花嫁の前に
姉には結婚式を間近にした男性がいる。ヨシザワさんと言う。
僕はそのヨシザワさんと一回だけ面識したことがある。姉が紹介したい人がいると言って、僕の家に連れてきた。その時には既に僕らは両親を失っていたから、姉にとって僕は唯一の家族だったのだ。
僕に関しては姉はただの姉ではなくなっていた。だからと言って、恋心を抱いてる訳でもなかった。
とても形容しがたい状態だ。言葉とは先人達の「ダブった経験」の上に成り立っている。だから、人によってそれぞれの形を持つ感情は「ダブった経験」とはならない。よって、僕の気持ちが言葉で表せないのも恐らく致し方ないことなのだ。
でも、それでも無理やり例えろと言われた場合は「友達以上、恋人未満」から拝借し、「家族以上、恋人未満」なんて珍奇な言葉を使う他ない。とにかく、僕は姉のことが好きで好きで堪らないのだ。
僕が最も得意とする料理のボルシチを食べながら、この人と結婚するのと言った時の姉の顔が忘れられない。凄く綺麗な笑顔だった。
姉は比較的シャイで消極的な性格だった。本当は凄く優しいのに、笑顔を作るのや親しくない人と喋るのが下手だった所為で学生時代は周りに疎ましがられていた。
とは言え、姉にはしっかりと同級生の友人が四、五人くらいはいたし、別に独りぼっちという訳ではなかった。しかし、姉は時々家で寂しい表情をすることがあった。表向きには友達と親しくて充実した生活を送っているように見せていただけで、本当は心の中では孤独だったのかも知れない。
そんな姉が結婚報告の際、本当に幸せそうに笑っていた。口の周りにしわが沢山作られ、そばかすのある不細工な顔が余計不細工になっていたけど、凄く綺麗で素敵な笑顔だった。
あんな笑い方、僕は知らなかった。僕は何だか水中に漂っている気分だった。
一生彼氏すら出来ないと思っていた姉が結婚する。それはとても喜ばしいことだ。でもそれ以上に、二十歳頃まで一緒に住んでいた僕すら知らないあの笑顔が許せなかった。それをいきなり横からしゃしゃり出てきては奪っていくヨシザワさんも許せなかった。
ヨシザワさんはサワークリームの代用としてボルシチの上に載せた生クリームをスプーンで掬い上げながら、気品ある笑みで僕にこう言った。
「お姉さんの、よく笑うところに惹かれました」
僕は自嘲の笑みが出てしまいそうになり、必死に堪えた。僕の知らないところで世界は勝手に回っていた。僕と姉は長い間同じ世界にいながらも、各々がまた別の世界に生きていたのだ。それは当然のことだったのに、僕は本当の意味で分かっていなかった。
眼前で満面の笑みを浮かべる女は本当に僕の姉なのだろうかと思った。この女は実は姉の皮を被った別人なのではないか。そうであったならば、どれだけ心が救われるだろうか、と。
しかし、お世辞にも端正とは言いにくい姉のゴツい顔とは不一致なハスキー声や、人に幸せ話をする時に中指の短く切った爪で目尻を軽くこする癖は健在だった。
悪あがきをする自分が余計惨めに感じた。帰するところ、僕は現実を受け入れられず、知らず知らずのうちに自分自身を欺いているだけだったのだ。
僕らの両親が交通事故に巻き込まれて死んだ時、姉は涙を流さなかった。葬式会場で泣きじゃくる僕に対し、姉はこう言った。
「あんた、泣くのを止めなさい。本当はお姉ちゃんだって泣きたいんだよ。でも、この通りちゃんと我慢してる。あんた、男の子でしょ? お姉ちゃんが我慢できるなら、あんたも我慢できるでしょ?」
僕は喪服の袖で目頭に溜まった涙を拭った。あまりに強くこすり過ぎたからか目元にむずがゆさがあり、鼻水はまだ止まっていなかった。
そんな僕を見て姉は口元を優しく弛緩させた。「そう、さすが男の子だよ」
姉は顔に笑みを浮かべていたのに、頬には一筋の真珠が伝っていた。
両親の死後、母の弟にあたる叔父さんが僕らを引き取ってくれた。僕は毎夜毎夜布団の中で胸が締めつけられる感覚に襲われた。でも、姉との約束を思い出しては泣きたい衝動を必死に抑えた。
高校三年生だった姉は当時進学したがっていた一流大学の英文学科を断念し、就職した。夏頃に姉から誘われ、僕らは叔父さんの家を出て二人で暮らすことになった。
そして僕は高校三年生の時、友人の父親が経営する会社の内定をもらった。所謂、コネ入社だった。姉は自分が学費を負担するからそのまま大学に進めと言った。僕を自分の二の舞にしたくなかったのだろう。
僕はそんな優しい姉にとても感謝しながらも就職した。姉を苦難から解放するため、僕はそれからすぐに一人暮らしを始めた。
その二年後、姉が電話で婚約を告げてきた。それは僕の思惑通りだったのに、何故か両親が死んだ時のように胸がぎゅっと締めつけられた。
僕は部屋のベッドに腰を下ろしながら携帯電話を手にする。ゆっくりとアドレス帳から「ヨシザワさん」を探し出し、何度もその名前を確認し、通話ボタンを押した。
「もしもし」ヨシザワさんが低くて渋い声で電話に出た。
僕はあなたの婚約者の弟です、ということを伝えた。ヨシザワさんは「ああ」と理解したらしく、その後すぐに「どうしたんですか?」と訊いてきた。
自分から電話を掛けておきながら何を言えばいいのか分からなくなって、沈黙した。当然、電話の向こうのヨシザワさんは戸惑った。「あの、どうしたんですか?」
色々なものが怖くなり電話を切った。間髪入れずに携帯電話の電源も切った。
僕は月明かりに照らされたベッドに横になり、自嘲にも似た小さな笑い声を出した。ヨシザワさんは戸惑うだろうな、と仕様もない優越感に浸っていた。
それから一時間ほどしてインターホンが家中に鳴り響いた。僕は条件反射でベッドから飛び起きた。まさかヨシザワさんじゃないだろうか、などと焦ったのだ。
そんな僕の予測は見事に外れていて、古臭いモニターには微笑む姉の顔が青白く映っていた。
「いきなり訪ねてきて、何の用だよ」玄関でブーツを脱ぐのに悪戦苦闘する姉に僕は意地悪に言った。僕と暮らしていた頃は中学生みたいなカジュアルな靴を愛用していた姉が、スムースのロングブーツを履きこなしているなんてにわかに信じがたかった。
「あんた、この家にはブーツキーパーかブーツスタンドはないの?」姉が威圧的に言った。芯をなくしたブーツはふにゃふにゃに折れ曲がったまま玄関に置かれている。なるほど、これでは型くずれしそうだと僕は納得した。
「必要がないから置いてない」
姉が片眉を吊り上げた。「あんた、恋人いないでしょう?」
「うん、今はいない。一カ月前に別れた」不意にそんなことを思い出させられ、僕の胸は鈍くズキズキと痛んだ。
「その子を家に上げたこととかないでしょ?」
「うん、一回もないまま別れを告げられた。でもさ、どうしてそんなことが分かったんだよ?」
姉の顔が自信と僕への哀れみらしきもので満たされた。「女への気遣いが足りないもん。あんたに彼女ができただけマシだけど、そんな感じでやっていたら長続きなんてしないよ」
「じゃあ、そんな姉貴と結婚したヨシザワさんは僕と正反対なタイプって訳か」僕はふてくされて言った。
「ええ、とても素敵な人よ。気遣いができるし、思いやりがある人。あんたとは大違い」
僕はやり取りが面倒くさくなってきたので姉をリビングに通し、さっさとソファに座らせた。「何が飲みたい?」
「今日はお酒にしましょう」と姉が言った。
「アルコールか。今家にあるのは酎ハイくらいだけど、それでいい?」
「うん、それでいいよ」姉が頷いた。どうにかひと息つけるなと思いながら僕は台所に向かった。
しかし、結婚式を明日に控える夜にどうして姉が僕の家に訪ねてきたのだろう。これは世間一般でいうところのマリッジブルーなのだろうか? それにしたって、僕のところなんかよりもヨシザワさんのところに行った方がいいのではないだろうか。
「あ、そのシリーズはわたしも好きだよ」僕が冷蔵庫の棚からテーブルに缶酎ハイを二つ移した瞬間、ソファの方から姉が言った。「それって二つの果物が混ざってるんだよね。わたしはカシスとオレンジのがお気に入りだよ」
「そんな余計な情報は要らないって」僕はつっけんどんに言った。
「あんた、コミュニケーションってものを知らないの?」
僕はそれ以上を聞きたくなかったので、コップに開けた酎ハイを小急ぎに姉に手渡した。「そう言えば、今日は歩き?」
「当たり前でしょ。結婚前夜に飲酒運転で捕まるなんて、笑えない冗談よ」
「そりゃあそうだ」僕と姉は同時に噴き出した。
それから僕らは酎ハイを交わしながら昔話をたくさんした。僕が幼稚園児の時に食べ物の好き嫌いが激しくて、母が毎日克服させようと奮闘していたこと。小学生の時に僕がいじめにあって、それを聞いた姉がいじめっ子のいる広場へ金属バットを持ってひとり突入したこと。
姉が中学三年生の時に受験の悩みと恋患いで大変病んでいて、しょっちゅう両親と衝突していたこと。「『一挙両得』を狙う」と言って結局どちらも失敗に終わり、「『二兎を追う者は一兎も得ず』ね。良いことを学んだ」なんて姉が強がったこと。そして、両親が死んでからのことも話した。
こうして語り合ってみれば、僕らは本当にお互いをよく知る姉弟だと再確認させられた。僕は改めて姉と共に刻んできた「二人だけの歴史」を実感し、同時に、それがズレて「僕の知らない歴史」と「姉の知らない歴史」が生まれ始めていることも実感した。
「あんた、お姉ちゃんが明日結婚式だってのに随分と湿気た顔してるね」顔を赤くした姉が言ってきた。呂律があまり回らなくなってきている。
「姉貴が結婚するって言われてもあまり実感が湧かないんだ。既にお互いが独立して暮らしていたから、僕にとっては大した変化は起きてないし。何より、姉貴の花嫁姿なんて想像がつかない」
姉はコップをテーブルに静かに置き、ため息を吐いた。「あんた、酷い弟だね」
「ヨシザワさんとは大違い?」
「ええ、大違い。でもあんたは最高の弟だよ」姉の目は嘘をついている人間のものではなかった。
「最低で最高の弟って訳か。ややこしいったら仕方ないや」僕は空になったコップに新たに酎ハイを足した。
「あんたにはあんたの良さがある。もっと自信を持ちなさい」
僕はため息をひとつ、姉の時よりも心持ち深めにした。「正直、慰めになっていない」
肩脇で深々と頭を沈める僕に対し、姉は子供のようにいたずらっぽい声を落としてきた。「明日、あんたを絶対泣かせてやるからね」
「それは無理だよ。僕は絶対に泣かない」
「お母さんとお父さんの葬式の時のことを覚えてる?」
「勿論覚えてるよ」
姉は再びコップに注いだ酎ハイを喉に勢いよく流し込んだ。「『お姉ちゃんが泣くの我慢してるんだから、あんたも我慢しなさい』って言ったのを覚えてる?」
「そんなこと言ったっけ? 全然覚えがないなあ」
姉は顔を歪ませて呆れた表情を形作った。お世辞にもそれは姉の顔には似合っていなかった。
本当のところ、僕は葬式の時のことを今でも鮮明に記憶している。瞑想すれば葬儀場や参列者、念仏を唱える声などあの空間を構成していた様々なものを脳裏に再現できる。
勿論、姉の言葉だってしっかりと覚えている。でも僕は忘れたふりをした。それが今の僕をつくった重要な出来事だったなんて、恥ずかしくて言えない。
「まあ、あんたが覚えていなかったとしても、とにかくわたしはそう言った訳ね」
相も変わらず強引だなと思いながら僕は頷いた。
「明日はきっと、わたしが泣いちゃうと思う」姉がもの寂しげにコップを両手で包み込むように持った。
「泣くのって予約できるものだったっけ?」僕はからかうように言った。
「もう頭の中に式場の雰囲気が浮かび上がっているの。式場の風景ではなくて、『空間』がぼんやりと霧が掛かったように。前までは掃除している時だとか読書している時だとか、ある時ふとやってくる感じだった。でも今は、いつ何時でもそんな感覚がわたしを支配しているの。全然関係のないことを思い浮かべようとしても、結局それが水底から上がってきて、ぷかりぷかりと水面に浮かんでいるの」
その感覚は僕にも理解できた。何故なら、僕の頭の中にもぼんやりと明日の式場の空間が見えているからだ。ただし、姉の思い浮かべる空間と僕の思い浮かべる空間は、大きく異なっていることだろう。
「わたしが泣かなければあんたも泣かない。わたしが泣くならあんたも泣く。そういう理屈よ」姉はとても確信したような口調だった。
僕はついつい笑いを口の端から漏らしてしまった。「そうだね。泣くかも知れない。我が姉の情けなさに」
「このバカ弟!」姉は僕の肩を軽く叩いた後、目尻に深いしわを刻みながら大きく笑った。「バカ弟!」
姉はそれから何度も何度も「バカ弟!」と連呼した。
姉が帰り、家の中には僕と空になった酎ハイの缶と酒気が残った。元から一人暮らしで慣れているというのに、何だか突然寂しくなった気がした。前の彼女に別れを告げられた時だってこんな感覚はなかった。それだけ僕にとって姉の存在は大きいのだろう。
姉の姓がヨシザワになっても僕らが姉弟であることは変わらないのに、両親と死別した時とそっくりな感覚が胸にしがみついている。
僕は携帯電話の電源を再び入れ、着信履歴を調べた。案の定、「ヨシザワさん」の名前がたくさん縦に連なっていた。
その名前をクリックし、通話ボタンを押した。二時間前なら数秒ほどで出たのだろうけど、今はただコール音が続くだけだ。僕に揺すりを掛けられたヨシザワさんは気を落ち着ける為に風呂にでも入っているのかも知れない。
留守電のアナウンスが流れると、僕は諦めて通話を切った。それから間もなくしてヨシザワさんの方から電話が掛かってきた。ヨシザワさんは安堵した風に「やっと繋がった」と呟いた。とても芝居しているようには聞こえなかった。「さっきはどうしたんですか?」
僕はまた少ししじまを置いてから喋りだした。「姉は中学生の時に一世一来の大恋愛をしたのを知っていますか?」
「え?」ヨシザワさんが素っ頓狂な声を出した。
「ちょうど高校受験の時期だったんです。恋愛に受験にと姉は体力的にも精神的にも疲労していて、勉強のことを頻りに言ってくる両親とはよくもめていました。その当時の姉にとっての二大柱のひとつなんだし、どんな男かとこっそり調べてみれば、これがまた不細工でチビな男だったんですよ。恋ってとんでもないフィルターを掛けるんでしょうね。本人は絶対に気付かないものなんです。姉も失恋してから『どうしてあんな男を好きになったんだろう』って言ってました。ヨシザワさん、このことを知ってましたか?」
電話先から独り言を口にするように小さく「いいや」と声がした。僕は得意になって続ける。
「僕が小学生の時なんですけど、僕はいじめられていたんです。相手はクラス一体の大きな、所謂ただのデブだったんですけどね、仲間が常に四、五人側にいる奴だったんです。数が多くなきゃ何もできない連中ですよ」
ヨシザワさんは尚も黙って聞き続けている。僕は遠慮なく話し続ける。
「朝登校してみたら僕の机に落書きがされていました。カラフルなのが取り柄なだけの芸術性ゼロの絵に、『死ね』とか『キモイ』とかそんなありふれたくだらない言葉ばかりでした。何か知らないかと周りの生徒たちに訊いたんですけど、彼らは一様に僕のことを無視しました。運動会なんかでは大したチームワークを発揮できないくせに、こんな時だけは連帯感が凄いんです。大いなる流れに抗ったら自分にどんな不幸が降りかかるか想像できるんでしょうね。そう言った意味では、クラスというものは一種の洗脳なのかも知れませんね」
僕はそこで一旦休み、また話し始めた。
「それを知った姉は激怒しました。相手が大人数だからって、僕の金属バットを持っていじめっ子たちの占領する公園にひとり殴り込みに行きました。そして、いじめっ子たちを連れて家に帰ってきました。顔面を腫らしたいじめっ子たちは玄関で僕に謝り、もう二度とやらないと誓いました」
僕は少し笑い混じりに言った。「姉の顔もかなり腫れちゃっていました。『いつだってお姉ちゃんが守ってあげるからね』と鼻血を出しながら姉は言いました。あの言葉がどれだけ僕を救ってくれたことか……。ヨシザワさん、知ってました?」
「いいえ」ヨシザワさんの静かな声は窓に映る夜のとばりに吸い込まれそうだった。「きっとそれは、あなた達姉弟だけの宝物でしょう。他の誰にも手に入れられません。勿論、夫の私にだって」
「あなたはまだ夫じゃない」
「え? 私たちはもう既に婚姻届を出しているので、間違いなく夫婦ですよ?」
「それは体裁的にってだけです。真の夫婦にはまだなっていないんですよ」
流石のヨシザワさんも不快になってきたのか、若干声が強張った。「どうすれば真の夫婦になれるのか、教えてもらえ――」
僕は通話を切った。そしてまたすぐに携帯電話の電源をオフにした。
僕と姉がまだ二人で暮らしていた頃、僕らより少しだけ年上のいとこの女性が結婚した。夫の男性とは大学生の時から付き合っていて、六年の歳月を経てようやくのゴールインとなったらしい。
僕らは二人とも挙式に出席した。僕にとっては今のところ唯一の体験であるその式は、夫妻それぞれの親戚と会社の同僚、友人たちで式場の密度が高かった。僕は暑苦しさにずっと眉を歪めていた。
ウェディングドレスに身を包まれて別人のように綺麗な化粧をした親戚の女性と初見の男性が入場してきた。知人たちのスピーチやらなんやらと色々なことが終わり、いよいよ夫婦が誓いの口づけをする場面となった。姉は新郎新婦の口づけを食い入るように見つめていた。
「いよいよ夫婦になるのね」ずっと黙り込んでいた姉が僕にぽつりと言った。
「あの二人は既に婚姻届を出していて、とっくに正式な夫婦になっているよ?」
「いいえ、それは体裁的にってだけよ。真の夫婦にはまだなっていないの」
「じゃあ、真の夫婦って何さ?」
「心が結ばれることよ。結婚が決まった時ではなくって、誓いの口づけをした瞬間に真の夫婦になれるの」
僕は弄るように「何だかロマンチストだね」と言った。
すると姉の目が宝石みたいに輝いた。「そう、女はロマンチストなのよ」
僕は皆の視線を一斉に浴びている新郎新婦を凝視した。二人はとても幸せそうに唇を長く重ねていた。
姉にとっては今も「真の夫婦」の条件は変わっていない筈だ。だとすれば、姉たちはまだ真の夫婦ではないことになる。
そう、まだ止められるのだ。僕の手で。
僕は空になった缶とコップが置かれた台所に足を運ぶ。蛇口から僅かに水が滴っているのに気付き、水を止めた。ノズルからポタポタと落ちてくるそれは涙のようだった。
シンクの下の扉を開け、包丁を取り出す。包丁を手にして色々な角度で窓から差し込む朝日に反射させてみた。
これが僕らの運命を変えるのだ。いや、既に運命は変わっていたのかも知れない。それもとうの昔、姉の結婚が決まるよりもずっと前に。
今日、姉のドレスの純白が式場を優しく温かく包み込むだろう。そこに僕は場違いな「赤色」を加える。僕の発した赤色は瞬く間に式場を支配するだろう。
そうしたら、姉は悲痛な顔をするだろうか? 参加者たちも同じようになるのだろうか? 普段は気にもならないけど、その時ばかりはヨシザワさんがどんな表情をするのか是非見てみたいと思った。
僕は棚の上にある木製の写真立てを手に持つ。写真の中には無邪気な笑顔を浮かべる幼い頃の僕と姉がいる。背景は陽気な春光が溢れる公園だ。姉は僕の背後にいて、両手でピースサインをしている。この頃はまだ姉の方が僕よりも背が高かった。いつから僕は姉の背を追い抜いたのだろうか?
この写真を撮影したのは両親のうちのどちらかだったが、僕は当時幼稚園児だったのでそんな細かなことは覚えていない。ただ、この時の両親はどちらとも幸せそうだったことは覚えている。先程姉が言った、ぼんやりとした感覚だ。
僕は写真立ての裏に油性マジックで一言書き、また元の棚に戻した。
『僕の全てをここに置く』