4 モットーは 強く怖く美しく!
南の海のような青碧の、大きな瞳。
北の海のような蒼黒の、波打つ長い髪。
細い首、細い腕、豊満な胸に細い腰。
つい、と白魚のような指が、珊瑚の唇にあてられ。
「セイレーン。
歌声で惑わし、水底に引きずり込む、海の化物。
それが、私の名前」
先発隊三百名の敗退を知らず。
略奪のおこぼれ、あるいは占領政治のために訪れた使者を前に、セイレーンと名乗る女は凄艶に笑った。
山稜のごとき大門前で、この美女を真っ先に押し倒し、組み敷こうと下卑た笑みを浮かべた使者だったが。
突如響いた轟音に、背後を振り返った。
目に映ったのは、突然陥没した地面と、その内部に満ちた水と、沈みかけの兵士。
無かったはずの広く大きな池が、突如、現れていた。
そして、脅迫外交のために、後押しの圧迫材料として連れてきた兵士二百名。
そのすべてが。
「今はまだ、首まで。
さて、使者殿。
話を続けましょうか?」
仲間の兵士はすべて、溺死の危機にさらされ。
ただ一人、山稜のごとき大門前で水没を免れた使者に。
交渉できる力など、何一つ残っていなかった。
◇ ◇ ◇
夜の眠る前、見たことも聞いたことも無い話を、歌うように話してくれた。
アルゴー船の英雄たちの大冒険、円卓の騎士の物語、空飛ぶ絨毯に魔法のランプの童話、夢みたいな話を尽きることなく、溢れるほどに。
明日に夢なんて見れなかったけれど。
物語に、夢を見た。
手の平でお椀を作れば、零れるように水が溢れる。
ただ、それだけ。
なんの役にも立たないと、町外れに捨てられた。
二つ下の妹が一呼吸で水桶一杯に水を貯めて、生乾きの小枝に火を点けた時から、こうなる予感はしていた。
町外れの崩れかけた洞穴の子供たちに、運よく、私は拾ってもらえて。
そして、教えてもらった。
顔を、煤で汚すこと。
髪を、灰で汚すこと。
体を、ふくらみを、できるだけ隠すこと。
……ここにいた女の子が男たちに連れていかれて、帰ってこないこと。
何回か冬が来て。何人かが冷たくなって。
あの夏、あの子が来た。
私の手から零れ落ちる水を、すごいすごいと手を叩いて大喜びしてくれた、あの子が。
誰もが首を傾げる中、手を洗うことは大事なのだと、みんなの前で言い張った。
そして私の両手を、宝物の様に見せびらかして。
なんて便利で助かる素敵な魔法なのかと。
いてくれて嬉しいと。
人に喜んでもらえるなんて、初めてだった。
そう、そして忘れもしない。
手を洗って、払った飛沫を指さして。
あの子は水の精霊と、水の精霊界、そして世界を廻る水の循環、つまりは世界の理を、私にも理解できるように話してくれた。
小さな精霊を主役にした、『しずくの大冒険』。
だから。
両手を揃えれば、零れる水。
両腕を広げれば、流れる川。
両手を、空を招くように大きく掲げれば、落ちてくる瀑布。
手から零れる水をすごいすごいと喜んでいたあの子は、瀑布の向こう側で、どんな顔をしていたのかしら。
名前をと言われて真っ先に思い浮かんだのは、デュマと同じく、自分の好きな物語だったわ。
だけど。
シズクって、お話を知らなかったら、弱そう、なにそれ、なんでそんな名前をつけたのって言われそうで。
そんなこと言われたら、私、怒る。絶対に怒って暴れる自信がある。
そしてきっと、『しずくの大冒険』の話をしてしまうわ。
でも、精霊界の話とか、水の循環、世界の理を、そう簡単に話してしまっていいの?
考えるまでも無いわ、だめでしょう、私。
自重しなさい。
次に思いついたのが、アルゴー船の英雄たちの大冒険。
英雄たちの、仲間たちと一緒に危険を乗り越えていく勇気と強さに、当然、心惹かれたけれど。
印象に残ったのは、海の場面の、歌で英雄を惑わす化物。
あの無双を誇る英雄たちでさえ、勝てなかった。
楽器をかき鳴らして、歌声を打ち消すのが精一杯で、船を急かして立ち去った。
セイレーン。
歌声で惑わし、人を水底に引きずり込む、海の化物。
恐ろしいし、英雄を退けるほど強いし、しかも……美人ぞろい、みたいだし。
煤と灰で隠したけれど、やっぱり、綺麗になりたかった。
物語でも、お姫様は美人だったり、可愛かったり。
円卓の騎士の物語でも、湖の貴婦人はとっても綺麗だったから。
恐ろしくて、強くて、美しいセイレーン。
誓うわ、この名前に。
この名前にあやかって、恐ろしくて、強い、美しい女になるの。
◇ ◇ ◇
ある日の、談話室で。
「悪い、正門前の身代金を移動させるの、手伝ってくれないか」
「いいけど、大丈夫? 伏兵いそうなら、あたしだけで行くよ?」
「いや、近くの精霊様が教えてくれたけど、もう誰もいないってさ」
「財貨を積んだ馬車を置いたら、走って逃げて行ってしまって。
水で押し流す隙も無くて……残念」
「いやいや、もめ事にならずにすんで良かったんだ、ここは喜ぶところだぞ。
ああ、そうだ、ちょっと頼んでいいかな?」
「なぁに? ぼくがんばるよ!」
「後で、人質を岩砦から出して、正門で馬車に乗っけて解放するんだが。
その時、黒い子の雄叫びを一声、頼みたいんだ」
「……見える、見えるぞ、蜘蛛の子を散らすように、逃げていく人質の様子が……っ」
「ああ、うん、そう、それ狙ってる。
大人しく逃げて行ってもらおうと思ってさ」
「うん、いいよ、じゃあ、もうちょっとしたら正門にいくね」
「そうしてくれ。
で、お前には、身代金の確認を頼むな。
金貨はともかく、馬車そのものとか魔道具とかの方。ヘンな仕掛けがないかどうか」
「わかった、僕に任せて。
金貨も……呪いの金貨、そして始まる密室殺じ……」
「始まらないように、確認する時は、二人以上で頼む。
あれだ、ふらぐ?を、立てるな」
「む、仕方ない。では先に倉庫に。
誰か……」
「なら、私が行くわ。
気が付いたら、倉庫で倒れてそうだもの」
三々五々と部屋を出て行く中。
一人がふと、部屋を振り返り。
窓近くの棚の上、いくつかの色石が中に入れられた古びた箱へ。
ぱん、ぱん、と手を合わせて頭を下げて、一礼し。
「お嬢様、今日も一日、宜しくお願いします」
いってきます、と、扉がぱたんと静かに閉じられた。
オデュッセイア本来なら鳥なんですが、セイレーンは半人半魚の方のイメージでお願いします。
そして、みなさま。小学校の頃、上水道見学等で、水の循環って学びませんでしたか。そう、雨から川、そして海に合流して上がって雲、そしてまた雨に。
あの小冊子と絵本の合わせ技です! 懐かしい一冊をどうぞ。