虚ろなる器に挑む者
静まり返った空気の中で、一歩前に進み出たのは、ハルだった。
その顔には、もはや怯えはなかった。きゅっと唇を引き結び、まっすぐに前を見据えている。
「アザルさん。一つ、質問してもいいですか?」
その声は、澄んでいて落ち着いていた。
それまでの躊躇いを捨てた“決意”が、言葉の端々からにじんでいた。
玉座に腰をかけるアザルが、ゆるやかに片眉を上げる。
「おやおや……さっきまでの震えていた子とは別人のようだ。うん、いいよ。なんですか?」
ハルは一呼吸おいてから、はっきりと問いかけた。
「“攻撃を仕掛けた者が反撃を受ける”という理解で、正しいですか?」
アザルはくすっと笑うように息を漏らした。
「ふむ、正確に言えば……“攻撃を補助した者”も反撃対象になるのが筋だけどね。でも、君は子供だから。それでいいよ」
アザルは指を顎に当て、しばしハルを見つめる。
「それになんだか……君は不思議な生き方をしてきた気がする。私の長い人生でも、なかなかいないタイプだ」
わずかに目を細めたその顔は、気味の悪いほど楽しげだった。
「もうひとつ、おまけをあげようか。
私が“ダメージを受けない限り”、攻撃とは見なさないことにしてあげるよ。つまり、空振りや挑発、外れた魔法には反撃しないってことだね」
その声音には、どこか底知れぬ愉悦が混ざっていた。
「楽しみは、長い方がいい。君がどんな人間なのか、少しずつ知っていくのが……とても楽しみだ。
記憶を奪うその瞬間に、すべてを知ったうえで味わえるなら……最高じゃないか」
ゾクリとするような口調で、アザルは微笑んだ。
ハルはそれを正面から受け止めた。視線は逸らさない。
その小さな手の中に、確かに“勇気”が握られていた。
ふぅ、と一つ息を吐いたあと、ハルはゆっくりと振り返る。
そこには、自分の覚悟を見つめ返してくれる仲間たちの顔があった。
リュカは、そっと視線を合わせ、小さくうなずいた。
言葉はない。でも、その瞳に宿るまっすぐな光がすべてを語っていた。
(大丈夫。お前ならできる——)
そう言ってくれている気がして、ハルの胸に温かな力が広がる。
ロザは、ゆっくりとまばたきをしながら、柔らかく微笑んだ。
「……あなたなら、できると信じてる」
そのすべてを受け止めるように、ハルはもう一度、深く息を吸い込んだ。
「……ありがとうございます」
小さく、でも確かに響く声で告げる。
そして、一歩前へ。
「じゃあ——少し、試させていただきます」
その瞬間、空気が変わった。
静かだった空間が、ぴんと張りつめた弦のように緊張を帯びる。
これは挑戦。
ハルが、命をかけて立ち向かう、知恵と覚悟の勝負の始まりだった。
静寂のなか、焔のような意志を胸に宿しながら、ハルは一歩を踏み出した。
その小さな靴音が、石の床にやわらかく響く。
一歩。また一歩。
アザルのいる、玉座の中心へと向かって、ハルは迷いなく歩み続けた。
その背中を、仲間たちはただ黙って見つめていた。
誰一人として言葉を発しない。
けれど、その沈黙には、確かな“信頼”が詰まっていた。
——あと少し。
ハルは息を整えると、そっと手を伸ばした。
触れたのは、アザルの左腕。
見た目は人のそれと変わらぬ形をしていたが、指先から伝わる感触は、まるで氷の彫像のようだった。
硬く、冷たく、そして生きているというより“作られたもの”に近い。
その瞬間、アザルのまぶたがゆっくりと持ち上がった。
そして——あの、どこか空虚な微笑みを浮かべたまま、言葉を紡ぐ。
「……きみは、とても温かいね」
囁くような声だった。
「何をしようとしてるのかは、分からないけれど……温かいものに触れてもらったのは、何百年ぶりだろう」
その声には、ほんの一滴、感情のようなものが混じっていた。
それが哀しみなのか、戸惑いなのか、それとも……喜びのようなものなのかは、誰にも分からなかった。
けれど、ハルはそれに惑わされることなく、そっと目を伏せ、静かに息を吸った。
(いま——やる)
その小さな掌に魔力を集中させていく。
体内にある“水”の気配に意識を向ける。
流れ、揺らぎ、動き続ける生命の源。
大木との戦いで得た手応えを思い出しながら——彼は、魔力を解き放った。
(吸い上げる——!)
刹那、魔力が閃き、ハルの手のひらから青白い光が迸る。
だが——
風が吹き抜けた。
それはまるで、乾いた中空の木を無理に吸おうとした時のようだった。
手応えはなかった。いや、むしろそこに“何もなさすぎた”ことが、逆に異様だった。
風が、アザルの体内をすり抜けていく。
中を通っただけの魔力は、熱を奪われることもなく、ただ空気のように流れていった。
「ほう……?」
アザルの顔に、ゆっくりとした笑みが浮かぶ。
目を細めながら、愉快そうに囁いた。
「これは面白いね。君の温かい魔力が、私の中を通り過ぎていったよ。まるで春風のように、ふわりと……」
アザルは肩を揺らして、楽しそうに嗤った。
「なかなか乙なものだね。悪くない気分だよ。——ああ、でも残念ながら、私には……まったくダメージがなかったようだけど」
その言葉は、冷たくも、どこか“遊戯”の匂いがした。
ハルは、その場に立ち尽くす。
風のように抜けていった魔力の余韻だけが、掌に微かに残っていた。
明日も23時ごろまでに1話投稿します
同じ世界のお話です
⚫︎ 異世界で手仕事職人はじめました! 〜創術屋ツムギのスローライフ〜
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