逃避
「俺は--死にたくにゃい!おぬしと共に生きられる路があるのにゃら、たとえ何を敵に回そうとも、おぬしと手を取り合って生きていたい!」
遂に口にしてしまった、男の本心。同時に、堰が決壊したかの如く、男の眼から涙が零れ落ちた。
「こんにゃ事、許されるはずもにゃい。わかっている。……情けにゃい俺を、おぬしは嗤うだろう」
「……あにゃたさまは、情けにゃくにゃんかありません。少なくとも、わたくしはそんにゃあにゃたさまに何処までも、着いて行きとうございます」
力なく崩れ落ちた男を、女はそっと抱き締めた。優しい温もりに包まれた男は堪えきれず、女の細い腰にそっと腕を回す。
二匹だけの静かな世界。それを阻むものは何も無く、完全に目を覚ました太陽と、微動だにしない柳のみが二匹を見守っていた。
「……兵務規定違反、及び敵前逃亡は極刑にゃ。平穏にゃ余生を歩むことは限りにゃく不可能に近い。それでも……それでも、俺と共に生きてくれるか?」
「何度だって言います。わたくしは、あにゃたさまのお傍で、共に生きていきとうございます。生命尽きるその日まで、ずっと」
決して楽ではないその路を、共に歩むと決意してくれた女の為に、男は腹を括るしかなかった。人間に追われ、同胞に追われ、周りの誰もが敵になる。だとしても、ただ一匹の愛する者の為ならば、どんな地獄でも受け入れてやろう。
「おぬしの覚悟、しかと受け取った。にゃらば向かおう……誰の手も及ばにゃい、俺とおぬしの楽園を探しに」
「……はい、喜んで」
二匹が故郷を離れてはや半年、季節は冬を迎えていた。雲ひとつない寒空の下、二匹は身を寄せ合いながら、気休め程度に暖を取り合う。
状況だけを簡潔に説明するなら、『最悪』の二文字だけで事足りるだろう。二匹が当てどもなく逃避行を始めてからと言うものの、世界の情勢は激変した。異常気象、戦火の拡大、飢饉、流行病……例にあげると枚挙に暇がない程に、この世は厄災に襲われていた。
猛暑に焼かれ、豪雨に打たれ、食料の調達もままならず、今なお極寒の風に晒されている二匹。とんだ生き地獄ではあるものの、双方共にただ一つだけある、心の支えに生かされている。
「……わたくしたちは、ここで朽ち果てる運命にゃのでしょうか」
「そう、かもしれぬにゃ--ごほっ!」
「っ!あにゃたさまっ!」
男は言葉半ばに吐血し、ぐったりと女の肩に寄り掛かる。実はここ数日、このような死の兆しはちらついていた。とはいえ対処する方法もなく、二匹に出来ることはただ、迫り来る死の恐怖を愛で埋め合うことだけだった。
「はぁ、はぁ……俺も、どうやらここまでらしいにゃ」
「それ以上喋らにゃいでください!」
掠れた喉から絞り出される、女の悲痛な声。目の前にある現実を決して受け容れまいと、死神にその生命を攫われないよう、身体に鞭を打ちあらん限りの力で男を抱きしめる。
「俺は……運命に、抗い続けて、来た。おぬしも…そうで、あろう?」
「あにゃたさま、一体何を……」
「後生の……頼み、にゃ。ごほっ!……俺の、運命、をっ…おぬしの、て、で……っ!」
いつ事切れてもおかしくないこの状況で、男は振り絞るように言葉を吐き出す。女は男の胸中を察したのか、満天の星空を仰ぎ見ると、一筋の涙を流した。
「……言ったでしょう。わたくしは、あにゃたさまのお傍で共に生きると。命尽きるその日まで、ずっと。当然、あにゃたさまを独りににゃんて、させませんから。この世界に、あにゃたさまを殺させたりはしませんから」
「……世話、を……かけ、たにゃ」
「最期に……約束してください。たとえ天と地がわたくしたちを別つとも、わたくしたちの魂は共にあることを」
「約束、しよう……たとえ、来世、に……新た、にゃ、生命……授か、ろうとも……再び、逢い、まみえる」
力なく項垂れていた男は、その鋭い牙を女の首筋に充てがう。女もまた同じように、男の首筋に一回り小さい牙を精一杯添えた。
想殺--獣人の文化において、相手に対する最大級の愛と敬意を示す心中の手段。
『ありがとう。さようにゃら』
刹那、二匹の首筋から大量の血飛沫が飛び、息を合わせたかのようにその場へと倒れ込む。地面に咲いた赤黒い模様は、まるで彼岸花の如く、抱きしめ合う二匹の亡骸を包み込んだ。
凄惨ながらも、美しさすら垣間見える最期。二匹の表情は、これ以上ない程に笑顔であった。