第六百九十五話 クリスティーナ・フォン・ブラウン
(これは、想像以上ですね)
使えるかどうかわからなかった竜人族ニーナの血。しかし驚異的な適応率を見せている。
(でも、これなら二人を助けられるかもしれません)
溢れ出てくるような力。まるで深い泉の様な感覚。それでいてどこか透き通る程の純粋性。
まだ確定的で助けられると言えないとはいえ、それでもそれだけの力強さ。竜人族が種として最強と呼ばれるのも大いに頷ける。
(それにこの慈しみ)
荒れ狂う程の強さも相まっていたのだが、柔和であるのはマリンが行使した【贈られる寵愛】の効果。凄まじさを感じると共にその同調率。まるでこの場にもう一人聖女がいるのかと錯覚するほどの感覚。確かな思いやりと愛おしさを感じさせる。言葉では不遜な態度を見せていたマリンのエレナへの、モニカへの確かな愛情。
(…………私にも、こんな風に仲間がいたら)
今もこれまでも、聖女を目指したことに一切の後悔はない。こうして国の危機に対して自分の力が貢献できていることに不安も不満もない。あるのは羨望ただ一つ。
「クリス……――」
その微かな寂しさを、幼少期からのクリスティーナを知る第一聖騎士であるリオン・マリオスは背中から感じ取っていた。
「――……だがお前にしかできないこともあるのだ。信じろ。自分の力を」
煌々と輝きを放つその神秘性に周囲が目を奪われる中、リオンは小さく呟く。
水の聖女クリスティーナ・フォン・ブラウンはパルスタット神聖国に於いて名家であるブラウン家の生まれ。先代水の聖女テトの在任中にその才能を見出され次代を担う聖女としての修行を始めた。それはリオンがテトの下に来てから間もない頃。歳も近いこともありすぐに打ち解ける。年相応の無邪気さと、時折見せる聖女としての風格の二面性に心奪われた。
そのクリスティーナも聖女に至るまで順風満帆というわけではない。時には疎まれることもあった。しかしそれもテトに言わせれば必要なことなのだと。クリスが不意に思い出すその言葉。
(人間が悪意を持つこともまた聖女には必要なこと……でしたね。今でも本当の意味がわからないですが)
何度となくその意味については考えて来た。正確にはわからないわけではない。ただ理解と納得が別なだけ。
『人の本当の悪意に触れておかなければ善悪の判断などつかん』
『……はぁ』
性善説の何が悪いのかその時には全くわからなかった。いや、厳密には今も悩ませることはあるのだが、とにかく悪意を知ることが聖女としての責務を果たすことに繋がるのだと。
パルスタットの教義に則っているとはいえ人が人を裁くのだからそれ自体は理解できる。だが、できれば誰かを疑うことはしたくない。
(アスラ様……ベラル様……――)
敵対している今となっても信じ難い。どうして魔王の復活をあの二人が目論んだのか。
しかし今は考えても仕方ない。自分が信じる道を行くしかない。このシグラムからの来訪者達のように。
(――……この人たちは本当に)
背後にいるニーナ。右肩を自身で貫いた判断にしてもそう。一切の躊躇がない。これだけの極限状態でさえも互いに命を預け合える間柄だということは容易に見て取れる。そのような関係性は世界中を広く見渡したとしても多くはいない。互いに切磋琢磨するだけでなく、時には寄りかかることのできる関係性。気心の知れた仲間。
(私にはこのような……)
羨ましさを抱きながら、瞼を閉じると一人の少女の顔が浮かんで来た。まだ互いに聖女になるよりも前のこと。
『そうか。キミが次代の水の聖女を担おうとしているのか』
『はい。ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いしますイリーナ様』
『いやいや、気は遣わなくたっていいさ。だいたいテト様の訓示を受けているキミに何を教えるというのだい?』
『たとえ教えがなかったとしても諸先輩方のその背中を見させて学ばせて頂きます』
眼差しを見つめるイリーナは小さく溜め息をつく。
『クリス……だったね。実はここだけの話だが、私は堅苦しいのが苦手なのさ。うちの部隊を見ればすぐにわかる』
『……はぁ』
その後に案内された風の部隊を見れば確かに一目で理解した。その仲の良さを。
まるで部隊が一つの家族のような間柄。歴代の風の部隊は常にそうだったのだと。それが獣人と人間の関係の改善に向けられたものだということは歴史を学べばすぐに知ることが出来る。
『だからさ、クリスも遠慮などいらないさ』
『……わかりましたイリーナ様』
この姿が風の部隊から学ばさせてもらうことに他ならない。
『違うね』
『え?』
『そこはわかったイリーナ、だろう?』
『…………ええ、そうね。わかったわ。よろしく、イリーナ』
後にイリーナがレオニルより風の聖女を引き継いで聖女になった時には喜びはしたものの複雑な感情を抱いたのもまた事実。レオニルが円満に退いたわけではなかったのだから。
『あの人にはあの人なりの事情があるのだろう』
『……ええ』
そう返答するしかなかったのだが、しかしそれと同時にイリーナとであればより良い国づくりに貢献できるのだと信じて疑わなかった。
「クリスっ!」
瞼の奥から飛び込んで来る声。目を開けるのと同時に視界の奥に映るのは慌てて駆けて来る唯一無二の友。親友。
必死に手を伸ばす姿。その表情を目にしながら、クリスティーナは柔らかな笑みを浮かべる。
「さよなら。イリーナ」
抱き合い再会を喜ぶ時間はもう残されていない。成さねばならないことがあるのだから。時間的な猶予も残されていない。これだけの魔力を数秒維持するだけでも至難。それが二人分必要となる。
「これは!?」
驚愕に目を奪われるナナシーとサイバル。クリスティーナの背から生えるのは一対の翼。実際に生えているわけではないのだが、見紛う程の魔力が可視化されていた。
「天使の……翼?」
まるで御伽噺か神話のよう。神の御使いを連想する。
しかし不思議なのは可視化された魔力の翼の色が違うこと。青みがかった白と、赤みがかった白。
「ぐっ……――」
相当な負荷。しかし同時に二つの魔力を練らなければならない。同時である理由、それはモニカとエレナの二人が双子であること。魔王の力がゲシュタルク教皇へ移された時に同時に魂が抜き取られた為。東の小国では反魂とも呼ばれる技法。
「クーリスぅっ!」
「蘇生魔法」
イリーナが大きく叫ぶのとは対照的に小さく呟いた一言。その表情は寂しさを伴っていた。
「ごめんね、イリーナ」
親友に別れの一言を伝えることもできず、ただただ一方的な別れになってしまったことに申し訳なさを抱きながら、クリスティーナを中心として辺り一帯を黄金色の光が包み込む。




