第六百七十三話 水の塔最上階
(なんだろう……)
心の中を激情が駆け巡る。
『コロセ、ころせ、殺せ』
真っ暗な中に感じる衝動。
『獣人は皆殺しだ』
憎悪。怨念。破壊。妬み。
『ニンゲンは抹殺せよ!』
恐怖。負の感情の数々。
(……どうしてこんなことを思うんだろう?)
モニカにはまるで理解出来ない衝動なのだが、それでも確かにそれが自身の感情だとはっきりと感じ取れた。
「パルストーン内に渦巻いている混沌が集約しているな」
不意に聞こえてくる声。男の声なのだが、誰の声なのかわからない。そもそも誰の声だろうとどうでも良かった。
「これで後はこのまま器が満たされるのみ。それももう間もなくというものよ」
さらにもう一人。暗闇の奥から聞こえる声。
「ふはは。これで私も神に近付けるというものだ」
「ご報告があります。教皇様」
その中に割って入るようにして響くのは女性の声。
「どうした? アスラよ」
「まず、予定通りエレナ王女が部屋を抜け出し、神殿内に身を潜めています」
「そうか。なるべく時間をかけて泳がせ、折を見てここへ誘導しろ」
「はい。やはり聡明な方ですのでそれなりに慎重を期す必要はありますが、ある程度はこちらの思惑通りに動いています」
「ふふふ。いくら状況判断に優れていようとも、所詮は年端も行かない子供ということだな。楽しみだ。絶望に打ちひしがれた王女を目にするのが」
どうでも良かったはずの声の中に含まれるのは、引っ掛かりを覚える名前。
(エ……レナ…………?)
どうしてその名前に引っ掛かりを覚えたのかはわからない。ただ、意識を集中しようとしてもできない。それとは別に流れ込んで来るいくつもの負の感情の方に気を引かれる。
それに伴い、暗闇の奥底で渦巻く何かが肥大化していくことの方が気になって仕方ない。危険な何か。
「アスラよ。先程は『まず』といったが? 他にも何かあるのか?」
「ええ。マゼンダ卿。想定外なのが、少し鼠も入り込んでいる様子ですので」
「……鼠か。ならば奴らだろうな」
「恐らくは。もしかすればそれらが障害となるかも?」
「そなたが帝国で邪魔をされたという冒険者だな? 問題はないのか?」
「その辺りは考えておる。奴もああして復活したのだからな」
「…………」
ガルアー二・マゼンダとゲシュタルク教皇は話す中、光の聖女アスラ・リリー・ライラックは背を向ける。
「では、私は準備に入りますので」
「うむ。頼んだぞアスラよ。お前の存在が奴等を絶望の海に沈めるのだからな」
「承知しております」
カツカツと音を響かせる音が遠くに消えていく中、モニカの意識は沼にはまるかのようにして深みへと沈んでいった。
◆
かつて起きた人魔戦争に於いて多大な貢献を果たした女性、聖女ミリアの名を冠する神殿。
中央に光の塔と呼ばれる大きな塔が聳えるそのミリア神殿を取り囲むように造られた四つの塔。その内の一つ、水の塔を駆け上がっているのはヨハン達四人。
「もうすぐ最上階になります!」
「本当にどうなってるのよ」
水の塔に入った当初は静寂な内部の様子を不思議に感じていたのだが、中腹付近よりスケルトンと呼ばれる骸骨兵が多数発生していた。
「大方お前を犯人に仕立て上げようとしているところだろう」
「……魔族、ですか」
地下水路の魔物の発生からしてもそう。水の聖女クリスティーナ・フォン・ブラウンが禁忌に手を染めたのだという話。地下水路との時間差を考えるとその線が消えない。
「でもまぁ、これぐらいなら鈍った身体を慣らすには丁度良いわ」
「俺はそうでもないのだがな」
先陣を切って戦うミモザとサイバルにより問題なく掃討している。
(みんなは無事かな?)
これだけの事態に於いてどのような状態に置かれているのか想像もできない。街の方にしてもこの分だといくらか骸骨兵が外に出ているはず。
ヨハンが考える通り、水の塔の最上階付近に差し掛かったその頃は、下層から街へ骸骨兵が外へと出ていた。
そして、地下水路ではカレン達がバニシュと戦闘を始め、土の塔の一階大広間ではレイン達が交戦状態に陥り、風の部隊の翼竜厩舎ではニーナが元風の聖女レオニル・キングスリーと共闘を開始している。
「大丈夫ですよ」
「え?」
声の方を向くと、そこには微笑みを見せるクリスティーナ。
「ヨハン様のお仲間は皆さんお強いですから」
「僕、そんな心配そうな顔してたかな?」
「はい」
僅かに憂いを帯びる笑みに変化するクリス。
「そう、だよね」
仲間を信じることも時には必要となる。両親達の冒険を描いた『アインツの冒険譚』の中にもそういった場面はいくつもあった。
「ですが、それでも何かあったら聖女としてこの国で起きたことに対する責任は取ります」
「いや、それは違うよ」
その表情を見ると逆に申し訳なさを感じてしまう。
「クリスの言った通り、モニカもエレナもニーナだって確かに強いし、頼りになるから。それに……――」
ただ、モニカが捕まったという事実。その目的もはっきりとしていた。
「――……僕たちには、魔王に関することはどうしても避けて通れないことだったからね。まぁ神様が用意した試練にしてはちょっとひどい気がするなぁ」
「あ、や、か、神様も乗り越えられない試練は用意しないですよ」
「ちょっとだけ、大変だけどね」
指先を小さく摘まむ仕草を見せるヨハンが冗談を交えたのだと察したクリスティーナは僅かにポカンとする。そこには気遣いが含まれているのだと。
「では、こういうのはどうでしょうか?」
「なに?」
「仮に、モニカ様が魔王の器だとして、その人魔戦争の時の成し遂げられなかったこと、魔王の討伐をヨハン様達なら成し遂げられるのだと神様が判断なさったのだとすれば」
次にはクリスティーナの言葉を受けるヨハンがポカンとした。
元々国内の不穏な気配は感じていたのだろうが、魔王などと、すぐには信じられないであろう事象をすぐに事態と合わせて鑑みたクリスティーナの聡明さ。
「そう、だね。ありがとうクリス」
愛する国内が未曽有の事態に見舞われているというのに、言葉の中に含まれる穏やかさ。聖女と呼ばれるのにも納得する。
「どういたしまして」
向けられる笑みにやすらぎを抱いた。
考えていても仕方ない。今はとにかく目の前の問題を解決しなければならない。みんなでまた笑って過ごすために。
「なーんか微妙に良い感じの雰囲気を出してるところ悪いのだけど」
最上階の大きな扉の前で足を止める。
「そもそもヨハンくん。あなたにはカレンちゃんがいるでしょ?」
ミモザは振り返るなり、指を一本立てた。
「はい。それがどうかしましたか?」
「カレン様とは、ヨハン様のお仲間の?」
「そう。この子、あの子を婚約者にしているのよ」
「……なるほど。やはり色々と規格外のようですねヨハン様は。では……――」
立ち止まったクリスティーナはグッと杖を握り、両手に握り合わせる。
「――……全ては神によってもたらされる恩恵」
「どうしたの? 突然何を言ってるの?」
そのまま上方、天井を見上げていた。
「それよりもミモザさん。気配が変わりましたね」
「あら? やっぱり気付いたのね」
「はい」
ヨハンの察知能力の高さに感心を示すミモザ。扉の前で立ち止まったのはそれが理由。
「広範囲治癒魔法」
そんな中で不意に小さく呟きながら上方へと杖を掲げるミリア。
たちまちヨハン達の足下に広く魔方陣が描かれ、光の羽が魔法陣へと降り注ぐ。
「凄いわね。あなたこんなのも使えたの?」
突然の行動なのだが、ミモザは驚嘆していた。一切の疲労がなくなっている。ここまで消費していた体力が何事もなかったかのように回復していた。
「はい。これも私が水の聖女になった一因でもあります」
治癒魔法は通常対象に触れて魔力を流し込むことで初めて発動するのだが、クリスティーナの治癒魔法は対象に触れることなく、魔方陣の中が効果範囲。
「さすがにこれ以上範囲を大きくすれば効力は下がるのですが」
「それでも立派なものよ」
誰にでも扱える魔法ではない。大陸を広く見渡しても数えるほどの魔法。
「ではいくか」
「うん」
そうしてそれぞれが顔を向けるのは扉の向こう側。
警戒心を最大限に高め、ゆっくりと扉を押し開く。




