くらげの骨
誤字報告してくださった方、本当にありがとうございます!
大学が休みのその日、棚の整理をしていると箱の蓋が外れ、コツン、と固い音がして何かが床におちた。
白い塊が足元に転がる。指でつかむとそれはひんやりと冷たかった。
「なにかの骨…?」
莉花は不思議そうにつぶやき、そして気づく。骨ではなく珊瑚のかけらだ。ずっと前に、幼馴染の男の優海に貰ったものだ。そういえば、引っ越したときに箱に入れて持ってきていたのを思い出す。
莉花は手のひらに乗せて、改めてその塊を見た。小指の先くらいの大きさで、白い肌に無数の穴をもつ小さな珊瑚。かつて海の中で生きていたそれは、いま、海から離れたこの場所で静かに眠っているように思えた。
『それは、くらげの骨だよ』
ふいに、幼いときの記憶が浮かんでくる。
あの日の夕方も、海辺にいた。少し先のほうに、莉花の母親と手を繋ぐ妹、そして優海の母親の背中がある。
小学生の莉花と優海は、少し離れたところで貝殻を拾っていた。ふたりは幼馴染で、幼少期から長い時間を共に過ごしている。その日も朝から海で遊び、莉花の長い髪の毛も、優海の短く柔らかい髪の毛も日に焼けてかさかさになっていた。
砂浜にある白い塊を拾い、まじまじとそれを見ている優海に気づく。莉花は「何を拾ったの?」と尋ねた。すると先の答えがかえってきた。
『くらげの骨?くらげには骨は無いでしょう?』
莉花が不思議そうにいうと、優海は小さく笑って言う。
『そう考えたほうが楽しいかなと思って』
そして優海は、真っすぐに莉花の目を見た。夕陽をうけて茜色に染まった大きな瞳に、莉花だけが映っている。
『あげる』
優海に手を取られ、珊瑚のかけらを握らされる。有無を言わせないその行動に、莉花は少し戸惑ったが、礼を言って受け取る。少しだけ触れ合った指先に心臓がはねた。莉花はそのころにはもう、優海に恋をしていたから。
昔を思い出しながら、莉花は珊瑚のかけらを引き出しに仕舞った。それを合図とするように、玄関の扉の鍵が回される音がする。
「ただいま」
一緒に貝殻を拾ったころの面影を残したまま、背が伸び、大人になった優海が買い物袋を持って部屋に入ってくる。
「おかえり、あなたの家じゃないけど」
いつもの軽口をたたくと、
「莉花も、俺の家にただいまって言って帰ってきて良いよ」
と、そうじゃない返事が返ってくる。これもいつものことだ。ただ、同じ大学に通う優海の部屋は少し遠いため、あまり行くことはないが。
『莉花、いま付き合ってるやつとは別れろ』
また以前の記憶。
高校生になるころ、優海と一緒に行動することはなくなっていた。学校も別になり、一度街なかで見掛けた優海は、知らない女の子と一緒に歩いていた。
莉花はそのころ、優海への気持ちを、幼い日の淡い恋心として昇華しようとしていた。高校の同級生に告白され、その人と付き合いはじめたばかりだ。
そんな時、家の近くで待ち構えていた優海に、いきなり告げられた乱暴な言葉。
『別れろって……なんで優海にそんなこと言われなきゃいけないの?』
莉花は突然のことに、かなり不機嫌になった。優海だって、違う女の子と一緒に過ごしているではないか。
『私は優海の彼女でも何でもないでしょう?』
『じゃあ俺が莉花と付き合えば、他の男とは会わないのか?』
質問に質問で返され、莉花はさらにイライラした。
『意味がわからない。優海は私のことが好きなの?』
『俺は……』
優海は視線を落とし、ぽつりと言った。
『誰のことも好きになれないと思う。その感情が、分からないから』
優海は未だ誰にも恋をしたことが無い。もちろん、莉花にも。でも、莉花が他の男と付き合うのは嫌だと言う。
それを聞いた時、自分が都合の良い存在として軽く扱われている、と莉花は思った。それがあまりにも腹立だしく、何も答えず、そのまま家に帰った。しばらくして優海から連絡がきたが、すべて無視した。
だがそれから毎日、優海は莉花の家のそばで帰りを待つようになった。何を考えているのか分からず、これではストーカーだ。莉花がやめてくれと言うと、優海は表情の抜け落ちた顔で、
『莉花を放っておくと、他の男に取られてしまう。それだけは嫌だ。俺は莉花だけしかいらないから、莉花も俺だけにして』
そう言うと、あの珊瑚のかけらを渡したときのように、莉花の手を取った。その手は少し震えていた。
莉花はそのとき、今までに感じたことのない、仄暗い感情を覚えた。昔は太陽の下で楽しく遊んでいた幼馴染に、いまになって夜の海に引きずりこまれるような。
それはかつて恋をしていた幼馴染からもたらされた、苦しみや裏切りではなく、苦くも甘美な新しい関係への誘いだった。
莉花は優海を受け入れた。
決して莉花を好きにならない優海が持つのは、独占欲なのか、執着なのか、何なのかわからないままに。
ただ一つ言えるのは、莉花も優海を手放さないと決めたということだ。
夜、莉花の部屋に一つだけあるベッドにふたりで入る。明かりを落としたなかで、先ほど出てきた珊瑚のかけらを見せた。「懐かしいな」と優海がつぶやいた。
「人を好きになる気持ちって、俺にとってくらげの骨のようなものだよ」
「それは、もとから無いものということ?」
「きっとそう。だけど、莉花の手の中にだけは存在する。俺がわからないだけで」
優海は、莉花の手に珊瑚のかけらを再び握らせる。そして、その上から莉花の手ごと両手で包みこんだ。それは何かに祈るかたちのようにも見えた。
ふたりはそのまま、眠りにつく。莉花は、寝入りばなに遠くのあの海の夢を見た。小さな珊瑚のかけらが、静かに海の中を漂っていた。