思いがけない再会
途端に、ふわりと紙とインクが混じった、独特の匂いが鼻をくすぐる。
どこか懐かしく、落ち着く香り——本屋という場所が持つ、静かな魔力だ。
本は、専門の転写士たちが特殊なインクを用い、一冊ずつ手作業で写し取って作られる。インクの色数が多いほど価値が高く、鮮やかな装飾のある本は、それだけで高級品だ。もっとも、絵本や児童向けのカラフルな本は王国が補助金を出しており、子どもたちでも手の届く価格で手に入れられるようになっている。
ハルが入ったのは、小ぢんまりとした町の本屋だ。
入口近くの棚には、色鮮やかな絵本や、料理や裁縫など暮らしに役立つ実用書が並び、訪れた客を温かく迎えてくれる。
その奥へと足を進めれば、魔法理論や歴史、錬金術といった専門書の背表紙が、びっしりと静かな威厳を漂わせている。
ハルはその一角で足を止め、「魔法陣」と記された背表紙を指先で軽くなぞりながら、棚を見上げる。
魔法陣についての知識は皆無だった。円の描き方すら知らず、魔法陣がどうやって起動しているのかも分からない。いつもなら冒険者ギルドで初心者講習を受けて学ぶところだが、この時間軸の彼は“存在してはいけない存在”であるため、それも叶わない。
父も探してくれると言っていたが、基礎を理解していなければ、共に考えることすら難しいだろう。そんな思いが胸の奥に静かに広がる。
ふと、視線の先に一冊の本が目に入った。
——『いちばんやさしい魔法陣の本』。
厚みは控えめで、表紙には丸や線の簡単な図形が描かれ、初心者にも手を伸ばしやすい雰囲気がある。
ハルはそっと手に取り、ページを開いた。
そこには「円の描き方」から始まり、線を引く順序や筆圧、円の歪みが魔力の流れに与える影響まで、基礎の基礎が丁寧に説明されている。さらに、魔法陣が起動するための「魔力の結び目」や「符号の役割」について、やさしい言葉で解説されていた。
(……これ、いいかも)
心の中でそうつぶやきながら、ハルはぱらぱらとページをめくっていく。厚手の紙が擦れる音と、わずかに香るインクの匂いが、静かに集中を深めていった。
——そのとき。
「……ほぅ、坊や。魔法陣に興味があるのか?」
不意に背後から落ち着いた声が届き、ハルの肩がびくりと跳ねた。
振り返った瞬間、その表情が固まる。
そこに立っていたのは——今、この時代で絶対に出会ってはいけないPOTEN創舎のメンバー、バルドだった。
(や、やば……!)
思わずマフラーをぐいっと引き上げ、前髪をいじるふりをして視線を逸らし、口元と目元を隠す。
胸の鼓動が早まり、指先にじわりと汗がにじむ。正体がばれやしないかと、息を潜めるように言葉を紡いだ。
「……はい。ちょっと、興味があって……」
声が上ずらないよう注意しながら、本を軽く持ち上げて見せる。
「この本、とてもわかりやすくて……夢中で読んでました」
バルドはふむ、とわずかに顎を引き、視線をページへ落とす。
職人の眼光が、紙面の細部を一瞬で読み取っていく気配があった——が、その目の奥には、わずかに口元を緩めるような、嬉しさを隠しきれない光が宿っていた。
そのわずかな変化だけで、ハルはすぐに気づく——ああ、嬉しいんだ。
いつもおじいちゃんのように温かく見守ってくれる人だからこそ、わずかな表情の揺れも見逃さない。
いつもご飯を作ってくれたり、何気ないアドバイスをくれたり、時にはちょっと過保護なくらいに気にかけてくれる——あの優しくて、頼り甲斐のあるバルドの姿が胸の中によみがえった。
込み上げてくる懐かしさに、少し涙が出そうになるのをぐっと堪えていると、バルドが静かに口を開いた。
「……実はな、その本、わしが描いたものでな。初心者にもわかりやすいように書いたつもりだったが……わかりやすいようで、良かったよ」
「えっ……!」
驚きと同時に、ハルの瞳がぱっと輝く。
「すっごく分かりやすいです!」と、思わず食い気味に答えるその様子に、バルドは目尻をやわらかく下げ、くつくつと小さく笑った。
「そうか……それは良かった」
それからバルドは、魔法陣を書くときに気をつけるべきことを、ゆっくりと、しかし抜かりなく語ってくれた。線の精度やインクの質、使う道具の整備。誤差一つで効果が狂うことや、危険な魔法陣を起動させる際には必ず知識のある人間と共に行うべきだという心得まで、まるで孫に教えるように親切だった。
「で、坊やはどんな魔法陣に興味があるんじゃ?」
不意にそう問われ、ハルは少しだけ考え込むと、口を開いた。
「えっと……時空移動とか……あとは魔力を分散させるような魔法陣に興味があります。時空移動は、なんかすごくかっこいいし……魔力分散は、僕の魔法の負担を減らせたり、みんなを守れたりしそうで……」
「時空移動か……それはロマンがあるのう」
バルドは目を細め、どこか遠くを見るような表情になる。
「テレポーテーションの魔法はあったりするが、あれは不安定でな。熟練の魔術師でもなかなか扱えん。じゃが、魔法陣は毎日描けば描くほど上達する。いつか完成させられると良いのう。魔力分散も難しいが……水を霧にする術式や、雷を地面に逃がす陣式が応用できるかもしれんな……ふむ、いや、それなら……」
ぶつぶつと呟きながら、眉間に皺を寄せて考え込む。その姿は、いつものPOTENハウスで見てきたものとまったく同じで——懐かしさと、胸の奥にじんわり広がる安心感が、ハルの心を温めた。
その様子をニコニコと眺めていると、ふいにバルドがこちらに視線を戻す。
「良さそうなことを思いついたら、わしに是非教えておくれ。魔法陣好きは大歓迎じゃ。わしは一本奥の道に住んでおる、バルドじゃよ」
そう名乗ると、「じゃあ、わしはそろそろ失礼するよ」と言い、懐から小さな図鑑のような本を取り出した。
「良かったら、これを参考にするといい」
差し出されたそれには、様々な魔法陣の基本図案が丁寧に描かれていた。
「ありがとうございます! 大切に使います」
ハルが驚きと感謝の入り混じった声で受け取ると、バルドは満足げに頷き、穏やかに言葉を添えた。
「魔法陣、描けるようになると良いのう。……励めよ」
そう言って、ゆったりとした足取りで本棚の間へと消えていった。
申し訳ありません。忙しい時期に入ってしまいました。
その為、更新頻度を少し下げさせて頂きます。
ツムギの物語は水曜日と土曜日、ハルの物語は月曜日と金曜日の23時ごろまでに1話投稿します
同じ世界のお話です
⚫︎ 僕だけ戦う素材収集冒険記 〜集めた素材で仲間がトンデモ魔道具を作り出す話〜
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