研究室と魔導士
カタン、と軽い音を立てて、その本はわずかに傾き、本棚からするりと滑り出した。
思った通り、これは幻ではなかった。手のひらにずしりとした重みが伝わる。
「実体……ある……!」
そう思った瞬間——
カチリ。
乾いた、金属が噛み合うような音が部屋に響いた。
同時に、足元の魔法陣が淡く浮かび上がる。
「——魔力反応!」
ロザが鋭く声を上げた、その瞬間——部屋の空気が一変した。
棚の奥、影の中から、黒衣の魔導士がゆらりと現れる。
頭巾に顔の半分を覆い隠し、その奥の瞳だけが、まるで深淵を覗かせるように淡く光っていた。手には闇色の杖。
その身に纏う魔力は、先ほどのダークウルフとは比べ物にならないほど濃く、重い。
「これは……自動召喚型の防衛魔導士!? 本を“鍵”にして封じていたのか」
ロザの声に、クロとアオミネがすでに前へと踏み出す。リュカは剣を抜き、ハルのすぐ隣へと駆け寄った。
「ハル、大丈夫か! いきなり現れやがって……!」
ハルは一瞬、目を見開いていたが——それでもしっかりと本を抱え、深くうなずく。
「……うん、いける。みんな、気をつけて!」
——その瞬間、魔導士の姿がふっと掻き消えた。
空気がぴりぴりと震え、棚の背後に魔法陣が浮かび上がる。禍々しい黒紫の光があふれ、再びその中心から、黒衣の魔導士が出現する。
姿は人型でありながら、どこか人とは異なる。
輪郭が曖昧で、影のように薄く、身体全体が常に揺らめいている。纏う外套は空間をねじ曲げるように歪み、魔導士そのものが現実に属していないことを思わせた。
「やっぱり魔導士……か? でも……何だ、この気配は……」
リュカが低く呟きながら、剣の柄を握る手に力を込めた。
「……明らかに“生きている”存在ではなさそうですね」サイルも声を潜め、前に出る。
観察する間もなく、魔導士が浮かび上がるように片手を掲げた。魔法陣が一閃する。
——次の瞬間、雷が落ちた。
天井から裂けるように走った閃光が、わずかに遅れて地を焼く。アオミネが横跳びに飛んで回避する。
「くそっ、属性攻撃か……!」
間をおかず、今度は氷塊が天井から降り注ぎ、クロが跳ねて避けながら叫ぶ。
「こやつ、多属性持ちでござるな!? やっかいな!」
さらに火の球が空中を舞い、毒霧のようなものまで部屋の一角を包み込んだ。
(炎、氷、雷、毒……?)
ハルは直感的に悟る——この魔導士は、単一属性ではない。
混成、それも高度に制御された魔法を操る何者か。
「みんな、下がって! 一度、動きを見ましょう!」
ロザが冷静に指示を出し、リュカとアオミネが一旦後衛へ戻る。代わりにクロが斜めに距離を取って、ぐるりと回り込む。
魔導士の動きは遅く、浮遊するように漂うような動きだが、杖も詠唱も使わず魔法を発動してくる。完全なる思念操作型の魔法だ。
「言葉も……発してこない」ロザが目を細める。
「まるで、ここに“仕掛け”られた番人のようですね」
室内の棚や物品は、既に幻となり、消されているため、戦場はそこそこ広い。
——だが、それが逆に敵の魔法の飛来範囲を広げる結果になっている。
「くっ、リズムがつかめない……」
リュカが肩を落としかけるも、すぐに息を整える。
「いいか、まずは観察だ。癖を掴めれば、きっと突破口は見えるはず」
その言葉に、誰もが一度深く呼吸し直す。
静けさの中で、再び魔法陣が浮かび上がり、魔導士の姿が、ふっとかき消える。そして——次の瞬間、部屋の反対側に現れ、炎の奔流を放つ。続いて雷撃が天井を這い、氷の棘が床を突き破る。消え、現れ、また消える——姿を追うことさえ難しい。
「……あれは瞬間転移魔法!? しかも各属性の魔法を連続で……!」
ロザが鋭く叫ぶと同時に、空間の一部に淡い紫の霧が漂い始めた。立ち上るようにゆらゆらと揺れ、空気がわずかに濁っていく。
「みんな、すぐにこれを使って!」
ロザは腰のポーチから布製の小袋を取り出し、素早く中から防毒マスクを人数分取り出す。
「やっぱりあの霧は、毒霧の可能性があるわ。いまは微量だけれど、魔法と一緒に広がれば、深刻な影響を受けるかもしれない」
ひとつずつ丁寧に手渡していくその動作にも、焦りはない。経験がその手を支えている。
「これは魔導フィルターつきマスク。ある程度の毒素や瘴気なら、これで防げるはずよ」
リュカがマスクを受け取りながら驚いたように言う。
「こんなのまで用意してるなんて……さすが、準備がすごい……」
「ええ、新しいダンジョンでは、何が起きてもおかしくないもの」
ハルも慌てて装着しながら、視界の端にまた魔導士の姿が一瞬浮かぶのを見た。
(あんなに自由に……でも、きっと癖はある。見て、掴まなきゃ)
部屋には、魔力の軋むような音と、仲間たちの緊張した気配だけが、確かに響いていた。
毒霧を防ぐマスクを装着し終えたその時——再び魔導士が姿を現し、今度は雷魔法を放った。
その光景を見ていたハルが、はっと息を飲み、小さく呟く。
「……もしかしたら、パターンがあるかもしれない!」
魔法の順番、その間隔——何かが頭の中で繋がりそうな気がした。
「僕、属性魔法の順番と、発動の間隔を確認してみます!」
ハルの真剣な瞳に、ロザがすぐさま頷いた。
「それは良い判断ね。じゃあ、私はリュカとクロと連携して、直接攻撃が通るかどうか試してみましょう」
「おうっ、任せとけって!」
リュカは剣を持ち直し、前線へと向かう。
クロもすでに足元を低く構え、くぐもった声で応じる。
「拙者も参る。防御の癖でも見えれば、何かしらの突破口にはなるでござろう」
「私は……」
サイルは軽く目を伏せ、魔導士の残像が漂う方向へ目を向ける。
「瞬間移動の位置と、間隔を測ってみます。意外と、無作為に動いているように見えて、制限があるかもしれませんから」
「よし、じゃあ俺は……」
アオミネは一歩前に出て、剣を軽く肩に担ぎながら、魔導士のいた床のあたりに視線を向ける。
「奴が転移した周辺を調べてみる。何か痕跡が残ってるかもしれないからな。魔法陣でも、残留魔力でも」
ロザがちらりと全員を見渡し、静かに言葉を紡ぐ。
「いい連携。焦らず、順に手がかりを見つけていきましょう。これは、私たち全員で突破すべき壁よ」
仲間たちは頷き、戦場の中でそれぞれの持ち場へ散っていく。
ただの力任せではない、知と技術の総力戦——本当の意味での戦いが、いま始まろうとしていた。
明日も23時時ごろまでに1話投稿します
同じ世界のお話です
⚫︎ 異世界で手仕事職人はじめました! 〜創術屋ツムギのスローライフ〜
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