前進
「俺は--やはり行かねばにゃらぬ。確かに戦に向かうのは怖い。だがそれ以上に……おぬしが平和に暮らせる世界を手に入れたい。それが俺の生きる路であり、運命なのにゃ」
「そう、ですか……にゃらば、もうわたくしは止めません。ですが--」
男の決意に観念したのか、女は言葉半ばに背伸びをすると、男の首筋を小さな舌で舐め始めた。男は一瞬だけ震えるも、次第に女の舌使いに身を任せる。
獣人にとって、急所である首筋の毛繕いを他人に任せるのは最大級の信頼の証であり、人間にとっての接吻にも勝る愛情表現でもある。
ぺろ。ぺろぺろ、ぺろぺろ。
このひと時が永遠であって欲しい。そう願う男の胸中とは裏腹に、女は存外あっさりと毛繕いを終える。その表情にもう迷いはなく、それを見た男の表情にも憂いは消えていた。
「--これくらいのわがままは許して下さい。戦場に向かうのにゃらば、身にゃりもしゃんとしにゃければにゃりませんから」
「……ありがとう。それ以上の言葉が見つからにゃい」
照れ隠しのように告げる女があまりに愛おしく、男も衝動的に優しく抱きしめた。胸に、腕に、心に感じる確かな温もりが、男の決意をより強固なものへと象っていく。
「……そろそろ時間にゃ。名残惜しいが、行かねばにゃらぬ」
旅立ちの刻を報せるかのように、初夏の涼風が柳を揺らす。抱擁から解き放たれた女は半歩後退ると、その小さな両の掌で男の大きな手を包み込んだ。
「待っています。いつまでも、あにゃたさまの帰りを待っています。たとえ亡骸ににゃろうとも、この地に帰ってくるのを待っています。……どうか、ご無事で」
「あぁ、いってくる。俺の帰るべき場所で、待っていておくれ」
決して離したくない手。
決して離したくない掌。
いつの日か、またこの温もりに帰ってくる、その日まで--。
あれから四季は巡り、その営みを三回ほど繰り返した後のとある初夏。
獣人は人間に勝てこそしなかったものの、両陣営ともに多大な犠牲を払った後、ようやく停戦協定が結ばれた。お世辞にも平和な世とは呼べないものの、そこには確かな安寧があった。
「ようやく、務めが終わりましたね。あにゃたさまは、いつににゃったらこの地に帰ってくるのでしょう」
朝刊に目を通しながら、女は静かに独り言ちる。停戦協定が結ばれてはや一週間、戦場に赴いた兵の安否は不明なところが多く、未だに男は帰ってこない。
ちりん。ちりん。
そんな折、不意に呼び鈴が鳴った。既に時刻は昼前であり、女にとってこの頃合での来客は珍しい。
妙な胸騒ぎを覚えつつ、女は玄関の扉をそっと開く。目の前に立って居たのは、ボロボロの制服に身を包み、制帽を目深に被った一匹の痩せこけた獣人だった。
「今日は。便りが届いております」
「…………」
胸騒ぎの正体はこれか。女は逸る気持ちを抑えきれず、差し出された封筒を受け取り、すぐさま中身を確認する。差出人は不明だが、この状況で考えられるのは一つしかない。
中に入っていたのは、無機質な文字で綴られた、男が殉職した旨を告げる書簡。
「……やっぱり、あにゃたさまはうそつきです」
しかし女は思わずそう呟くと、おもむろにその書簡を破り捨て、目前に居る男の手を自身の両の掌で優しく包み込んだ。
「はは……参ったにゃ。こんにゃ背格好にゃのに」
「当たり前じゃにゃいですか。亡骸で帰ってきたら、信じたかも知れませんね」
あまりに不謹慎な冗談を仕掛けた男に対する、精一杯の皮肉。けれども、互いの視線の先にある表情はとても穏やかで。
「あにゃたさまのお帰りを、信じておりました」
「改めて、ただいま。俺の帰るべき場所で待っていてくれて、ありがとう」
愛する者の、平和を切り拓いた手。
愛する者の、帰りを待ち続けた掌。
温もりの帰る場所は、確かにここにあった。