第十話 描画
「はぁはぁ・・・確かこの道で・・・合っていたわね」
屋敷を飛び出して森の小道を歩いている。この先には見晴らしの良い丘がある。
幼い頃母フランカがよくピクニックに連れて行ってくれた場所だ。王都から少し離れたソァーヴェの領地はものすごく広い。色んな景色を楽しめる。
私一人で屋敷を抜けても誰にも咎められない。私が邪魔だから私が何をしようともお父様達は関心を示さない。それを逆手に取れば自由にできる。
あの人達は私を食堂から追い払って楽しく過ごしているのかと思っていたけど、三人とも自分の部屋に籠り切っているようだ。お父様達の考えが本当に分からなくなっている。
薄緑色に包まれた小高い丘の上に登ると領地一帯の景色が見える。広がる田畑には緑の麦の穂が生い茂っている。登り切った爽快感と心地よく吹く風が心を癒してくれる。
「ふぅ・・・長い間来ていなかったけど・・・ここは変わらないな」
向こうの方にはこの国を象徴する三つの山、高く聳えるサダンと横幅の長いダグラドに低いバィワの山々が見える。
あの山には未だ人の手が入っていない。聞くところによると人ならざる野生の獣・モンスターの巣窟だそうだ。
腰を降ろしてイーゼルを広げ、絵具を取り出しキャンバスを置く。とりあえずあの山々をスケッチする事に。
「やっぱり・・・上手くできないわね、もう少し描き足そうかな」
王太子妃候補となって以来の久しぶりの絵画だ、思っていた以上に腕が鈍っていた。もう少し練習を重ねなきゃいけない。
母フランカの肖像画を処分されてショックだっだけど、処分されずに済んだ絵具とイーゼルを見て思い出した。
お母様は私の中で生き続けている。いつでもその姿を思い浮かべる事が出来る。
だったらもう一度肖像画を描けばいい。今度は持ち運びやすい小さなサイズにしようと思う。さすがに何度も処分されるのは困るから。
「ぃやぁ、ここまで来るのにこんなに疲れるとは・・・運動不足が祟っているなぁ」
突然響いてきた人の声に振り返る。それは見知った顔だった。
「まぁ、ビアジーニ教授ではありませんか!」
「あ、貴女はソァーヴェ嬢?奇遇ですね、どうしてこんな場所にご令嬢が??」
汗だくになりながらも爽やかに応える教授。こんな時にも令嬢扱いする真摯さには少しムっとしてしまう。
「ここは我がソァーヴェの領地です、我が家への訪問には先触れが必要のハズですが」
「これはうかつだった、まさかここがソァーヴェ領だったとは・・・実は」
聞くところによると普段教育と研究に集中しているあまり運動不足になっている教授は、それを解消すべく色んな場所を歩きまわっているとの事。
ここイラツァーサ王国は商人や兵士など特殊な立場を除いた国民同士なら、貴族の領地を歩き回る事に特には制限を設けていないから問題はない。
「この丘から見える景色は最高でして・・・僕の見つけた専用スポットだと思っていたのですが貴女の家のご領地だとは知らずに・・・申し訳ありません」
平謝りするその姿はいつもの研究者としての顔とは違うので思わず笑ってしまう。
「ふふっ、冗談です・・・この場所が気に入って頂けたなら家の者として光栄ですわ」
「はは、そう言ってもらえると助かります・・・それはそうとソァーヴェ嬢、この絵はもしや?」
「ええ、私が描いたものです・・・我流の上に久しぶりだったものでお恥ずかしい出来です」
「ご謙遜を・・・ふむ、山の形や構図は完璧だ・・・しいて言うなら色合いか、少し失礼」
教授はそう言ってイーゼルからキャンバスを外して持ち歩く。なぜか眼鏡を外してしばらく向こうの景色とキャンバスを見比べる。
キャンバスをイーゼルに戻して絵に描かれている山の部分を指さす。
「山の色は空の大気の色が反映されるものです、山の緑を再現しようとするあまり緑色を使い過ぎていますね・・・少し青色を混ぜてみては如何でしょうか?」
「・・・承知しました」
教授の言われるままに青色を少しずつ山に加えていくと・・・絵全体に奥行きが出てきた。
「すごい、教授は絵画もなされるのですか?」
「いえ、僕が優れているのは視力だけです・・・絵画なんてとてもとても・・・僕ごとき素人が余計な口を出してしまい申し訳ありません」
裸眼のままの教授の素顔を見ていると思わずドキドキしてしまう。普段は眼鏡をされているので分からないけど優しそうな目をされていらっしゃる。
「そんな、お陰で色の使い方を学ばせて頂きました!でも不躾で失礼ですが・・・視力が良いのなら眼鏡を掛ける必要がないのではありませんか?」
「良過ぎるのも考えもの、という事ですよ・・・一度に色んなモノが見えるのもツライものです、だからこの眼鏡を掛けて視力を常人と変わらないように抑えているんですよ・・・ご覧ください」
教授が差し出す眼鏡を受け取りのぞき込む・・・見た目は透明なのにレンズが分厚くて辺りの風景が全てぼやけて見えてしまう。眼鏡を返して答える。
「これでは・・・何も見えませんわ」
「コイツを掛けてようやく僕は人並みに生活ができるんですよ・・・さて僕はそろそろお暇致します、怖い方がこちらに向かっているようなので」
「・・・えっ?」
「ご心配なく、僕にとって恐ろしくはありますが貴女にとっては頼もしいお方ですので・・・名残惜しいですがそれでは」
そう言って頭を下げたビアジーニ教授は来た時と反対側の道を足早に歩いて行った。こちらに向かってくる方とは・・・。