001:深淵の狩人と【婆娑羅曼荼羅蜥蜴の味】
奥様と伊勢馬場の第10~12話のざまぁ話を書くにあたって究極の食材を考えてたら、裏設定で輝きだした深淵の蜘蛛さんの物語です。
出来れば、奥様と伊勢馬場12話まで読んでからこちらを読んでいただくとわかりやすいかと思います。
読まなくても、たぶんわかると思います。
こちらは、完成次第投下していくので書き溜めなぞありません。
001:深淵の狩人と【婆娑羅曼荼羅蜥蜴の味】
我は深淵の狩人。
深き闇に潜む蜘蛛。
幾千の夜に死糸を張り、幾万の獲物をその顎で捕らえてきた。
我が縄張りに迷い込み、生きて帰った者はいない。
深淵の底、月光すら届かぬこの黒曜石の宮殿こそが、我が世界の全てであった。
孤独を友とし、静寂を音楽とし、闘争を至上の喜びとしてきた。
この身に刻まれた無数の傷跡は、我が誇り高き狩猟の歴史そのもの。
そう、あの日、あの男に出会うまでは――。
今まで、この深淵の王たる我に土をつけた者など存在しなかった。
だが、つい先日、伊勢馬場と名乗る異世界の男に、生まれて初めての敗北を喫した。
鍛え上げた我が八本の脚が、世界の理にすら絡ませた我が秘術が、彼の不可思議な体術の前に、赤子の手をひねるようにいなされたのだ。
屈辱か?
いや、不思議と悪い気はしなかった。
むしろ、久しく忘れていた魂の震え、純粋な力と技の応酬に対する高揚感があった。
それ以来、伊勢馬場は時折、この深淵を訪れるようになった。
人間など、矮小で脆い存在。
我が捕食対象リストの末尾にすら載らぬ、取るに足らぬ生き物。
そう思っていたはずなのに…。
どうやら我は、伊勢馬場というフィルターを通して触れ合う「人間」というものに、そして彼らが織りなす「文化」という不可思議なものに、抗いがたい興味と…そう、言ってしまえば「楽しさ」を感じ始めているらしい。
今、我は深淵の暗がりから、外界へと続く光の差す道を歩いている。
数ヶ月前の我であれば、到底考えもつかなかった行動だ。
全てのきっかけは、先日、伊勢馬場が彼の主人のために「究極の食材」を探しに、この深淵を訪れたことから始まる。
話を聞いてみると、どうやら彼の主人の名誉を傷つけようとする厚顔無恥な輩に対して、名誉と威信を守るための、起死回生の一品に使う食材を探しに来たのだという。
伊勢馬場との会話から、深淵の住人と彼ら外界の人間との味覚に、意外な共通部分があるのかもしれぬと感じた我は、伊勢馬場に負かされた意趣返しというほんの少しの悪戯心と、好敵手への敬意を込めて、我が手ずから丹精込めて育て上げ、長きにわたり熟成させた秘蔵の「婆娑羅曼荼羅蜥蜴」を与えたのだ。
あれは、我が数多のコレクションの中でも至高の一品であった。
そこで、話は終わるはずであった。
だが、我が血族であり、何よりも恐ろしく、そして敬愛する姉上――冥府の黒百合――の愛娘たち、すなわち我が魂の至宝である姪っ子たちが、こっそりと伊勢馬場の後を追い、あろうことか、彼が持ち帰った婆娑羅曼荼羅蜥蜴の「料理」なるものを、ほんの少しだけ持ち帰ってきたことで、全ては変わってしまったのだ。
あの時のことを思い出すと、今でも背中の剛毛が逆立つ。
自分たちがいけない事をしたとわかっているのか、我が巣に戻ってきた姪っ子たちは、小さな包みを抱え、申し訳なさそうに俯いていた。
我は激怒した。いや、正確には恐怖したのだ。
姉上から預かっている、この世で何よりも大切な我が魂の至宝たちが、もし万が一、危険な人間の里で何か良からぬ目に遭っていたらと思うと、全身の血が凍る思いだった。
「お前たち!一体どこをほっつき歩いていたのだ!どれほど案じていたと思うておる!もし万が一、お前たちの身に何かあれば、我は姉上に顔向けできぬ!人間の里の危険を、まだ理解しておらぬのか!」
我の、雷鳴のような怒声に、姪っ子たちの小さな肩がびくりと震え、その大きな瞳からは、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ち始めた。
嗚咽を漏らしながら、ますます小さくうずくまるその姿を見て、我はハッと我に返った。
「あ、あぁ…す、すまぬ…!おじさん、大きな声を出してしまって…!泣かないでおくれ、な? ほら、おじさんは、ただ…ただ、おまえたちが心配で…そう、心配でたまらなかっただけなんだよ。本当に、それだけなんだ。もう怒ってなんかないから、ね?」
慌てて優しい口調になり、大きな体躯をできるだけ小さく見せるように屈みながら、姪っ子たちの涙を拭ってやる。姪っ子たちは、しゃくりあげながらも、きょとんとした顔で我を見上げた後、おずおずと、小さな手で蜘蛛の糸で編まれた包みを差し出してきた。
「ん? それは…お土産か? わぁ、ありがとう。…もしかして、これは、あの婆娑羅曼荼羅蜥蜴の…『お料理』かな?」
差し出された包みからは、今まで嗅いだことのない、複雑で、それでいて抗いがたい芳香が漂ってくる。
「伊勢馬場の分のお料理を、おじさんのために持ってきてくれたのかい? …へぇ、伊勢馬場がかわいそうだから、少しだけ残してきてあげた、と? …そうか、そうか。君たちは、本当に優しい子たちだねぇ。おじさん、嬉しいよ。ありがとうね」
「え? 我慢できずに、帰り道で半分以上食べちゃったのかい? あはは、そうかそうか。うん、いいんだよ、いいんだよ。おじさん、そんなことで怒ったりしないからね。むしろ、正直に話してくれてありがとう。偉いねぇ」
我は、必死に平静を装った。その実、内心は姪っ子たちの無邪気さと優しさに、感動で打ち震えていた。
「でもね、やっぱり人間の里は、君たちだけだと少し危ないかもしれないからね。今度行くときは、おじさんも一緒に行こうか。…あ、いや、ごめんごめん、またおじさん、お節介を焼いちゃったかな。…うん、この話はここでおしまいだ。さあ、その『お料理』、食べようかな。きっと美味しいんだろうなぁ」
姪っ子たちが、涙の跡も乾かぬうちに、ぱあっと顔を輝かせる。
「えー、なになに? 食べたらびっくりする、って? 本当かい? そんなに言うなら、おじさん、とっても楽しみだよ。では、いただくとしようかな」
我が魂の至宝である姪っ子たちが、危険を顧みず持ち帰ってくれた料理を、震える顎で口にした瞬間――我が全身に、まさに紫電の一閃のような衝撃が走った!
うまい!
美味すぎる!!
今まで幾度となく、生のまま、あるいは軽く炙っただけの婆娑羅曼荼羅蜥蜴を食してきたが、それら全てが色褪せた過去の記憶となった。
いや、もはや別次元の存在だ。
これは、ただの「食」ではない。舌の上で踊るスパイスの魔術、鼻腔をくすぐる複雑怪奇な芳香のハーモニー、そして喉を通り過ぎた後に訪れる、魂を揺さぶるような至福の余韻…!
これは、味覚という名の宇宙に咲いた、禁断の暗黒星雲!
「こ、これが…『料理』! これが…人間の、矮小なるはずの人間の力だというのか…!」
我の驚愕をよそに、姪っ子たちは
「おじちゃん、びっくりしてるー!」と、悪戯が成功した子供のようにキャイキャイと無邪気にはしゃいでいる。
その時感じた感動は、かつて深淵の黒虎と三日三晩死闘を繰り広げ、辛くも勝利を収めた時のそれに勝るとも劣らない、鮮烈なものだった。
我が秘蔵していた婆娑羅曼荼羅蜥蜴の極上熟成体は、もう残ってはいない。
今は、まだ若い、ただの婆娑羅曼荼羅蜥蜴しか我が手元にはないが…。
あの後、あの味が忘れられず、我は姪っ子たちと共に、若い婆娑羅曼荼羅蜥蜴を捕らえ、伊勢馬場がしたように捌き、焼いて食してみた。
…うまい。
うまいことは、うまい。だが、あの天上の味には、遥かに、絶望的なまでに及ばない。
それどころか、我も姪っ子たちも、あの料理で完全に舌が肥えてしまったらしい。最近では、姪っ子たちが、せっかく捕らえた深淵魚の刺身にすら、「なんだか物足りないのー」「もっとこう、ガツンとくるのが食べたいー」などと、贅沢な文句を垂れるようになってしまった。
厳しく叱りつけたいところだが、彼女たちの気持ちも痛いほどわかる。
あの味は、まさに禁断の果実。一度知ってしまえば、もう元には戻れないのだ。
最近では、我も姪っ子たちも、捕らえた獲物を、人間の真似事をして「料理」とやらを施し、食すようになってきた。
残念ながら、あの奇跡の味には遠く、遠く、本当に遠く及ばない。
が、姪っ子たちとああでもないこうでもないと騒ぎながら作る「料理もどき」も、それを皆で囲む食卓も、今まで感じたことのない、温かく、そして心地よいものであった。
冗談抜きで、我が姪っ子達が持ち帰ったあの料理は、我らの人生――いや、蜘蛛生を、根底から変えてしまったのだ。
そんな訳で、我らは今、深淵の薄暗がりを出て、あの男、伊勢馬場に――いや、正確には、あの奇跡の味を生み出したという、彼の主人の料理人に、教えを乞いに行く途中なのである。
森の中、木漏れ日を浴びながら、頭の上では我が至宝たる姪っ子三姉妹がキャイキャイとはしゃいでいる。こんな穏やかな日常が来るなんて、この世は何が起きるか本当にわからないものである。
『婆娑羅曼荼羅蜥蜴の月光包み パピヨット仕立て』
評価:★★★★★(伝説級の料理)
最高の食材を最高の料理人が命をかけて調理した奇跡の一品
この料理を一言で表すと、匂いの具現化
料理長ジャン=ピエールは、この食材の真髄が香りにあると確信し、その香り以外の要素――味、栄養、食感という名の不純物――を、極限まで削ぎ落としたのだ。
舌という器官を飛び越え、匂いの情報が脳のシナプスへと直接焼き付けられる。
それは、単なる「美味」という体験ではない。
脳髄を直接揺さぶり、快楽の奔流を強制的に引き起こす、抗いがたい精神への干渉。
舌や胃袋を満たすことのないコレをもはや料理とは言えないのかもしれない。
それを含めて、この一品は狂気であり奇跡なのだ。