盤上に立つ者たち
ロザが一歩前に進み、アザル=デルへと視線を向ける。足取りにはためらいはない。けれど、その声は柔らかく、まるで礼儀を重んじる貴族のようだった。
「……アザルさん、とお呼びしてよろしいかしら?」
その問いに、アザル=デルは少しだけ目を見開いたあと、すぐににやりと口角を吊り上げた。
「ふふふ……アザルでも、悪魔でも、お好きなように。私の“存在”に呼び名など、大した意味はないからね?」
どこか芝居がかった物腰で手をひらひらと振る。声には余裕と愉悦、そして薄く見下すような響きが交じっていた。
「……では、アザルさんと呼ばせていただきますね」
ロザは優雅に頷く。そのまま、空気を崩さずに本題へと踏み込む。
「“選択”を迫られた以上、私たちとしても判断の材料が必要です。いくつか、確認のための質問をさせていただいてもよろしいかしら?」
アザル=デルは目を細め、ほんのわずかに顔を傾けた。
「……ほう、質問、ね。いいよ、もちろん。選ぶには“情報”が必要だ。質問の答えをどう解釈するかも、君たち次第……ふふ、楽しませてくれると嬉しいな」
その笑みは、観察者としての狂気を帯びていた。けれどロザは怯まず、うなずく。
「ありがとう」
彼女の視線が後ろへと向けられる。次に言葉を継いだのは——サイルだった。
「……では、一つお尋ねします」
静かに前へと進みながら、サイルは落ち着いた声で問いかけた。
「“選択の悪魔”であるあなたが提示する条件。それにおいて定めたルールは、アザルさん自身にも適用されるものなのですか? そして、それは本当に、守られるものなのですか?」
一瞬の沈黙。
それを破ったのは、アザル=デルの乾いた笑みだった。
「ふふ……いいね、実にいい。まるで古代魔導法廷のような質問だ」
手をひらりとひと振りして、アザルは続ける。
「もちろんだとも。私は“選択の悪魔”。ルールこそが私の存在理由であり、束縛でもある。定めた以上、私自身にもそれは適用される」
その声はまるで誓約のように重く、同時にどこか陶酔すら感じさせるものだった。
サイルは一拍置いて、うなずいた。そして言葉を重ねる。
「では、もうひとつ——より本質的なことを確認させてください」
その声には、一切の揺らぎがなかった。
「アザルさんが提示した選択肢において、私たちの意思と、あなたの立場が乗る“天秤”は、本当に水平ですか? 私たちが決断を下すに足るだけの、公平性と平等が、そこに存在しているのですか?」
問いの中に、微かな重みがあった。
アザルはその言葉を繰り返すように、指先で天秤の形を空中に描く。
「公平性、か……。実に美しい言葉だ。だが、そうだね。君たちの感じている“不平等”こそが、選択を悩ましくするスパイスでもある」
ふっと笑ったあと、アザルは真顔に戻った。
「けれど、私は“偏った天秤”は好まない。片方が重すぎれば、物語は崩れてしまう。常に——天秤は、水平であるべきだ」
その声には、どこか規則への信仰にも似た確かさがにじむ。
「命には命を。重さを測るのは、感情ではなく、構造。君たち四人の“記憶と自由”を差し出すことと、一人の“命”を救うこと——それらは、私の基準では等価だと考えているよ」
その言葉に、静かな空気が落ちた。
何かが決定されたわけではない。
だが、確かに、ひとつの“枠”が浮かび上がったのだ。
サイルは視線を戻し、改めてアザルに向き直る。
その目は、最終確認を求める者のものだった。
「——念のため、確認させてください。
この場にいる者のうち、四人の記憶と自由を“代価”として差し出せば——一人は、確実に外の世界へ帰還できる。そう理解してよろしいですか?」
その問いに、アザル=デルは、またも愉しげに笑う。
「ふふっ……そう、それで正しいよ。よく理解してくれて、嬉しいなあ。そういう“秩序ある絶望”は、見ていて実に気持ちがいい」
言葉とは裏腹に、どこかうっとりとした声音。けれど、その発言は“言質”として、この場に刻まれた。
サイルはゆっくりと振り返る。
アオミネ、クロ、そしてロザと目を合わせる。
誰も言葉にはしない。
けれど、その瞳の中には確かな安堵が宿っていた。
——これは、言質だ。
天秤は、水平。
その認識が、今この場で“悪魔の口”から明言された。
次の瞬間、サイルはごく小さく、しかし力強く、頷いた。
——その動きを合図のようにして、静かな気配が揺れる。
ハルが、一歩前に出た。
足元がかすかにふらつく。呼吸は浅く、唇もわずかに震えている。けれど、それでも彼は——顔を上げた。
「……ぼ、僕も……質問、させていただいても……いいでしょうか……?」
その声は、かすれていた。
けれど、その場にいる誰もが——アザルさえも、その言葉をはっきりと聞いた。
アザル=デルが目を細め、興味深げに首を傾ける。
「ふふふ……声が震えてるじゃないか。だいじょうぶかい?」
歩み寄るように、アザルの気配がじわりとにじむ。笑みの奥に、何かを“弄ぶ”ような色が浮かぶ。
「君は小さいね。まだ子供じゃないか。——うん、いいよ?」
にこりと微笑むその顔は、まるで絵本の語り手のように優しげだった。けれど、誰もがその裏にある“意図”を感じ取っていた。
「質問してごらん。私はね、子供には優しいんだ。——もしかすると、サービスしちゃうかもしれないよ?」
その声はどこまでも滑らかで、どこまでも不気味だった。
まるで、手品のタネを見せる前に微笑むマジシャンのように。
だが、ハルは一歩も引かなかった。
彼の肩が震えていることに、誰も気づかないはずがない。
それでも、彼の瞳だけは、まっすぐにアザルを見据えていた。
明日も23時ごろまでに1話投稿します
同じ世界のお話です
⚫︎ 異世界で手仕事職人はじめました! 〜創術屋ツムギのスローライフ〜
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