…アン、…ドゥ、…トロワ……すまぬ…」
我が最後の言葉は、誰に届くこともなく、絶対的な光に飲み込まれ、意識は完全に途絶えた。
どれほどの時間が経ったのか。
やがて、光と闇の奔流が収まった戦場には、信じがたい光景が広がっていた。
大地はえぐれ、クレーターの中心は、あらゆる物質が消滅したかのように滑らかになっている。
空には巨大な穴が空き、そこから見える空は、昼とも夜ともつかぬ、奇妙な色に染まっていた。
「…ゲホッ、ゴホッ…!」
アマルガムは、片翼を失い、全身の鱗を焼け爛れさせながら、辛うじてその場に留まっていた。
頭上の光輪も、明滅を繰り返し、今にも消えそうだ。
満身創痍のアマルガムは、憎悪に満ちた目で周囲を見渡すが、そこにあの巨大な蜘蛛の姿も、その眷属の姿も、どこにもなかった。
「…逃したか、蟲けらめ。だが、この屈辱…決して忘れぬぞ…」
虚空に響くのは、傷ついた神の、復讐を誓う声だけであった。
暗く、冷たい闇の中を、どれほど漂っていただろうか。
不意に、温かな光が瞼の裏を照らし、誰かが必死に我を呼ぶ声が聞こえる。
重い、重い瞼を、ゆっくりとこじ開ける。
ぼやけた視界が、徐々に焦点を結んでいく。
最初に映ったのは、心配そうにこちらを覗き込む、涙で潤んだ二十四個の美しい瞳だった。
「「「おじちゃん…!」」」
アン、ドゥ、トロワ。
我が魂の至宝たちが、泣きじゃくりながら、その小さな体で我に必死にしがみついていた。
そして、その向こう側にもう一人。
どこにでもいるような凡庸な顔つきをした男が、静かにこちらを見ていた。
我が友、伊勢馬場。
かつて深淵の底で、互いの全てを賭して死闘を演じた好敵手だ。
我は、姪っ子たちの声に応えようとしたが、声が出ない。
それどころか、体が鉛のように重く、節々が軋むように痛む。
ふと、己の脚に目をやると、そこには信じがたい光景が広がっていた。
あの神罰の光に焼かれ、砕け散ったはずの外骨格は、あちこちに深い亀裂が走り、黒い体液が乾いた跡が生々しく残っている。
特に酷い箇所は、まるで爆心地のように砕け散っており、我ながら、よくぞこの身体で生きておれたものだと、内心で呆れるほどであった。
だが、その致命傷となりかねない亀裂の数々には、驚くほど見事な手際で、純白の包帯が巻かれていた。
しかも、その結び目は、戦場にはあまりに不似合いな、やけに可愛らしいリボン結びだ。
誰の仕業だ。
いや、この場にいて、これほどの芸当ができる者は一人しかおらぬ。
「お目覚めですかな、我が友よ。いやはや、神獣様相手に大立ち回りでしたな。感服いたしました。こちらをどうぞ。」
伊勢馬場はそう言うと、どこからか取り出した水筒の蓋を開け、流れるような所作で、しかし有無を言わさぬ力強さで我が口元に突きつけた。
ドクドクと流れ込んでくる液体。
それは、ただの水であった。
だが、その水は、今まで飲んだどんな霊峰の清水よりも、どんな極上の蜜よりも、魂に染み渡るほど美味かった。
【ただの水】
評価★★★☆☆(状況によっては★5を超える)
どこにでもある、ただの水。
しかし、どのような状況で飲むかによって、その価値は無限に変化する。
特に死にかけた時に飲む水は、乾ききった魂を潤し、生きる力を与えてくれる、まさに命の水と言えよう。