第六百五十六話 相反する選択
「んなこと言ったってお前」
「いいから聞きなさいっ!」
「お、おぅ……」
その眼差しは真剣そのもの。こういう時のマリンはいつだって本気で口にしている。
「彼の任務は、水の聖女の指示に従ってわたくし達をここから逃がすことですわ。違いますか?」
「ま、まぁ」
「それに、わたくし達が彼の家の事情に首を突っ込んでも仕方ありませんもの」
たとえ魔族化していようとも、家庭内に於ける個人的な事情が介入していることは間違いない。
「いや、それはそうだけどよぉ」
マリンによる客観的な事実の羅列。間違いではないのだが、人間味が感じられない。
(そんな、そんな目で見ないでくださいませ)
じろりと見られるレインの視線が痛い。軽蔑とも侮蔑とも違う、がっかりしたようなどこか冷めた目。
「……なんですの?」
しかし、そのレインの視線から顔を逸らすことなく、正面から向き合う。
「いや、お前って思っていた以上に薄情だったんだなぁって。ただそんだけだよ」
「……仕方ありませんわ。命には代えられませんもの」
段々とその視線と向き合うことに耐えられなくなり、マリンは目線を下に逸らしながら小さく答える。
「だな」
マリンの言っていることも間違いではなく、それが一つの選択肢だということはレインもわかっていた。
「…………――」
そのまま金属音を響かせているリオンとユリウスへと視線を向ける。
(アイツだったら見捨てて逃げるなんて判断絶対にするわけねぇ)
親友であり、最上の強者に最も近い人物。ここで逃げることを選ぶだなんて、それこそ究極の選択に思えた。他にも何かできることがあるはず。
(ん?)
ふと脳裏を過る微かな疑問。
「――……そういえばよぉ、お前のあの力、使ってくれれば多少は突破口も見えるんじゃねぇの?」
「あの力って?」
「んなもん決まってるだろ? あの味方の能力を上げるアレだよアレ」
「あ、アレのことですの? そ、それは……」
口籠るマリン。
あの力――他者の能力を劇的に向上させるマリンの固有能力である【寵愛】。当初は一人だけの効果を上げる【与えるべき寵愛】しか使えなかったのだが、今では複数を対象に使える【贈られる寵愛】も扱える。ただし、効力が安定しないことも多く、その理由もわからずじまいでいた。
それどころか、この場に於いては他にも問題がある。
(使えればとっくに使っていますわよ!)
レインに言われるよりも前に能力自体は使うつもりでいた。だが、その力は全くといっていい程に発揮されなかった。
今も戦い続けているリオンに向かって行使できないのは、マリン自身がリオンを潜在的に仲間ではないのだろうと認識しているからという見解。
(どう、してよ! こんな時にこそ必要な力ではありませんの!?)
しかしこれまでにしてもそうなのだが、一向にレインへと行使できていない。未だにレインへ使えない理由が全くわからないまま。結果、そうなると結局二人へは使えない。
能力がなくなったわけではないのは感覚的に理解しているのだが、どうにも胸の奥で感じるもぞもぞとした不快な感覚に苛まれていた。
「――……アレは緊急時にしか使用できませんの。使用上限といいますか、魔力総量に比例しますのでわたくしの魔力ではそれほど多くは使えませんの。ですので、ここで使用して、他の場面で使えなくなると余計に困りますもの」
それっぽい言い訳。とにかく何より優先すべきはどのような手段を用いようともこの場を無事に切り抜けること。わざわざあの相手を無理に倒す必要は感じられない。
「……そっか。わかった。ならしゃあねぇな」
「レイン、わかってくれましたのね。では今のうちに」
「お前ひとりで逃げてくれてかまわねぇぞ」
「え?」
聞き間違いなどではない。たった今レインは一人で逃げろ、と。そう言った。
「ど、どうして!? このままではわたくし達も巻き込まれて死んでしまいますわ!」
巻き込まれたことには変わりはない。だが僅かに胸を苦しくさせるのは、それはリオンに対しても当てはまる。仮定の話だが、自分達が捕らえられさえしなければリオンが助けに出向くこともなかったはず。
(ですが、今はそんなこと言っていられませんわ)
他の方法もあるかもしれないが、死なせるわけにはいかない。何に代えようとも。
(ここで選択を間違えるわけにはいきませんもの)
立ち回りが未熟――判断が甘かったせいで現状のような事態に陥ってしまっているのだから。ここでは最悪の結末だけは回避しなければならない。
「いや、お前の言ってることが間違ってるとは思わないんだけどよ」
「だ、だったら!」
レインも時には非情な選択が必要になることもあることはわかっている。
「前に言われたことがあんだ。ヨハンの母ちゃん――エリザさんに」
以前ヨハンの母エリザに言われたことがあった。
(それって……――)
それに関してはマリンにも思い当たる節がある。
『さっきの、エリザさんですよね?』
『そうかしら?』
『しらばっくれちゃって。今の、あのままじゃこの子真っ逆さまでしたよ?』
『ええ。その通りね』
『殺すつもりだったんすか?』
以前エレナ達が何をしているのかと、エリザの母の後を尾けた時のこと。危うく崖下に転落しかけたところをレインに抱きかかえられた。その際のエリザの言葉。




