9 千日戦争は回避された
最終話です。
窓も扉も開け放たれた、昼下がりの柔らかな日差しが差し込む領主館の休憩室に、城塞都市の重鎮九人、全員がそろって席についていた。
数人が戦いに赴く戦士のごとき表情を浮かべ、ひりつく緊迫した雰囲気が、長閑でうららかな午後を足蹴にする。
窓から一陣の風が吹き――肥沃な黒土の色を髪に、新緑の色を瞳に持つ少年が、まず真っ先に口を開いた。
「天竜八部衆って、たしか、ブッポー? ホトケサマ? を守るんだろ。
だから、ホトケサマがいいと思うんだっ」
「うーん、たしかホトケサマじゃなくて、ダイニチなんちゃらとか、タイなんちゃらって名前じゃなかったかなぁ」
優し気な顔立ちの金髪の青年が、昔聞いた話を思い出して、のんびりと口をはさむ。
すると斜め前の、麦穂の髪を綺麗に纏め上げ、背筋をぴんっと伸ばして姿勢正しく座っていた女性が、淑やかに、そして強かに微笑んだ。
「ふふっ、メシア、の方がよろしくありません?」
「むっ、閃いた! メシアを少し捻って、メサイア……いや、さらに捻ってイリーガル・メサイアで。
非合法の救世主、呼ぶときはフルネームで。省略して呼ぶなんてダサい真似は認めない」
ほわほわの綿毛のような色味の薄い青年が、宝石つきペンダントをいじって俯いていた顔を上げ、声を弾ませて主張する。
その次に、隣に座っていた黒髪の女性が、ほっそりとした白魚の指を珊瑚の唇に当て、流し目一つくれて口角を蠱惑的につり上げた。
「カンノンサマで、カノン、はどうかしら。
ほら、響きが可愛いでしょう?」
流し目に、腕をあてて胸の豊かさ、もとい、スタイルの良さを強調して、唇に指をあてるというポーズ付きでのプレゼン。
「ねぇ、待って、ちょっと待ってあげて。どれもこれも、大仰すぎるんじゃない……?
名前として、それってどうなの」
「でもお姉ちゃん、どれもかっこいいよ!」
黒髪の姉弟が、特に弟が、目をキラキラさせて、頬を興奮に染めてはしゃいだ声を上げる。
二人はしばらく、かっこいい? かっこいいよ! と言い合い。
最終的に、姉の普通で一般的な感性は、弟に敗北した。
「ホトケサマ」
「メシア」
「イリーガル・メサイア」
「カノン」
名前を上げた者は誰一人として譲らず、一歩どころか、どんぐり一個分も退きそうにない。
一触即発の無言のにらみ合いがしばらく続き、どこかからか開幕のゴングが、カーン、と高らかに鳴り響くかと思われた時。
「センジュ」
赤い髪の男が投げた名前に、獲物は、それはもう勢いよく食いついた。
◇ ◇ ◇
真っ暗だった空が、夜の端の方から白み始めましたね。
(……聞こえますか……今……あなたの……心に……直接……呼びかけています……)
というわけで。
我らが城塞都市の、領主館の屋上から。
こんばんは、おはようございます。
彼は誰時のあなた。
近場の国が兵を寄越してきても、アリを蹴散らすように、ぺぺいっと撃退しましたよ、みんなが!
こんなに超絶有能なみんなが、無力で無能なわたしを神輿と担いでくる、この何とも言えない気持ち、わかってくださいます?
昔、といっても、それほど昔ではないはずなんですけど。半地下掘立小屋に居ついていたわたしが、今では一国一城の主、もとい、城塞都市の主です。
いえ、もうこれ、一国になってますね。
岩砦のある立派な都市国家、やったね!
……オー、アール、ゼット、って地面に手をついていいですか?
ほんと、なんでわたしがリーダーなんでしょうね?
わたし、布教する以外、なにもしていないのに!
ハブられてるみたいなお誕生日席はイヤですー。
とは言っても、仲間のおかげで生きてるわたしが、仲間の希望を叶えないわけもなく。
用意された席に大人しく座ってます。
気分は、某感染性ウィルス大流行時に銀行のイスに置いてあった、どこぞのマスコットキャラクターのお人形です。
お口バッテンなぬいぐるみでも可。
小さい頃に捨てられたわたしは、実を言うと、今世でつけられた名前、愛着が無いを通り越して、自分の名前と認識できなくてですね。
わたし自身が自分の名前って言われて、日本の名前を自然と思ってしまうぐらいに、覚えてません。
なので、小さいの、とか小ちゃん的な言葉で呼ばれて、返事してたんですよ。
この度、名づけブームが巻き起こったので、自分の名前を付け直すことになりました。
自分で自分の名前を決めるって、昔の中国の字かと思わなくも無いですが。
日本名はさすがにヘンすぎて悪目立ちするだけだったし、世界観さんを迷子にするわけには、って自分で却下しまして。
じゃあ、世界観に合う普通の名前ってなに、って悩んで。
日本令和の記憶持ちに、この世界のネーミングセンスを期待するなと逆ギレしかけましたね!
悩みに悩んで、もうみんなに、わたしはなんでもいいよ、って言ったんです。
言ってしまったんです。
ごめんなさい、撤回させてください。
ホトケサマ、は、あんまりです。
生きてるのに死んでます!
メシアって、大層がすぎます。
わたしに何が救えると!?
イリーガル・メサイア。
救世主に合法も非合法もあるんですか???
カノン、観音様って、日常的に呼ばれるのは日本人的にイヤですー!
だから、最後にぽろっと転がり出てきた「センジュ」に、飛びついたわたしは悪くない。
まぁ、今考えると、センジュって、センジュってぇぇぇ! と思わなくも無いですが。
阿修羅王を断った彼に、ラゴラを勧めたわたしが、センジュをダメだとは言えません。
うん、直接、観音様って呼ばれるよりは、遥かに、精神的ダメージは少ない、少ない。あのラインナップの中では、比較的、名前っぽい。
この世界の誰も、仲間のみんな以外誰も、気づかないから大丈夫!
自分への言い訳って、大事ですよね。
だから。
センジュ。
これがわたしの名前。
この世界の家族に、呼ばれる名前。
大好きだと、声が枯れるまでみんなの名前を叫べば、わたしの気持ちは伝わるでしょうか。
名前は最も短い呪であると。
どこかのお偉い陰陽師様が言ってた台詞、もうほんと、実感しました。今までは心のどこかで、日本人のわたしがファンタジー世界に転生、ウケるー、なんて思ってたんですよ。
わたしは、日本人だって。
でも、名付けのおかげで、転生した令和の日本人であったわたしが、令和日本の記憶持ちのこの世界の人間になりました。
なって、しまいました。
だから。
この世界に生まれ落ちたくせに、魔法一つ使えない、無力で無能な役立たずなわたしを。
センジュと。
名前を呼んで、そばにいるから。
センジュと。
名前を呼んで、そばにいたいから。
大好き、なんていう言葉で。
わたしの懇願はちゃんと隠されているでしょうか。
大好き、なんていう言葉で。
わたしの慟哭はちゃんと隠されているでしょうか。
大好き、という気持ちだけが。
ちゃんとみんなに伝わっているでしょうか。
わたし一人だけが無力で無能で役立たずだと、わたしだけが思ってしまう。誰もわたしを蔑まないのに、わたし自身がわたしを卑しめる。
醜いヨダカはそれでも空を飛び続け、星になりました。でも、わたしに翼はなく、飛ぶこともできず、地上にいてこのまま。
……なんて。
こんな泣き言、朝が来れば見えなくなるお星さまと一緒に、清々しい朝日でさよならばいばいです。
日に照らされるのは、大好きっていう想いだけで良いのです。
それでも。
羨望や執着、そんな言葉でさえ生ぬるい、みんなには明かせない目を背けたいこの感情を、誰でもない誰かに聞いてほしかったから。
綾目も見えぬ暗い夜と、何もかもを白日の下に晒してしまう明るい朝、そのどちらでもない彼は誰時のあなた。
言葉に乗せず、文字にも書かれず、誰にも知られることのないわたしの一人語りの、話し相手になってくれてありがとう。
夜の端が白から橙、そして青へ。それから瞬く間の内に青は空全体に広がり、夜空に残っていた最後の星が朝の青に溶けていく。
雲は夜の黒から昼の白へと色を変え、わずか残った薄闇を薙ぎ払い、遍くを照らす黄金の太陽が、満を持して姿を現した。
昨夜から続く明日の今日が、今からまた始まる。
◇ ◇ ◇
(エピローグ)
国の命運を背負い、顔色を蒼白にしながらも、輿入れしてきた姫君一人。正真正銘、顔良し、器量よしの、国の誇る王の愛娘。
黒竜に豪雨、トドメに太陽が落ちてきたかのような業火を前に、婚約は問答無用で解消された。
そして持参金と肖像画と姫本人を持ち込みで、押しかけ婚を申し込んだのだが。
即座に、その場で、断固として、断られた。
それでも、国は姫を差し出した。
妃とは言わず、寵姫でも愛妾でも端女でもと、それはもう縋りつく勢いで納品されて。
今、城塞都市の、帳簿を付けている。
そして、これが終わったら、広場の青空教室なる所で、ちびっ子達に文字を教える予定で。
そして、またさらにその後は。
「生まれて、死んで、また生きて。何度も生まれ変わっている猫さん。
今日で最終回。どうなるのでしょう……」
誰もが見とれる麗しの美貌から、憂いに満ちた呟きが漏れ出る。
城塞都市の主による、広場で恒例の、お話し会。
手が空いている者は聞きに来て良し、と公布されている。
王族として厳しく育てられた姫は、王国も、王国の元婚約者もきれいさっぱり忘れ去り、見たことも聞いたこともない物語の虜になっていた。
「終わりましたわ!
さぁ、次はちびっ子さんたちです。
今日こそ、単語を十、覚えてもらうのです!」
昨晩の夢に、立派な王冠を被った父王が出てきた気もしましたが、お姫様はその夢の残滓を、帳簿と一緒に書類箱へと放り込み。
「これで、おしまい」
その言葉を最後に、ぱたん、と箱の蓋が閉じられた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
懐かしい絵本を思い出す一助になれれば幸いです。