時空と選択の悪魔 アザル=デル
翌朝——。
焚き火の名残がまだわずかに煙を上げる頃、ハルたちは準備を整え、装置の前に集まっていた。
「いよいよ、次の階層ね」
ロザがポータルに目を向け、背中の荷を軽く調整する。その表情には、緊張よりも期待が浮かんでいた。
「三階層、長かったな……でも、あれだけの魔物を相手にして乗り越えられたんだ。次もきっと大丈夫だ」
アオミネが腕を組み、軽く肩を鳴らす。隣でクロがふむふむと頷いた。
「次はどんなしかけが待ってるでござるかな。楽しみ半分、警戒半分、でござるな」
彼は慎重ながらも、その瞳には冒険者としての好奇心が色濃く宿っていた。
「ハル、魔力は大丈夫か?」
リュカが隣に並び、声をかける。ハルは一晩の休息で回復した身体を軽く伸ばしながら、頷いた。
「うん。昨日より、ずっと元気。頑張るよ」
「それは頼もしいですね。無理だけはしないように、ですけど」
サイルがやわらかな笑みを浮かべながら、ハルの肩にそっと手を置く。
「じゃ、行きますか!」
リュカが満面の笑みを浮かべて、ポータルの縁に足をかけた。
静かに、魔力が流れ始める。
帰還ポータルと対になるように現れた、淡く光る転移ポータル。そこに一人、また一人と吸い込まれるように歩みを進めていく。
そして——
——光が弾けるように揺れ、全員の体が四階層の床を踏みしめた。
そこは、これまでのどの階層とも違う空間だった。
広く、天井が高く、やや円形の構造を持つその部屋は、石の床に無数の魔導式の痕跡が走っていた。中心には空の玉座のような台座があり、壁際の奥——暗がりの隅に、鉄格子に囲まれた檻がひとつ、静かに佇んでいる。
「……誰か、いる……?」
ハルが思わず呟く。
と、その時。
「やあ、ようこそ」
不意に空間がひずむような気配とともに、声が落ちてきた。
場違いなほど滑らかで、どこか優しげですらある男の声だった。けれど、そこに込められた「不快な湿度」は、誰の心にも直感的な警鐘を鳴らした。
「歓迎するよ、冒険者たち。ここまでたどり着くとは、実にすばらしい」
声の主は、玉座の奥からするりと現れた。人型のシルエット。けれどその皮膚は白磁のように滑らかで、顔には笑顔が張り付いていた。その笑みは、感情を模倣した仮面のようで、目だけが異様な光をたたえていた。
「……っ、魔物か?」
アオミネが眉をひそめ、刀に手をかける。
「魔物? ああ、違うよ。私はアザル=デル。時空と選択の悪魔、という肩書きもあるけれど——」
笑みを崩さぬまま、アザル=デルは腕を広げる。
「何、ただの案内人さ。ここから先、きみたちには“選んでもらう”必要があってね?」
「選ぶ……?」
ロザの視線が、警戒心を帯びる。
「おい、あの奥……」
リュカが小声で指さした先。鉄格子の中に、ひとりの人間が囚われていた。やせ細った体、長く伸びた髪、くたびれた魔術師のような衣——きっと冒険者だったのだろう。
「……長い間、囚われている感じですね」
サイルが目を細める。冷静な声が、わずかに震えていた。
「うんうん、気づいたかな?」
アザル=デルが満面の笑みを浮かべる。その歪さに、誰も言葉を返せなかった。
「彼はかつてこの階層を管理していた“ダンジョンマスター”。まあ、いろいろあって……今はそこから見守るだけになっているけどね。少し前の私との“勝負”で負けてしまって、ね?」
「……勝負?」
クロが一歩前に出る。目を細め、静かに問いかけた。
「ああ、選択というのは、時に命より重いんだ。きみたちにも、条件を提示しようと思っているよ。ふふふ、楽しみにしておいて」
その笑みの奥から、じわじわと染み出すような“悪意”。
——言葉の温度と、場の冷たさが、完全に噛み合っていない。
その違和感に、全員の背筋がじっとりと汗ばむような感覚に包まれていた。
——その時だった。
「見てたよ、見てたよ。君たちの冒険を」
アザル=デルが、檻の隣からふわりと歩み出る。人ともつかない異形の輪郭が揺れるたびに、まるで影がきしむような音がした。
「いやあ、実にバランスがいい」
薄い唇がねっとりと歪む。
「君たち三人——そう、大人組は実に優れた人格を持っている。戦略眼も、統率力も、保護者的な包容力もある。見ていて飽きないねぇ」
サイルは無言のまま、眼鏡のブリッジにそっと指を添えた。だが、ずれたわけでも、曇ったわけでもない。ただ、その仕草が異様な静けさを帯びていた。指先に込められた圧が、怒りでも苛立ちでもなく、冷たい警戒を意味しているのは明らかだった。
その隣で、クロがぽつりと呟いた。
「……魔物は、カウント外でござるか」
その呟きに誰も返事はしなかったが、空気がわずかに揺れた。
くるりと手を回して、今度はハルとリュカを指差す。
「そして君たち、ちいさな二人。まだ未熟だけど、お互いをちゃんと信じてる。命を賭けてでも守り合おうっていう、その純粋さ……あぁ、ゾクゾクするよ」
言葉の節々に、嗜虐と愉悦が滲んでいた。
ハルは反射的に一歩、リュカの背に身を寄せるように立った。震える手をぎゅっと握りしめながらも、視線だけは逸らさなかった。
リュカもまた、その肩越しにアザル=デルを睨みつけ、わずかに歯を食いしばっていた。怯えている。それでも、踏みとどまっている。二人の間に流れる、無言の意思がそこにあった。
「ねぇ? そんなに仲がいい君たちだけど……もし“選択”を迫られたら、それでもその絆、保っていられるのかな?」
アザル=デルの片目がにやりと細まった。
「例えば——一人を犠牲にすれば、他の全員が助かる、とか。うふふ、考えただけでたまらないねえ」
その声は静かだったが、耳の奥をかき乱すように響いた。
明日も23時ごろまでに1話投稿します
同じ世界のお話です
⚫︎ 異世界で手仕事職人はじめました! 〜創術屋ツムギのスローライフ〜
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