6 夢見る乙女の 素敵な名前
魔の森との境界にある城塞都市に、比較的近くの、とある国から和平の使者がやって来るという、その前日。
明るい麦穂色の髪を結い上げた若い女が、朝日の中、片手棍を手に鍛錬に励んでいた。
振り下ろされる棍の風切り音が、実戦であればなかなかの威力を振るうであろうことを物語っている。
振るい手は二十歳をいくつか過ぎたぐらいの年頃の女、ではあるが、着ている服は男物だった。
しかも兵士のような、厚布の軍服風。
片手棍を握り、構え、振り下ろし、鍛錬を続ける姿は手慣れた様子で。
日課なのだと、窺い知れた。
「名前、名前、どうしましょう。
一人軍隊のカンウ。
ニオー立ちのベンケイ、
人間兵器のリョフ、
……あらあら、迷いますわね」
女はかけ声とともに振り下ろした一撃を最後に、片手棍を腰に戻し、額の汗を拭い、身支度を整えた。
登り切った朝の光が、背筋の通ったすっきりした背中や、引き締まったすらりとした足を照らし出す。
晴れ渡る空のような青色の瞳は涼やかで、整った顔立ちは清楚。朝の清々しい気配と相まって、白百合のごとき麗しさ、カスミソウのごとき控えめな可憐さを兼ね備えた、楚々とした美女と見えなくもない。
腰の片手棍と男物の兵士服さえ着ていなければ。
女は自分の細腕を見やり、力なく肩を落とした。
「カンウ様たちのお名前をいただいても、このままではお名前を汚してしまいます。もっと励まなければ」
割れた腹筋、厚い胸板、太い二の腕、逞しい上半身を支える筋肉の付いたがっしりした両脚。
彼女の理想は空高く、遥か彼方と果てしなく遠かった。
「そうだわ。ジャンヌ、もありました」
ただ一人になっても意志を曲げなかったという聖女。
人を癒したり、慈善活動や苦行に明け暮れた聖女、ではなく。
剣を取って自ら戦った聖女だという。
「カンウ、ベンケイ、リョフ、ジャンヌ。
どれが良いかしら、どれも捨てがたいわ。
……相談して、ちょっと意見を聞いてみましょう」
朝に咲く、露草のように。
朝の光の中、悩みに曇っていた空の瞳が、明るく晴れ渡った。
朝の鍛錬を終えた女は、結んだ唇を花開くようにほころばせ、自分たちの、自分たちによる、自分たちのために建てた屋敷に、機嫌よく足を向けた。
◇ ◇ ◇
足に縄、両手は革で縛られて、馬車でガタゴト運ばれて。
花と売られるか、家畜と売られるか、なんて思っていたら。
関所抜けの獣道。
魔物か魔獣か、定かではないし、もはや定かにする意味も無く。
襲われて、馬車は転げて。
囮にされて、ただ一人。
花でも家畜でもなく、結局は、肉だったかと思っていたら。
助けてもらえて、人になった。
助けられて、連れてこられた町外れ。
子供たちだけの集団の、わたしは九人目になった。
泥だらけ、傷だらけの雑菌塗れ。
まずは、清潔に。
傷は、洗浄して、雑菌を減らして、止血。
切れた皮膚の収斂。
止血、鎮痛、防腐、煮沸消毒。
筋肉、腱、血管、骨、痛覚、神経。
免疫、消化、代謝、自己修復。
生命の神秘、神の御業、その一端を語られた。
理解らないなりに、精一杯、理解る努力をした。
そして、魔力を込めて。
イタイの、イタイの、遠くのお山へ飛んでいけ。
これが、わたしの最初の呪文。
そして、思いもよらず、奇跡のような月日が廻る。
月夜の晩も、嵐の夜も。
どんな夜でも、みんな楽しみに待っていた。
……わたしも。
灰かぶり姫、髪長姫、鉢かつぎ姫、それはそれは女の子が好む、甘くて素敵なお話だったけれども。
ナイチンゲール、ルルドの聖母、それはそれは女の子が好む、優しい慈愛に満ちた、憧れずにはいられないお話だったけれども。
孤軍奮闘、万夫不当、一騎当千、そんな血沸き肉躍る活劇譚に、わたしは心惹かれた。
そして女の子向けに話を、っていう中で、ジャンヌという聖女様のお話は、ちょっと他と違っていて。
人を癒す、とかじゃなくて、剣を取って、兵を率いて、戦ったの。
夜、眠る前のお話で。
偽物の王太子を上座に座らせて、本物の王太子を臣下に紛らせて。
ジャンヌを試そうとした場面は、本当に、ハラハラしたわ。
そこに座ってるのは偽物よ、ジャンヌ、気づいてって声にも出して応援したわ。
そして。
――続きは、また明日。
嘘でしょう!?
そんな、信じられない毎日を繰り返して。
気が付いたら、みんなと一緒に、今、この城塞都市にいる。
昔は、花か家畜かで終わると思っていた私が。
無手で、正拳、回し蹴りを。
武芸で、棍と盾を。
縄に足を取られることなく。
紐に手を縛られることなく。
鎖に首を繋がれることなく、思うがままに、自由自在に振るうことができている。
名前。
花でも家畜でもない、今のわたしの、素敵な名前。
カンウ、ベンケイ、リョフ、ジャンヌ。
千夜かけて悩んだってかまわないわ。
◇ ◇ ◇
ある晴れた日の、朝の廊下で。
「いやぁ、一択じゃないかな、それは」
「選択の余地、ないよ」
「ねぇ、女の子の名前、一人だけじゃない?」
「そこで悩むところが、あなたらしいわね」
「俺、俺なら……っ、やっぱ、一人軍隊のカンウが、カッコ良くね!?」
「ぼくはねー、人間兵器のリョフ! 一番強い、サイキョー!
……あ、だめだめ、リョフはだめ! リューオーが最強だから、リョフはだめー!」
「あ、そっか、カンウなら、頭がリュウビに……。いやいや、俺ら、八部衆だから! カンウはなしで!」
「八部衆設定、まだ生きてたんだ、そっちのほうが驚きだよ」
「あ、そうだった、あたし、朝ごはんに呼びに来たんだった。
ほら、みんな、行きましょ。
食堂で食べながら話し合ったらいいでしょ」
賑やかに。
騒がしく。
鎖もなく、鞭もなく。
それぞれ勝手に、自由に思いを口にして。
それでも仲間と、話し合うのを楽しみに、食堂へと足を向け。
扉が、ぱたん、と閉じられた。
本人は千夜話し合う気でしたが、秒で「ジャンヌ」に決まりました。