閑話 ハルの休日01
「……父さん、いったい何してるんだよ」
宿の窓辺に頬杖をつきながら、ハルはぽつりとつぶやいた。
あの日、夕方には戻ると笑って別れた父は、それきり姿を見せていない。もう三日は経つというのに、まるで帰る気配がない。
けれど、ハルの顔に焦りの色はなかった。
「……父さんのことだからな」
苦笑いを浮かべ、視線を遠くにやる。
どうせバルドさんと意気投合して、あの魔法陣を前に二人で盛り上がっているに違いない。
頭の中に、真剣な顔で魔法陣を描く父と、それを横で楽しそうに語るバルドの姿が浮かび、思わず笑いがこぼれる。
「はぁ……これは、当分帰ってこないな」
ため息まじりに呟くと、ハルは立ち上がり、腰に手を当てた。
「さて……今日は何をしようか」
そう言って窓を開けると、心地よい風が頬を撫でた。
少しだけ考え込み、ハルはぱっと顔を上げた。
「……よし、決めた」
小さく呟き、ベッドの端に置いていた変装用のマフラーを手に取る。
その布をくるりと首に巻き、鏡の前で軽く整えると、肩からお気に入りのポシェットを斜めに掛けた。
「父さんも楽しんでるんだから、僕も……ちょっと遠くから見るくらい、いいよね」
その声には、ほんの少しの悪戯っぽさと、抑えきれない好奇心が混じっていた。
風がカーテンを揺らす中、ハルは軽やかに宿屋のドアを開けた。
扉の向こうには、穏やかな午後の光と、にぎわう通りのざわめき。
その一歩を踏み出すハルの背中には、どこか楽しげな期待が漂っていた。
露天の並ぶ通りを抜け、いつもの露店でお気に入りの果実水を買う。
琥珀色の液体を一口飲むと、甘酸っぱい香りが喉の奥をすっと通り抜けた。
「……よし」
ひと息ついたハルは、手にした瓶を軽く振って歩き出す。
向かった先は、カムニア町の中心近く――ナギの実家が営む店ホビーナ。
手作りの布製品や手芸品が並ぶ、町でも人気の店だ。
もしかしたら、ナギさんに会えるかもしれない。
そんな期待を胸に、ハルは足取りを少し速めた。
お店のショーウィンドウを覗き込むと、見慣れた後ろ姿が目に入る。
「……あ、いた!」
思わず声が漏れそうになり、ハルは口を押さえて小さく笑った。
ナギはレジ前の作業台で、一心不乱に針を動かしている。
針先が生地を走るたびに、小さな光がきらりと跳ねた。
「ナギさんらしいな……」
その光景に、ハルの心がじんわりと温かくなる。
いつも冗談を言いながらも、どこか姉のように気遣ってくれるナギの笑顔が脳裏に浮かんだ。
――そういえば、スライムに会いに行こうって約束、まだ果たしてなかったな。
無事に帰れたら、今度こそ誘ってみよう。
果実水の瓶を握り直し、ハルは小さく頷いた。
午後の風が吹き抜け、ナギの店先の布がやさしく揺れる。
ハルはその光景を目に焼きつけるように一度だけ振り返り、静かにその場を後にした。
次に足を向けたのは、ガルスの鍛冶屋だった。
店の外からそっと覗くと、炉の奥でガルスが誰かと話し込んでいるのが見える。
きっと素材の買い取りをしているのだろう。
(今なら……いける)
ハルは小さく息を吸い込み、マフラーを口元まで引き上げると、意を決してドアを押し開けた。
からん、からん――。
澄んだ鈴のような音が店内に響く。
「いらっしゃい」
顔を上げたガルスがちらりとハルを見る。だが、すぐにまた取引の相手に向き直り、低く落ち着いた声で話を続けた。
その何気ない様子に、ハルの胸が少しだけくすぐったくなる。
変わらない空気。懐かしい炉の匂い。
――ここに帰ってこられたんだな。
かつて母の薬代にも困っていた頃、何度も助けてくれたのがこの店だった。
そして今、自分がここに立てているのは、あのときガルスが手渡してくれた「護りの小刀」と、その柄に埋め込まれた帰還石のおかげだ。
ハルは静かに店内を見回し、奥で火花が散るたびに瞬く光を見つめる。
そして、ポシェットから小さな布袋を取り出し、そっと棚の隅に置いた。
袋の中には、冒険の途中で集めた魔石や素材がいくつも入っている。
珍しいものは少ないが、どれもハルが自ら集め、丁寧に選んだ良品ばかりだ。
そしてその一番上に、小さな紙切れを滑り込ませる。
――お世話になったお礼です。
インクが乾くのを待つ間、ハルは一度だけガルスの背を見た。
炉の赤い光に照らされた横顔は、昔と何ひとつ変わらない。
「……帰ったら、必ず会いに行きます」
その言葉は、ほとんど息に溶けるほど小さかった。
ハルはそっと店を出る。
背後で、鉄を打つ音が静かに鳴り響き続けていた。
「……よし。あとは、あそこに行くだけだ」
ひとりごとのように呟き、果実水の瓶を軽く握り直す。
足取りが自然と軽くなっていくのを、自分でも抑えられなかった。
――一度目の人生では、その場所の存在すら知らなかった。
もしかすると、あの時代にはまだなかったのかもしれない。
けれど、この人生では――きっと、ある。
胸の奥が、期待にきゅっと鳴る。
はやる心を落ち着かせながら、ハルはゆっくりと歩き出した。
向かう先は、ツムギとぽてのもと。
彼の中で、その場所はもう“帰る場所のひとつ”になっていた。
夕陽が傾き、石畳の上に長く影が伸びる。
ハルの足音が、町のざわめきの中へと静かに溶けていった。




