ハルの帰還
ロザはそっと息を吐くようにして、ハルの前に歩み寄った。
「……ごめんね。ハルはまだ子どもなのに。なのに私、つい……あの人と重ねて見てしまったの」
柔らかな声音でそう言いながらも、その目は真剣だった。
「でも、忘れないで。あなたは、もう十分に役目を果たしてくれたわ」
ハルの目が大きく見開かれた。まだ、何もできていない。そう思いかけた彼の口を、ロザの言葉が遮った。
「だから、約束通り——ダンジョンから、出なさい」
はっとするハル。その肩を、ロザがそっと両手で包み込むように触れる。
「あなたのバリアは、あと二回分しかない。魔力も、身体も限界……それに」
ロザの声に、わずかに冷たい緊張が混ざる。
「アザルは、あなたを“狙っている”。それが、あの視線に込められていたものよ。記憶に触れたことが、よほど……“許せなかった”みたいね」
その言葉に、サイルが静かに頷き、アオミネは低く唸るように呼吸を吐いた。
「……何か、またルールを授けられてしまうかもしれない。その前に、早く!」
ロザの言葉には、もはや“提案”ではなく、“命令”にも似た強さがあった。
守るための——本気の願いだった。
けれど、ハルはその場に踏みとどまり、小さく首を振った。
「でも……僕、思いついたんです」
立ち上がる勢いでそう言うと、目を輝かせながら次々に言葉を吐き出していく。
「アオミネさんに、記憶を“圧力”で押し潰すようにしてもらって、それを砕きながら僕が吸うとか……それか、リュカに“燃やす”ように意識してもらえば、記憶って壊れるかもしれない……! ロザさんの“凍らせる”魔法でひびを入れて、壊れやすくするとか……それとも、サイルさんが、悪い記憶を浄化することで、逆に……!」
焦りが、言葉に混ざっていた。
——帰されないように。
——何かしら“役に立てる策”を口にして、自分の存在をこの場に留めようとしている。
その様子に、リュカがぽりぽりと頭を掻いた。
「……もう、仕方ねぇな」
そうぼやいたあと、ニッと笑って、ハルの肩を軽く叩く。
「それは——後で試してみるよ!」
ハルが目を見開く。リュカは悪戯っぽく肩をすくめた。
「お前は戻れ。1分1秒でも惜しいんだ!」
そう言ってから、リュカはふと視線をアザルの背後に向けた。
そこには、初めに現れた黒い枠の巨大な砂時計。赤黒い砂が、音もなく、しかし確実に落ち続けている。
「ほら見ろ。あと、4日くらいしか残ってないぞ。早く帰れ!」
冗談めかして言ったその声には、真剣な祈りのような響きがあった。
「風魔法使いを連れてくるとかさ……な? お前なら、きっとなんとかするだろ。戻ってこなくてもいいからな!」
ハルの唇が、震えた。胸の奥が熱くなる。
そのとき、隣で静かに膝をついたサイルが、いつもの落ち着いた声で囁いた。
「私たちは大丈夫ですよ。ハルくんは……帰ったら、ゆっくり休みなさい。リュカくんは、必ず私たちが送り届けますから」
優しさに満ちた声だったが、その瞳は真っ直ぐで、揺るぎない覚悟に満ちていた。
アオミネが腕を組んで「さっさと行け」とでも言いたげに、わざとそっぽを向く。その肩には、クロがぴょんと乗っていて、何も言わずとも、ふわりと体を揺らしていた。
言葉にはしないけれど、ふたりの顔には「早く帰れ」のメッセージが、これ以上なくはっきりと書いてあった。
ハルはぎゅっと唇を結び、俯きかけた視線を無理に持ち上げた。目に浮かぶ涙を押し戻し、ふるえる声で叫ぶ。
「……分かりました。必ず何か、対策を考えて戻ってきます!」
その声は震えていたけれど、意思は確かだった。
「弱点は、分かったんだ。……どうにかできるはずなんです」
悲痛な表情のまま、ハルはぐっと振り返る。そして、アザルの方へとまっすぐに向き直った。
「アザルさん、僕——選択を決めました!」
息を飲むような一瞬の沈黙のあと、ハルははっきりと告げる。
「“リュカの選択に従うことを選択します!”」
その言葉は、叫びではなく、宣言だった。小さな体のどこにそんな力があるのかと思うほど、まっすぐで、強くて、清らかで。
そして、間髪を入れず——
ハルの手が、腰から“それ”を取り出した。
帰還の小刀。ガウスが託した、最後の切り札。それを強く、確かに握りしめた。
——その瞬間、アザルの目が、かすかに見開かれた。
油断していたわけではない。だが、“選択”が告げられると同時に実行へと移る、その隙のなさは、予想の外だったのだろう。
静かに笑みを浮かべていたその表情に、ほんの一瞬、出し抜かれた者の驚きが走った。
(……出来ることなら、父さんのいる場所に行きたかった。だけど……それは無理だ)
目を閉じる。まだ冷たい汗が、背を伝っていた。
(……だから、みんなに相談しよう。きっと大丈夫だ!なんとかなるはずだ——)
「僕の帰る場所へ!」
その瞬間、小刀の柄が、ぱあっと光に包まれる。まるで、ハルの意志に応えるように。
重力がふわりと消え、景色が一瞬、歪んだ。
転移が、始まった——その時。
《……わかったよ。僕の出来うる全てかけて、ハルをそこへ連れて行こう》
確かに、聞こえた。
それは、以前にも一度だけ——ハルが窮地に陥った時、助けに来てくれた“あの声”。
性別すらわからない、けれどどこか懐かしく、心に届くような声だった。
——これは、信じていい声だ。
そして光が、ハルの姿を完全に包み込んだ。
明日も23時ごろまでに1話投稿します
同じ世界のお話です
⚫︎ 異世界で手仕事職人はじめました! 〜創術屋ツムギのスローライフ〜
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