アザルの糧
(なんなんだ……)
ハルは掌を見つめた。魔力を吸い出そうとしたはずの指先には、微かな熱も手応えも残っていない。
(魔力も……ないというのか? いや、それは違う。魔力はある。絶対にある。でも……吸えない)
静かに目を細め、再びアザルを見上げる。
(そもそも……アザルは、何を糧にして存在しているんだ?)
魔物の多くは、魔力を食糧のように取り込んで生きる。
けれど、目の前の存在はそれとは違う。ハルの直感が、そう告げていた。
(……やけに、記憶にこだわっていたな)
脳裏に、あの得体の知れない笑顔がよみがえる。
“記憶”という言葉を発するたび、アザルはまるで——そう、まるで“ご馳走にありつく直前の人”のようだった。
(まさか……記憶を、食べて生きてる?)
魔力を吸おうと集中していた意識が、ふと“記憶”という概念に触れた瞬間——
脳裏に、鋭く切り込むような映像が走った。
それは、誰かの“悲しみ”が、入り込んできたような感覚だった。
(……えっ)
突如、心の奥に“知らない痛み”が染み込むように流れ込んできた。
胸の奥がじくじくと軋む。自分の記憶ではないはずなのに、まるでずっと前からそこにあったかのような、深く重い哀しみ。
驚きに目を見開いてアザルを見返すと、そこには、先ほどまでの気さくさの欠片もなかった。
能面のように無表情で、冷たく、底知れない“殺意”だけが滲み出ていた。
(なんだ、これ……!)
ハルの鼓動が、一瞬止まりかけた。
空気が凍りつくような視線が、自分だけに、まっすぐ向けられていた。
まるで“盗み取られた”ことに、怒りすら超えた拒絶を抱いているかのように。
(これだ——!)
ハルの全身が、鋭く跳ねた。
直感が告げていた。今、自分がすくい上げたあの“感情”こそが——アザルの本質。
思考よりも先に、身体が動いた。
少年はアザルの前に立ち尽くしたまま、ふたたびその細い手を伸ばす。
指先に集中する魔力は、先ほどとはまるで違う。
狙うは“魔力”ではない——“記憶”だ。
「……っ!」
強く握りしめた掌から、ハルの魔力が一気に放たれる。
記憶の糸をたぐり寄せるように、アザルの内側へと深く、深く潜っていく。
喜び、怒り、哀しみ、恐れ——
色とりどりの感情が、奔流のように押し寄せた。
「う……あ、ああ……っ!」
あまりに膨大な感情が、一度に流れ込む。
脳を焼かれるような痛み。胸の奥が抉られるような衝撃。
視界が一瞬、真っ白になった。意識がどこかへ飛んでいきそうになる。
——だめだ、負けるな。
ハルは歯を食いしばった。唇の端が切れ、血が滲む。
鼻からも、ぽたり、ぽたりと赤い雫がこぼれ落ちた。
けれど、それでも——手は離さなかった。
その掌には、たしかに“なにか”が伝わってきていたのだ。
——《バリア!》
突然、耳元に鋭く響いた声。
その瞬間、視界が真っ黒に染まった。
遮るように張り巡らされた、光の膜。その向こうで、何かが轟くように爆ぜた気配がした。
「……っハル!」
視界が戻ると同時に、自分の体がふわりと宙を舞っていた。
その胸に、しっかりと抱きかかえているのは——リュカ。
「バリア間に合った……っ!くそ、もうちょっと遅れてたら……!」
震える声でそう言った彼の後ろから、何かが鈍く打ち付けられるような音が響いた。
——ズンッ!
振り返ると、そこには壁のように立ちふさがったクロの姿があった。
アザルの放った瘴気のような一撃を、丸ごと身体で受け止めたらしい。
しかし、クロは動じることなく、軽く跳ねてから、ふわりとアオミネの肩へと戻る。
「間一髪、でござったな」
リュカは、そのままハルを抱えたまま、地を蹴った。
まるで閃光のごとく仲間たちの元へ戻り、サイルとロザが素早く支援の体勢に入る。
ロザが手を伸ばしながら、落ち着いた声で言った。
「大丈夫。生きてるだけで、今は十分よ。よく頑張ったわ、ハル」
その言葉に包まれた瞬間——空気が、変わった。
重圧のような“魔力”が空間を満たし、思わず息を止めたくなるほどの圧が全身を押しつぶしてくる。何かが……放たれた。
怖い。見るのが怖い。けれど——
ハルは、ロザの腕の中からそっと顔を上げ、恐る恐るその気配の主を見やった。
そこにいたのは、アザル。
先ほどまでの穏やかな口調とは裏腹に、冷ややかすぎる静けさをまとって立っていた。その顔は一見、何の変化もないように見える。だが、違った。目の奥に宿った“それ”は、明らかに……殺意だった。
(——やっぱり、何か“触れちゃいけないもの”に触れたんだ)
アザルは、静かに一歩、足を前に出す。
「……なるほど」
氷のように澄んだ声で、ぽつりと呟く。
「バリアを持っていたとはね。おかげで、君の中に手を伸ばし損ねたよ」
——その声には怒りはなかった。だからこそ、凍えるほどに冷たかった。
その言葉に包まれた瞬間——空気が、変わった。
重圧のような“魔力”が空間を満たし、思わず息を止めたくなるほどの圧が全身を押しつぶしてくる。何かが……放たれた。
明日も23時ごろまでに1話投稿します
同じ世界のお話です
⚫︎ 異世界で手仕事職人はじめました! 〜創術屋ツムギのスローライフ〜
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