45.
「では、いきます……っ」
「は、はい……!」
レオが姿勢を正し、セレーナが大きく息を吸う。
「れ、れ、れれ、れ……おさま……」
いけそうな気がしていたセレーナであったが、改まった空気に羞恥心がぶり返したせいで真っ赤な顔でどもってしまった。
構えていたレオはあまりのどもりっぷりに肩の力が抜けたらしく、くすくす笑っている。
何だか自分だけが恥ずかしい思いをしたみたいで、セレーナはぷくっと頬を膨らます。
その様子に気付いたレオは、ぴたっと止まる。
そして、手で口元を隠すとふいっと顔を逸らしてしまう。
「レオ様? ……あっ」
「今……」
彼の様子を疑問に思い、それが声に出ただけなのだけれど、自然と名前を呼べたことに呼んでから気付いた。
名前を呼ばれたレオも驚いて目を見開いている。
ちゃんと名前を呼べた事が嬉しくて、セレーナはソファーからおりて向かい側に座っているレオのところに走り寄った。
「今っ、呼べました!」
「……もう一度。……もう一度、呼んでいただけませんか?」
「れ、レオ様……?」
「っ」
上目遣いで恥ずかしそうに名前を呼ぶと、レオは硬直し、セレーナは涙目になる。
(この空気……どうしよう……っ)
もう少しこのままで居たいような、逃げ出したいような心が騒がしい不思議な気持ちに困惑していると、コンコンとノックの音が響くとガチャリと扉が開いた。
顔を出したのは、言わずもがなセレーナの侍女のマリーだ。
「お名前も呼べたようですし、そろそろ大丈夫では?」
「マ、マリー!? 聞いてたの!?」
「すみません姫様……。レオ卿がいかがわしいことをしないとも限りませんでしたので」
「しませんっ!!」
真っ赤な顔で慌てるセレーナに対して、マリーは涼しい顔でさらりと爆弾を放り投げる。
セレーナはよく意味が理解出来ていなかったが、レオは顔を真っ赤にして否定している。
彼の言葉を聞くなり、マリーの瞳がキラリと光ったような気がした。
「意味をご存じなのですね……? 姫様、やはりレオ卿はやらしいです!」
「やらし……??」
「くないですっ!! 違います! 本当にっ、たまたま知っていただけで……! マリーさん! やはりって何ですかっ」
マリーが真顔でレオを弄っているだけということにセレーナは気付いたが、彼は疑われては堪らないと必死に否定を続けている。
そんなに部屋を追い出されたのが嫌だったのだろうかと、二人のやり取りを眺めながら思う。
「冗談です」
「じょ……っ!?」
表情を変えることなくばっさりと会話の流れを断ち切ったマリーに、レオは絶句していた。
心なしかすっきりした表情をしているように見えるので、きっと気が済んだのだろう。
二人には申し訳ないことをしてしまった。次からはもっと上手くやろうとセレーナは心の中で反省をした。
それよりと話題を変えるマリーの声でセレーナは意識を引き戻される。
「レオ卿と呼べば、呼びやすくなるのではないですか? レオ卿も気付いていたのでは?」
「それもそうね!」
気付かなかったわと手をぱちんと叩くセレーナに対してレオがぽそりと呟く。
「他の者と同じような呼び方で呼ばれるのが、なんとなく……」
「なんですか? 姫様と知り合ってまだ間もないというのに、独占欲ですか?」
「っ」
マリーの指摘に、レオは図星を言い当てられたのか言葉に詰まった。
話を聞いていたセレーナは、んーと少し考える素振りを見せた後、レオの袖をくいくいと軽く引っ張る。
「どうかされましたか?」
「あのね」
そこで一度言葉を切ると、恥ずかしそうにしながらそっと告げる。
「レオ様って呼ぶので、レオ様もセレーナって呼んでくれませんか? 他の人がいない時だけでもいいので……」
「……いいのですか?」
一瞬驚きで目を見開いたレオがやや緊張した面持ちで尋ねると、セレーナはこくんと頷いて答えた。
「俺のことも名前で呼んでくださいね。約束ですよ……セレーナ様」
「はい、レオ様」
ふいに一人称が変わり、セレーナはドキッとする。
(おれって言っているのって……やっぱり素……なんだよね……っ)
頬を赤らめながらも楽しそうに話している二人から少し離れたところで控えているマリーの元に、一人の男性が近づいてコソッと耳打ちした。
「え、何あれ。恋人同士にでもなったのか?」
「そんなわけないでしょう。お互いのことを名前で呼ぶとお決めになっただけですよ、アックス卿。交代の時間ですか?」
「そうそう。これから夜勤」
マリーの元にやって来たのは、交代の時間で出勤してきたアックスだった。
嬉しそうに笑い合う主人とその騎士を見守りながら、会話を続ける。
「そうですか、お疲れ様です。姫様の安眠を命がけでしっかりと守ってくださいね」
「おー。任せとけ……っていうか、マリーちゃんご機嫌ななめ?」
相変わらずやる気があるんだか無いんだかよく分からない緩い返事を返すと、ついでのようにマリーの機嫌を尋ねた。
アックスに気に掛けられたことが気にくわないのか、それとも言われたことにより苛立ちを自覚したのか、その両方なのかは分からないけれど、マリーははーっと深い溜め息を一つ吐いてから答える。
「……そうですね。機嫌……悪いのかもしれません」
「どうした? 姫様取られて寂しいのか」
「本当デリカシーの無い人ですね。……姫様が幸せなら私はそれをただ黙って見守るべきだということは分かってるつもりだったんですけどね……」
マリーの寂しさを滲ませた声に、そこまで弱っているとは思っていなかったらしいアックスは頭をガシガシと掻いた。
「あー……、いや、悪かったよ……。ほら、恋人同士になったわけでもないんだしさ、あんま気にすんなよ。な?」
気まずそうに目線を逸らしながらも、一生懸命慰めようとしているらしく言葉を紡ぐアックスをちらりと見て笑った。
「なんですか、その下手な慰め。大丈夫ですよ。……割り切るのも諦めるのも慣れてますから」
「なんだよ、その意味深発言は」
「なんでも。言ってみただけです」
「言ってみただけってことは……」
「アックス卿、お疲れさまです」
問い詰めようとしたところで、アックスに気付いたセレーナとレオが声を掛けたのでそれ以上尋ねることは出来ず、話は終わった。
マリーも先程の寂しそうな表情は消えていて、いつものにこやかな彼女に戻っている。
「あ、マリー。あのね、レオ様のご実家にわたしの護衛騎士になったことと居住先がここになる旨の文を届けてもらえないかしら」
「かしこまりました。そうだ、レオ卿」
「はい?」
一礼して退室しようとした時、伝えそびれていたとマリーがレオを呼ぶ。
「客室にあったお荷物は全て隣の部屋に移動させてありますから、本日からは隣室でお休みくださいませ」
「ありがとうございます」
「いえ。では、失礼致します」
そう言って、一礼すると皇室からの文を送る為、執事長に報告をしに退室していった。
丁度良いタイミングだったのか、部屋の主であるセレーナを残して解散となった。
「本日も部屋の前に居りますので、何かありましたらいつでも声をかけてくださいね」
「私も隣室に居ますので、いつでも呼んでください。何時でもセレーナ様のお側に参りますから」
「二人ともありがとう。おやすみなさい」
扉が閉じるまで二人を見送ってから、応接室から続き間になっている寝室に入るとベッドにダイブする。
暫くするとマリーが戻って来て、湯浴みを手伝ってもらったり髪を梳かしてもらったりしている内に疲れと眠気がドッとやってきて、強い眠気には抗えずそのまま夢の世界へと旅立っていった。
そんなセレーナを優しく抱きかかえてベッドに寝かしつけると、額に優しく口づけを落としてからマリーはそっと部屋を出て行った。
こうして、セレーナにとってもレオにとっても長い一日が幕を閉じた。




