013:深淵の蜘蛛と【深淵海鼠(しんえんなまこ)】
013:深淵の蜘蛛と【深淵海鼠】
天を覆う巨大な影、神竜アマルガム。その圧倒的な存在感は、場の空気を、世界の理そのものを支配していた。白銀の鱗が陽光を弾き返し、神々しい光輪のようにその巨体を縁取っている。
その瞳はただ冷徹に、この深淵の王たる我を見据えていた。
「よくやった、ミハエルよ。もう下がって構わぬぞ」
静かな、しかし絶対的な命令。ミハエルは天を仰ぎ、何かを言いかけたが、その言葉は声になることはなかった。
いつの間にかその隣にいた猿が、ミハエルの髪をぐいと引っ張りながら「ウキキ!」とでも言うように、彼を安全圏である茣蓙へと引きずっていった。
やがて、天から声が降ってくる。
「さて、地の底で蠢く蟲の王よ、何故我が領土を犯す?」
静かな問い。
だが、その声色に滲む傲岸不遜な響きが、我が逆鱗の端っこをかすかにかすった。
ふむ、少しくらい意趣返しをしても罰は当たるまい。
「おどろかせて済まない、空飛ぶ蜥蜴の王よ。貴殿の縄張りを奪うつもりは糸の先程にもない。ただ、我は我の友に会いに来たのだ」
アマルガムの双眸が、僅かに細められたのを我が八つの複眼は確かに捉えたぞ。
こやつ、もしや煽り耐性が低いのかもしれぬな。
「ほう、地の底で寂しく蠢く蟲の王に、我が領土の中に友がおるとも思えぬがな…」
なんだと。
まるで我が友達のいない引きこもりであるかのように言葉を被せてきおった。
べ、別に友達がいないわけではないぞ!
我ら蜘蛛の一族は、雄が希少な故、同性の友ができにくいだけなのだ!
我に近づこうとした雌の蜘蛛どもは、ことごとく姉上の厳しすぎる審査という名の試練に耐えきれず、心的外傷を負って、フラッシュバックや感情の麻痺を起こし、二度と会いに来てはくれなくなるだけで
…あれ?もしかして我、本当に友達がいないのでは…?
「いや、万古の輝きを独占せし翼持つ蜥蜴の王よ!我にも友はおるぞ、貴殿は知らぬか?伊勢馬場という人間の男なのだがな」
心に負った僅かな傷の意趣返しだ。
竜族は金にがめついと聞く。財宝を溜め込む方がよほど陰険ではないか。
アマルガムの瞳が、ピクピクピクと三度、痙攣した。
「伊勢馬場…と、申したか?そうか!またあの男が何かやらかしたのだな!!」
む、財宝への執着を煽られたわけではないのか。
それにしても伊勢馬場よ、この神竜にこれほどの顔をさせるとは。
なかなかやるではないか。ますます気に入ったぞ!
アマルガムは一度深く息を吸い、再び絶対者としての威光を目に宿す。
「まあ、良い。深淵の王よ、いかなる理由があろうと、貴様が我が領に入ることは許さぬ。とくと去れ。今、尻尾を巻いて逃げるのなら、我は竜の誇りにかけて見逃してやろうぞ」
いちいち癪に障る奴だ。お前こそ友達がおらぬのだろう!
まあ、良い。
伊勢馬場に会うために、神竜がちょっかいを出してくるのは想定の範囲内。
できれば対話で済ませたかったが、この雰囲気ではどうやら無駄らしい。
せっかく深淵の珍味「深淵海鼠」や、竜族が好むという「漆黒金剛」を手土産に持ってきたというのに。
この強欲フライング蜥蜴め、お前は自らの心の醜さで、せっかく手に入る幸運を逃したのだ!
バーカ!バーカ!
ならば、力ずくで通るまで。
我が姉上の十八番は竜殺し。
その血族たる我もまた、今日、その称号を得る時が来たようだ。
返礼とばかりに、鋭利な魔糸をアマルガム目掛けて投擲する。
アマルガムは首を僅かに傾け、不可視であるはずの我が糸をこともなげに避けてみせた。
その瞳には、先ほどまでの侮りは消え、純粋な敵意の光が宿っていた。
「愚かな蟲けらめ!」
アマルガムの周囲の空間が歪み、太陽の如き輝きを放つ光球が、無から有へと生まれ出る。
「滅びよ!」
号令と共に、十数個の光球が流星群となって我に殺到する!一つ一つが、城壁を容易く砕くほどの熱量と破壊力を秘めている。
だが、甘い!
八本の脚で大地を蹴り、宙を舞う。
同時に、数百、数千の魔糸を戦場に張り巡らせ、巨大な蜘蛛の巣を編み上げた。
光球は巣に触れた瞬間、その運動エネルギーを粘着性の糸に奪われ、勢いを失い、やがて爆発することなく霧散していく。
「小賢しい!」
天を覆う巨体には似合わぬ、驚異的な速度。
アマルガムは光球の応酬を打ち切ると、翼を一度羽ばたかせただけで、音もなく我が懐へと滑り込んできた。
距離の概念が焼き切れる。
遠距離戦から、回避不能の超近接戦闘へと、戦局は一瞬にして書き換えられた!
神速。眼前に迫るは、山脈すらも一撃で砕くという白銀の爪。
八本の脚を瞬時に交差させ、盾として受け止める。
キィィン!と、我が外骨格とアマルガムの爪が激突し、甲高い悲鳴を上げた。
凄まじい衝撃が全身を駆け巡り、脚の付け根が軋む。
「遅い!」
アマルガムの嘲笑と共に、第二、第三の攻撃が襲い来る。
爪、牙、そして岩をも打ち砕く尾の一撃。
それら全てを、八本の脚と、瞬時に紡ぎ出す糸の盾で捌き切る。
一瞬の油断が死に直結する、思考の追いつかぬ攻防。
だが、ただ受け止めるだけが蜘蛛の戦いではない!
攻撃の合間に生じるコンマ数秒の隙を突き、粘着糸を至近距離から放つ!アマルガムの顔面に張り付かせ、視界を奪う。
「鬱陶しい!」
アマルガムは頭を振り、神聖な魔力で糸を焼き切るが、その一瞬で我は大きく後方へ跳躍し、距離を取る。だが、奴は追撃の手を緩めない。
「逃がすか!」
今度は奴が空間を駆ける。
空を飛ぶのではない。
空間そのものを足場とし、まるで透明な大地を蹴るように、縦横無尽に迫りくる。
上下左右、全ての方向が奴の攻撃ルートと化した。
我もまた、自ら放った糸を足場に、三次元空間を舞う。
巨大な蜘蛛と白銀の竜が、空という広大な舞台で、互いの位置を読み、死角を突き、虚実の駆け引きを繰り広げる。
空中に幾重にも張られた我が糸が、奴の突進を防ぐ罠となり、同時に我が移動のための道となる。
アマルガムがその白銀に輝く鱗を空に撒く、それぞれの鱗が光の軌跡を残しながら、それぞれが己の意思を持つかの如く我を追尾する。
それを紙一重でかわしながら、こちらもまた、硬質化させた糸の槍を、奴の急所である逆鱗めがけて撃ち込み続ける。
互いの攻撃が掠め、火花が散り、衝撃波が幾度となく周囲の地形を抉り取っていく。
もはや、ただの力比べではない。
速度と、予測と、空間把握能力の全てを賭した、極限の死闘。
魔力の量が絶対ではない!
爪や牙の鋭さが絶対でもない!
我は蜘蛛、世界の理ですら複雑に織り込んだ糸で絡めて見せよう。
少しずつ、だが、確実にアマルガムの運命を絡めとっていく。
焦れたのはアマルガムの方だった。
「…よかろう。我が真の力、その身に刻み、深淵の闇で永遠に悔いるがよい!」
アマルガムの咆哮が天を裂く。
その額上、何もない空間から黄金の光が生まれ、神々しい円環を描き出す。
それは、まるで神話に語られる天使が戴くが如き光輪となって、その頭上に静かに浮かんだ。
光輪が回転を始めると、世界の法則が書き換えられていくのが肌で感じられた。
我が張り巡らせた魔糸が、光輪から放たれる神聖な波動に触れただけで、存在そのものを抹消されていく!
「なっ…!?」
我が術が、通じぬだと!?
「終わりだ、蟲の王! 神罰の光に抱かれて消えよ!」
光輪から、無数の光の槍が雨のように降り注ぐ!一本一本が、先ほどの光球とは比較にならぬ速度と貫通力を持つ。
咄嗟に八層の多重結界を展開するが、光の槍は第一、第二の結界を紙のように貫き、第三、第四の結界に深々と突き刺さり、亀裂を生じさせる。
防戦一方。後手に回る。先ほどまでの拮抗が嘘のようだ。
「ぐ、ぬぅぅっ…!」
光輪は、ただ攻撃を放つだけではない。
それはアマルガムの絶対支配領域の象徴。
その光の下では、我が魔力は著しく減衰し、未来視の精度すらも鈍っていく。
数発の光の槍が結界を突破し、我が外骨格を掠める。灼熱の痛みが走り、黒い体液が滲み出た。
アマルガムは、勝利を確信したのだろう。
その巨大な顎が、ゆっくりと開かれていく。
口内に、世界の全てを無に帰すほどの、絶望的な光が収束していくのが見えた。
あれは、まずい。
あれを食らえば、この我とて――。
深淵海鼠
評価:★★★★★(伝説級の珍味)
深淵の最奥、地底湖の底の底、一粒の光の粒子すら届かぬ圧力と闇の中でしか生きられないとされる伝説の海鼠。
湖底に沈殿した神秘を食して生きる伝説上の生物。その身は、黄金色に輝いている。
コリコリとした独特の歯ごたえと、噛むほどに溢れ出す濃厚で複雑な旨味はこの世の何物にも類似する美味は無いという。