おじいさんの危機と油断
そこには、朝に声をかけてくれたあの農民の姿があった。手綱を引いたまま身動きが取れず、馬は興奮し、いななきを上げている。
そして、その目の前に——跳び角獣。
風を纏った角をかすかに揺らし、いまにも跳躍しようとしているその気配に、ハルは叫んだ。
「走れ!! 今のうちにっ!」
その声に、おじいさんがはっとして顔を上げる。
跳び角獣の意識がハルへと向いた、ほんの一瞬。
おじいさんが、素早く馬を引き、必死にその場を離れようとする。
(今だ!)
ハルは魔力を練り、地面を蹴った。
「——《ウインドサークル》!」
足元から立ち上る風の魔法陣。そこから広がる風の壁が、跳び角獣とおじいさんのあいだを断ち切るように、ふわりと展開された。
追いかけようとした跳び角獣が、風の壁に鼻先をぶつけて、ぴたりと足を止める。
「……ふうっ、間に合った……!」
胸の鼓動を抑えながら、ハルは盾を構え直した。
風の障壁の向こう、跳び角獣が低く唸る。地面を蹴る足がわずかに沈み、再び跳びかかる隙を狙っている。
その緊張の間隙——ハルは素早く振り返り、荷馬車の傍にいる老人へと声をかけた。
「おじいさん、大丈夫ですか!? 怪我は……ありませんか?」
驚きに目を見開いたまま、おじいさんがこくこくと頷いた。
「だ、大丈夫じゃ……だが、キミが……!」
「よかった……! でも、まだ安心はできません。この風の壁の向こうには、絶対に行かないでください。危ないですから!」
強い口調になってしまったことに気づき、ハルは少しだけ眉を下げて微笑んだ。
「ちゃんと守ります。だから——」
盾をぐっと構え直し、ウインドサークルの壁の前に立つ。
その瞬間、壁の一部がまるで意志を持つようにすっと揺れ、ハルの体を通すためにわずかに開いた。
「——いってきます」
ハルの姿が風の障壁に吸い込まれるようにして、跳び角獣のいる側へと消えていく。
すぐに壁は元通り、ぴたりと閉じた。
おじいさんは荷馬車の手綱を握りしめたまま、その風の向こうをただ見つめることしかできなかった。
ウインドサークルを越えた先――空気が一変した。
風が渦を巻くように地面を這い、草を逆なで、まるで侵入者を拒むかのようにざわめいている。
跳び角獣が低く構え、風を纏う角を揺らした。
その瞳は、ただの獣とは思えないほどに冷静で、鋭く。
ハルを、一人の“敵”として認識しているようだった。
(もう四体目……さすがに慣れてきた)
ハルは深く息を吸い、盾を構え直す。
突進の前兆——前脚に重心が移る動きも、耳の揺れ方も、もう見慣れたものだ。
来る。
「……っ!」
跳び角獣が跳ねた。鋭く、一直線に。
火魔石を装着した盾が魔力を吸い上げ、自然に魔法陣が浮かび上がる。
(角度、位置、タイミング——)
風を切る音。火の反射。
跳び角獣の体勢が一瞬崩れる。その隙を見逃さず、ハルはウインドショットを自らの盾に打ち込み、反射した土の魔力で牽制する。
「よしっ、ぶつける……!」
だが、そのとき。
跳び角獣が身をひねった。
風を纏った角が鋭く軌道を変え、予想よりも速く、鋭い角度で迫ってくる。
「……しまっ——!」
構えが一瞬遅れた。
角が盾の縁をかすめ、ハルの肩を掠めるように通り過ぎた。
「っ……!」
衝撃に、体がぐらりと傾ぐ。左肩に走る焼けるような痛み。
だが倒れない。盾を握る手に力を込め、後ろへ引かず、前へ出る。
(なにしてんだ僕……油断、してた……!)
再び距離を取り直した跳び角獣が、また跳ぶ気配を見せる。
(今度こそ、額の魔石を狙う……!)
跳躍。
迎撃。
盾にウインドショットを当て、反射の角度を精密に調整。
火の魔力が足元を崩し、跳び角獣のバランスがわずかに崩れる。
「——今だっ!」
反射魔法の追撃で、跳び角獣の首をわずかに上向かせる。
その瞬間、額の魔石が露わになる。
ハルは滑り込むように前へ出て、
盾の先端に魔力を集中させた。
「ごめんね、でも——もう、止まって!」
火の魔力が鋭い杭へと変わり、跳び角獣の額めがけて一直線に突き出された。
——魔石に命中。
「っ……!」
跳び角獣が小さく鳴いたあと、身体ががくりと崩れ落ちる。
風の魔力が、ふっと消える。
辺りには、再び静寂が戻っていた。
「ふぅ……終わった……」
ハルは深く息をつき、肩の痛みに顔をしかめながら、そっとその場に腰を下ろした。
風に揺れる草の音が、どこか優しく響いていた。
戦いの終わりを告げるように、風の渦がすっと静まった。
ハルが魔力の制御を解くと、守りの結界――ウインドサークルの壁が音もなく消える。
風の帳が晴れた瞬間、駆け寄ってきたのは、おじいさんだった。
「おおっ……! 大丈夫か!? 怪我を……」
ハルの肩に滲む赤に、老人の顔が強ばる。
荷馬車を降りた足取りは、かすかに震えていた。
「……わしより、ずっと若い……子供のきみに怪我をさせるとはな。……情けない話だ、まったく……」
その声は、かすれていた。
自分を責めるような表情が、深く刻まれた皺の奥に滲んでいる。
ハルは慌てて首を振った。
「だ、大丈夫です! かすっただけで……ほら、もう、血も止まってきてますから!」
言いながらも、肩の痛みはずしりと重い。けれど、それでも笑った。
おじいさんの悲しそうな顔を、これ以上見たくない
だって——僕は、冒険者だ。
怪我をするくらい、なんてことない。
この痛みは、誰かを守れた証だ。
そんな風に思えたのは、きっと、ほんの少しだけ誇らしかったからだ。
「……なら、これを使え」
おじいさんが懐から取り出したのは、小さなポーション瓶と、ひとつの魔力果だった。
果実は掌にすっぽり収まる大きさで、淡い光を帯びている。
魔力を回復させるための、貴重な携帯用の実だ。
「いや、僕は大丈夫です。ほんとに。自分のも持ってますし、これくらいの怪我なら……」
遠慮がちに言いかけたハルに、おじいさんは首を横に振った。
「……それでもだ。これは、わしの気持ちだ。使ってくれれば、少しは気が済む」
言葉のひとつひとつが、静かに、優しく響いた。
ハルは少し迷ったあと、ようやく頷く。
「……じゃあ、ありがたく、いただきます」
そっとポーションの栓を抜き、肩に垂らすと、じわりと沁みる感覚のあと、温かさが皮膚を包んだ。
痛みが少しずつ和らぎ、魔力の流れも整っていく。
おじいさんが差し出した魔力果は、口にふくむとちょっとすっぱくて、とても美味しかった。
明日も23時時ごろまでに1話投稿します
同じ世界のお話です
⚫︎ 異世界で手仕事職人はじめました! 〜創術屋ツムギのスローライフ〜
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