第五話 狩り
狩りの準備といっても用意するのはナイフやロープに麻袋といった程度。
荷馬車は母が用意し、乗せて行ってもらうことになっていた。
「アイリスたんは本格的な猟は初めて?」
「はい」
「そっかぁ、ユニスちゃんは何度も連れてってるけど、他の子はあんまり連れてけてないからねぇ。向こうでは二人で色々とやってね。基礎や仕込みは先に確認するから。にしても思い出すなぁ、ジェラールちゃんを初めて連れてった時のこと。あの子、びっくりしておもらししたんだよ」
「え? あのジェラール兄ちゃんが?」
「そうよユニス……って、この話ジェラールに口止めされてたんだった」
手綱を握りながら、数瞬どうしようかと迷ったニーナは後ろの二人の顔を見やるのだがすぐに前を向く。
「まぁいっか。言っちゃったもんは仕方ないしね。忘れてくれなくたっていいよ」
「忘れなくていいんですの?」
「まぁ、お母さんだしね」
母が面白げに笑う中、後ろに乗るアイリスと僅かに顔を見合わせる。
「そっかぁ、あのジェラール兄にもそんな時があったんだ」
あの冷静で剣の達人の兄にそんなことがあったなど意外でならない。
「――……そこ、アイリスちゃん!」
陽の光が差し込む森の中。ユニスの声が響きあがった。
「はいですわ!」
アイリスがロープを勢いよく引っ張ると上方から降って来るのは木と蔓で編み込まれた巨大な檻。
「ブホォォォォ!」
ガシャンと巨体を閉じ込める。
「ブフゥッ! ブフゥッ!」
ガンガンと檻に体当たりを繰り返すのは、姿形は猪なのだが、鼻に大きな一輪花の蕾があった。
「やったねアイリスちゃん」
「ええ。上手くいって良かったですわ」
手を上げハイタッチをするユニスとアイリス。
ニーナ指導の元で予め仕掛けておいた罠にかかる花猪。そのニーナは周囲の捜索に出ており、罠にかかった獲物を仕留めておくようにとだけ伝えられていた。
「さーて、さっさとトドメをさして、と。この鼻についてる丸っこいの斬り落とせばいいんだよね?」
「それはそうですが、何か忘れているような……」
「なにかって?」
「いえ、このイノシシですが……――」
顎に手の平を当てて首を傾げるアイリスの様子に同じようにして首を傾げながら疑問符を浮かべるユニス。
「ブフッ! ブフッ!」
ゴンゴン鼻を当て続ける花猪。徐々に鼻の蕾が赤みを帯びていく。
「――……思い出しましたわ!」
アイリスが弾けるように顔を上げた途端、同時に響き渡るのは倒壊音。
「ブフォォォォォツ!」
木製檻を破壊して花猪がユニスとアイリス目掛けて一直線に駆けていた。
赤みを帯びていた花猪の蕾は赤色光を放ち開花している。その様子を見て呆然とするのはアイリス。
花猪は草食動物であり、基本的には穏やかな性格。
しかし鼻の蕾が咲いた時には凶暴性が大きく増すのだと、今になって思い出した。どうしてこんな基本的なことに考えが及ばなかったのだろうと後悔するのだが時すでに遅し。
「ブフォォォォォツ!」
眼前へと迫りくる巨体。二人を圧し潰そうとする勢い。
「きゃっ!」
直後、ドンっと突き飛ばされるアイリス。
「ユニスちゃん!」
アイリスを突き飛ばしていたのはユニスであり、そのユニスは花猪の突進の直撃を受けことになる。
物凄い勢いの突進。
「っ!」
余りにも凄まじい衝撃を目にして思わず片目を閉じるアイリス。
ユニスの小さな身体は花猪の突進に耐えられず弾けるように後方に吹き飛んだ。
「がはっ」
そのまま巨木へと叩きつけられる。
「ぐっ……」
強打する背中。全身に激痛が走った。
これまで経験した痛みの中でも最大。単身であればまだ防御姿勢を取ることができてダメージの軽減を図れたのだが、アイリスを突き飛ばしたことで微かに突進への反応が遅れてしまっている。
「げほっ」
片膝を着きながら吐血するユニス。朦朧とする意識の中、薄く目を開けると眼前には再び突進しようとしている花猪の姿。
「ま、まいったなぁ…………」
横っ飛びなりなんなりして早くこの場を離れなければならないのだが、膝がガクガクと震えて上手く動かせない。
「火玉っ!」
小さく響く声と同時に、花猪の臀部に着弾するのは火の玉。
「ゆ、ユニスさん! は、はやくにげて!」
ガチガチと歯を鳴らしながらも必死に花猪の気を引こうとしているアイリス。
「ブフォッ!」
花猪はアイリスへと向き直り、足を動かし突進の構えを取る。
「だ、め」
アイリスの方が逃げなければならない。魔法で花猪の気を引こうとしているのはわかるのだが、まだ身体が他の人間よりも頑丈な自分だからこそあの突進に耐えられた。だが、華奢なアイリスでは間違いなく即死か少なくとも重傷は免れない。
こんな時に気を引くための魔法でさえも使えない自分がもどかしい。
「あ、氷槍!」
ユニスが逃げるだけの時間を作ろうと、再び魔法を放つアイリス。
生み出された氷の槍は真っ直ぐに飛んでいき、花猪の右目へと突き刺さる。
「ブフォォォォォツ!」
突然視界の片方を奪われた花猪は怒りで我を忘れ、一直線でアイリスへと突進する。
「ひっ!」
逃げる余裕などなかったアイリスなのだが、偶然片目に氷の槍が刺さったことで目標を正確に定められなかった花猪はアイリスのすぐ近くの木に衝突した。
「あ、ああ……」
まともに衝突したはずなのに、花猪は意識を失うどころか木の方がベキベキと音を立てて倒れる。
「火玉! 火玉! 火玉!」
慌てて何度も魔法を繰り出すアイリスなのだが、僅かに焦げ跡を残すのみでほとんど効果は見られない。
「ぐっ!」
少しばかりの時間を稼いでくれたことで、ユニスの身体も微かに動くようになった。支えの利かない足を必死に鼓舞して駆け出す。今動かなければアイリスが大変なことになる。
「ブフォッ!」
「あ……あ……あぁ…………」
ペタンと座り込むアイリスはもう腰が抜けてしまっていた。息を荒くさせ、目に涙を溜め込む。
「アイリスちゃん!」
そのアイリスの後方から飛び込んで来る影。
「やああああっ!」
向かう先は今にも突進しようとしている花猪へ。手に持つのはナイフ。
渾身の力を込めて花猪の右目へナイフを突き刺した。
「ブフォッ!?」
視界の両方を奪われた花猪は混乱し、その場で大きく暴れ出す。
「アイリスちゃん、今のうちに!」
「う、うん――えっ!?」
狙い通りに逃げる隙を作ることに成功したのだが、運悪くアイリスへと覆いかぶさる影は花猪の足。
何もそんな悪運に見舞われることはないじゃないかとその状況を呪うユニス。もう間に合わない。巨大な質量によってアイリスが押し潰されてしまう。
「だッ!」
そう思った次の瞬間、ユニスの目の前で花びらが盛大に飛び散った。花猪の怒りの象徴でもあったその花が舞い散っており、意識を失くした花猪はぐらっと倒れ込む。
「え?」
いったい何が起こったのか理解できなかった。わかっているのは花猪が倒れるということと、圧し潰されようとしていたアイリスの姿が既にそこにはないこと。
「ふぅ。あぶないあぶない」
背後から聞こえる母の声。
呆気に取られているユニスの後方へ軽やかに着地する母。腕の中にはアイリスが抱きかかえられている。
「もう少しで大変なことになるところだったね」
「「…………」」
ゆっくりとアイリスを地面へと下ろすニーナ。花猪を倒したのは母であることはすぐに理解したのだが、信じられないのは次に言い放った母の言葉。
「それにしても二人ともよく頑張った方だよ。ジェラールはこれぐらいで漏らしてたんだよねぇ」
ケラケラと笑う様に呆気に取られた。
(こんな目に遭ってたなら漏らしても仕方ないよお母さん)
(…………黙っておきましょう。わたくし、少しだけ漏らしました)
危険な目に遭うことがあるのは承知の上なのだが、母からすればこの程度の事態はまだ大変な部類に入らないのだということ。それを証明するのは先程言った言葉、もう少しで大変なことになる、と。
「アイリスちゃん」
「……なぁに?」
「なんか、ごめんね」
「…………べつに、いいですわ。そもそもわたくしも忘れていましたが、この人たちはこういう人たちですもの」
元々二人の周りにいるのは破天荒な人が多い。
ほとんど顔を見せない割に、ふらっと姿を見せて酒を飲んではトラブルを起こしていく祖父アトムや、アイリスの母であるエレナと同じ元聖女らしいのだが、ことあるごとに第六夫人の座に納まろうとするベラル。他にも、まともに見えるカレンでさえも、興奮すると精霊術をすぐに繰り出しては屋敷に被害がでるというのだから始末に負えない。
そしてユニスの母であるニーナもまたその一人。基本的には自由奔放。普段は現役の冒険者として活動しているのだが、どうにも価値基準が異なる時があるというのは知っていた。
『まぁ、ニーナ、あっ、お母さんのことは気にしなくてもいいよ。僕はニーナには自由に生きて欲しいからね』
以前父ヨハンが口にしていた母のこと。愛人だのなんだのと言われようともまるで意に介していない父の懐の深さ。
「それにしても、うーん……――」
腕を組んで小さく呟いているニーナはチラとユニスを見る。聞こえないように言ったつもりなのだろうが、ユニスには聞こえていた。
「――……あたしの時は確かこれぐらい自力で倒してたと思うんだよねぇ」
それが自身の生い立ちのことを言っているのだとすぐに理解する。
(だって、それはお母さんだからだよ)
元々幼少期から類い稀な強さを発揮していたとは聞いていた。その身体能力の高さを受け継いでいるというのはモニカからもよく聞かされている。何より、そのモニカが懐かしそうに話していたのは母ニーナと王都の冒険者学校で始めて闘った時のことを。
『私もあの時はさすがにびっくりしたわ』
魔力の変換である闘気――身体能力を劇的に向上させる魔法を扱えたのだと。そもそも戦士系の魔法技術である闘気は特定の師から教わったり、冒険者学校の授業などで身に付ける者が大半なのだが、ニーナに至っては入学前に独学で扱えるようになったというのだから尚更驚いたのだと。
「こうして改めて見ると、ニーナさんもさすがですわね」
「……うん、そうだね」
目を輝かせるアイリスに軽く相槌を打つのは今のニーナの立場、冒険者として最高位にある【S級】であることから。
(竜の咆哮……か)
母の二つ名であるその名。由来を詳しくは知らないのだが、本気を出した時の母の暴れっぷりからその名が付けられたのだという。
「なにをのんびりしてるの? さっさと処理して帰るよ」
羨望と劣等感、二人から自身へ向けられる異なる視線にニーナは若干の疑問を浮かべていた。
「――――にしてもアイリスたんも良かったね。良い経験ができて」
森から出る道中、満面の笑みを浮かべるニーナ。
「えっ? あっ、はい、まぁ……」
「いやぁ、それにしても実際丁度良いぐらいの経験ってそうそうないんだよねぇ。だいたいは死ぬかどうかの瀬戸際になっちゃうから」
「あっ……」
その満足そうな母の顔を見てようやく理解する。朝食の席でアイリスが一緒に行くことに対して確認していたことを。
(ごめんアイリスちゃん)
母の想定の中にこの程度の事態は織り込み済み、下手をすれば狙ってさえいた可能性があった。




