第一話 そして時代は移り変わる
シグラム王国。
広大な中央大陸の北東部に位置し、国土としてそれほど大きくはないが、実り豊かな土地。
そのシグラム王国の南西部にあるのは小さな領地であるラスペル。
隣国カサンド帝国、パルスタット神聖国との国境線であった土地なのだが、魔素が濃くなり、結果魔素によって生まれる魔物が跋扈していたことで人が住める環境ではなかった。だが、豊かな土地を国家としても放置しておくことができなかったために新たに領主を選任し開拓されている。
そんな土地であるラスペルを治める領主はまだ年若い。辺境伯の地位を賜ったヨハン・カトレアなのだが、その年齢は三十を回って少し。とはいえ、領主となって既に十六年が経過していた。
英雄とも称される領主ヨハン・カトレアを始めとして、その仲間達の協力によりもう魔素のほとんどが浄化されている。おかげで現在は十分に人が住めるだけの環境が整っていた。
もう今では立派な国境線の重要拠点ともなっているその青空を巨大な影が通過する。
「ほんと、めんどくさいなぁ」
ゴツゴツとした固い面に背を預けながら風を感じて空を見上げているのは桃色の髪を肩まで伸ばした少女。
「お父さん、今日もいないんだよねぇ」
うつ伏せになり、不満気に小さく問いかける。
「ニーナと一緒に依頼を受けているのだったな」
固い面から聞こえる声。その遥か眼下には広々とした木々や平野が広がっていた。
「…………」
「どうした?」
少女が寝転んでいるのは緑がかった巨大な竜。翼竜と呼ばれる竜種であり、その中でも一際大きな竜。通常の翼竜の優に三倍の大きさはある。
「ねぇギガゴン、どうしてアタシは魔法が使えないの?」
「またその話か。オレにわかるわけがないだろ。お前の父ヨハンと母のニーナでさえわからぬのだろう?」
「…………うん」
少女の父と母、辺境伯であるヨハン・カトレアとその第四夫人であるニーナがかつて冒険者学校の生徒であった時代に出向いた先、パルスタット神聖国でこの翼竜ギガゴンと出会い、いくらかの騒動を経てこのシグラム王国まで来ている。
「魔力がないわけではないみたいだがな」
「うん。それはお母さんも、エレナさんも言ってたから。でもそれは誰だって小さくとも魔力は持ってるもん」
「ならば不要な心配だな」
「でも使えないと意味がないし、それに闘気に変換もできないんだもん」
「魔法など、そもそも人間ではまだ十かそこらでは扱えぬものなのだろう?」
「そうだけど、キャロルちゃんとかは五歳で使えたって言ってたよ。ジェラール兄ちゃんもこんなに遅くなかったって。アイリスだって」
「わかったわかった。それよりそろそろ時間だ。降りるぞ」
「もう時間かぁ。やだなぁ」
少女が溜め息を吐くのをギガゴンは上目遣いで見上げるのだが、お構いなしに一直線で降下していく。
轟音を立てながら、地面へと降り立つ先は先程まで少女が見ていた街の中にある大きな屋敷の庭へ。踏み固められたことでいくらか禿げた土が見えるのだが、広く芝生が敷かれたそこは基本的には手入れがしっかりと行き届いている。
「あっ、きたきた」
その庭には長い金色の髪を背に流している女性が立っていた。
「逃げずに来たわねユニス」
「なに言ってるのモニカさん。逃げたって捕まるだけじゃない。そっちの方があとあと痛い目に遭うし。それにだいたい、モニカさんから逃げられる人がこの国にどれだけいるのって話じゃない?」
「ふふ。それもそうね。それこそ他の国にでも逃げないとね。それでも伝手を全部使ってでも追いかけるけどね」
「…………はぁ。めんどくさ」
「なにか言った?」
「なんでもないでぇっす」
翼竜ギガゴンが光を放ちながら人型へと姿を変え、壁に背を当てて腕を組む中、桃色の髪の少女ユニスは溜め息を吐きながら近くに立て掛けられている木剣へと手を伸ばす。目の前の女性、モニカは既に木剣を手にしていた。
「さて。じゃあどこからでもかかってきなさい」
威風堂々と言い放つモニカ。しかし剣はだらりと下げているだけで構えという構えを取ってはいない。
(ほんとモニカさん、相変わらず隙がないなぁ)
ユニスの眼にはそう映っている。何度となく模擬戦をしている仲なのだが、初見であったとしても一定以上の力量があればこの異様な気配は肌感で得られるはず。そうでない者はすべからくモニカに絡んだ結果吹っ飛ばされているのをユニスは何度も目にしていた。
(どうしよう)
じりッと地面を踏み躙りながら飛び込むタイミングを探るのだが、どこにも隙が見当たらない。
(さすが剣姫と呼ばれるだけあるよ)
目の前の女性の二つ名ぐらいはユニスも知っている。ただ剣の達人というだけでなく、その美しさも相まって【剣姫】の異名を得ているのだと。
「こないなら、こっちからいくわよ?」
「っぅ!」
笑顔と釣り合わない威圧感を受け、思わず踵に力を込めて後退りしそうになるのだが、抱く怖気を振り払いながらユニスは力強く地面を踏み込んだ。
「やあっ!」
顔面目掛けて横薙ぎに素早く剣を振るうものの、これが剣姫に通じるはずがないということはわかっている。その予想の通り、モニカは上体を仰け反らして正確な見切りで鼻先を掠めることなくユニスの剣を躱した。
(だけど)
しかしこれはあくまでも陽動。躱されるのは想定内。
「だあッ!」
剣を振るった回転力を活かして残る胴体に回し蹴りを繰り出すのだが、響くのは鈍い音ではなく乾いた音。
「良い攻撃だったけど、甘いわ」
片手の平で受け止められている。
「蹴りっていうのは、こう、するのよっ!」
「ぐぇっ」
受け止めた足を掴んでそのまま引き寄せるモニカはユニスの腹部に膝蹴りを打ち込んだ。
「つぅっ」
「……へぇ、やるわね」
ダメージを負うのは覚悟している。ならば肉を切らせて骨を絶てばいい。膝蹴りを受けながらも顔面に鋭く打撃を放っていたのだが、モニカの頬を掠めただけ。
「なんか、ユニスの相手をしていると、思い出すな」
「それってヘレンおばさんのこと?」
「ええそうね。私も散々やられたしね。丁度ユニスと同じ歳だったわ」
「そういう意味ではアタシは全く成長していないですね」
「うーん、そんなことないんだけどなぁ。体術は凄く上がってるのは確かだし」
「…………」
それは事実間違いないということはユニス自身が自覚している。
口を閉ざすユニスの様子を見ながら、モニカは小さく息を吐いた。
(この子、やっぱり気にしてるのね)
母親とは性格的には似通っている部分は多分にあるのだが、唯一似ていない部分がある。
「動きが止まってるわよ」
とはいえ、モニカが何かできるわけでもないので、今はとにかく自分の役割をこなすだけ。攻勢に回るモニカ。
素早く動き回っては攻撃を繰り出しているモニカに対してユニスは守勢に回るのみ。
「――……へぇ」
邸宅の角から顔を覗かせた人物は一連の攻防を見て感嘆の息を漏らす。
そのまま歩き、モニカによって的確に指導している様子を見守っていたギガゴンの横に立つのは銀色の髪の女性。
「随分と強くなったわね」
「ああ。だが強くなった、だけだがな」
「それだけでも大したものだけど、でもどうしてあの子魔力が使えないのかしら」
銀色の髪の女性は顎に手の平を当てて考え込む。
「カレン殿は心当たりはないのか?」
「ええ。あなたも知っての通り、ニーナは出会った頃からとんでもなかったしね。ユニスも見ての通り十分素質があると思うけど…………」
ラスペル領の領主であるヨハン・カトレアの第一夫人であるカレン・カトレア。
母国は隣国カサンド帝国であり、生まれは皇帝の娘として。つまりは皇女。それだけでなく、類い稀な才を持つ精霊術士でもある。そのカレン・カトレアからしてもユニスが魔力を扱えないことに対しては覚えがない。
「ティアはどう?」
カレンの問いに対してポンと目の前に姿を見せる妖精かと思えるほどの小さな少女。カレンと契約している精霊。
「そうだね。こればっかりは個人の事情にもよるからボクから何か言えることがあるわけじゃないよ。だけど、強いて言うなら、きっかけさえあればもしかすれば変化があるかもしれないね」
「それって潜在的な何かってこと?」
「そうとも言えるし、そうではないかもしれない」
「ふぅん……まぁ、そうよね」
素質があれども必ずしも開花するとは限らない。南のパルスタット神聖国の光の聖女を例えにするならば、元々は水の聖女であったのだが、ある出来事をきっかけに光属性を宿して数年後には光の聖女の位置に就いている。
(だとすれば、あの子の血が何か関係しているのかしら?)
思案に耽るカレン。特殊とも言えるユニスの血縁。まだ本人は多くを知らない。
「終わったみたいだ」
「え?」
顔を上げるカレンの視線の先には、地面に倒れ伏しているユニスの姿。荒い息を吐いて疲労困憊の様子を見せているのだが、対照的にモニカは疲労を感じさせないどころか、汗を拭うことすらない。圧倒的な実力差。
「あの子、今でも現役でやれるのじゃないかしら?」
その底知れぬ強さにカレンは思わず感心してしまう。モニカの本業であった冒険者としての活動は既に引退しており、今はラスペル領の剣の指南役としての活動がほとんど。時折、その実力の高さから年に数回程度だが王都の騎士団に剣の指導をしていることもあった。
「じゃあユニス、またね」
「……う、うん。ありが、とぅ……ございました」
「大丈夫よ。あなたは確実に強くなってるわ。そんなに自信を失くさなくたって私が保証するから」
そう言い残してモニカはカレンの下へと歩いて行った。
「強くなってる、かぁ」
ゴロンと仰向けになり、青空を眺める。
「だったら、自由に生きるための力、欲しいなぁ」
グッと拳を突き出し、先程までギガゴンの背に乗り駆けていた大空に思いを馳せた。




