第五百九十六話 二十年前
翼竜厩舎を見学して一日を過ごしたのち、宿に戻る。
「レイン、まだ戻ってないんだね」
部屋の中にレインの姿はなく、レインはエレナの姿に変えたマリンの護衛に本日は神殿へと赴いていた。
「……ミリア神殿、か」
考えを巡らせるのは、水の聖女クリスティーナが得る不穏な気配。
神を崇拝する神聖な場である神殿内には悪意がないはず。それだというのに、清廉であるはずの場に、最近では神官の汚職などが見られ始めているのだという。我欲を捨て、神に奉仕するはずの神官に誰かが何かを吹き込んでいるのではないかという疑念が生まれていた。ただでさえ神を冒涜するような行い。しかも、そんなことが露見すれば高名な神官の職を失うだけでなく、民心自体を損なってしまい、失墜してしまうのだと。
「光の聖女様にも話を聞けたらいいんだけど」
聖女それぞれには特異もしくは稀有な能力を有しているらしく、その中で魔力探知が一番秀でている光の聖女アスラ・リリー・ライラックでさえもわからなかったという。
「にしても、僕も魔力探知の精度を上げないとなぁ」
戦闘ともなればいくらか魔力反応を捉えることはできるのだが、普段はそうはいかない。そうなれば探知結界を張るぐらい。それでも結界内で一定以上の魔力を使わなければならないのだから通常の状態ではそれほど意味を成さない。
「もしかしたら、魔族ってこともあるのかな?」
聖職者が悪意を抱いて負の感情を増大しているのではあればその可能性は否定できないのだが、今のところただの憶測にすぎない。加えて、そうなれば神殿内には光の聖女が施した高度な結界がある。
「ねぇヨハンくん? ちょっといい?」
コンコンっとドアをノックされ、顔を見せたのはミモザ。
「はい。大丈夫ですけど」
「ありがとう。お邪魔するわね」
「アリエルさんも。レインはどうしたんですか?」
レインの姿がないことに疑問が浮かぶ。
ミモザとアリエルもレインとナナシーと一緒に神殿へと向かっていたはず。
「それがね。ちょっと昔馴染みに会ったから、私達だけ別行動になったの」
「別行動?」
「ああ。それで先に君の耳に入れておきたいことがあってね」
声の調子からして、神妙な話なのだということは推測できた。
「何があったのですか?」
「先日謁見の間にいた火の聖女。彼女のことだ」
「えっと……確か、バニシュ・クック・ゴード様、でしたよね? あの人が二人の知り合いだったんですか」
「……ええ」
「じゃあ凄いですね。お二人の知り合いが聖女様になっていただなんて」
特別秀でた才能を有していないと聖女という役職には就けないのだから。この二人をして特級の強さを有しており、そうなると昔馴染みが聖女になっていても不思議はないのかもしれないのだが、ミモザとアリエルの二人は深刻な表情を見せていた。
「どうかしましたか?」
「あのね。驚かないで聞いて欲しいのだけど……――」
「はい」
声の調子も深刻そのもの。
「――……彼女、バニシュは、死んだと思っていたの。私もアリエルも」
「え?」
ミモザの言葉に耳を疑う。
「死んだって、どういうことですか? 二人の知り合いなんですよね?」
「あっ、違うの。厳密には死んでいてもおかしくないって方が正しいのだけど、あの状況から助かるほうが奇跡としか」
「あの状況?」
「ええ。少し前に私達のことを話したよね?」
「……はい」
かつて孤児だった二人がこのパルスタットの街で奴隷として売られ、虐げられていたところ、偶然街を訪れたラウルによって助け出されたのだと。その数、十数人にも及ぶ。
「バニシュもその中の一人なの」
「じゃあ、もしかしてそれから聖女様に?」
だとすれば相当な苦労があったはずだろうということは容易に推測できる。孤児という立場どころか、奴隷として虐げられていた状態からなのだから。
「でも、死んでたっていうのは?」
「…………」
「……ミモザはな、火が嫌いなのだ」
「火が、嫌い?」
初めて耳にするその話。そうしてアリエルから当時の話を聞かされる。
◆
幼い頃、パルスタット教の教義である施しや扶養という公明正大な名目の下に孤児を養うといった、悪徳神官に実質奴隷としての扱いを受けることになったのは先に聞いた話の通り。
ラウルが暴露したことなのだが、悪事の数々を暴かれかけた神官は逃げきれないと判断し、屋敷に火を放ったのだと。事前に抜け出してラウルに助けられていたミモザとアリエルとは別の子ども達。その全員を助け出すことができずに屋敷は業火により倒壊していた。その中にバニシュも含まれていたのだと。
壮絶な経験は語るのも憚られることなのだが、ミモザとアリエルはもう過去のこととして捉えており、今を生きている。それもまた自身の持つ芯の強さによるものなのだが、問題はここ。当時、全ての遺体を探し出せたわけではなかった。
バニシュの遺体が見つからなかったことからして、生きている可能性は確かにあるにはあるのだが、燃え落ちる屋敷の中を幼い子どもが一人で脱出できたとはとても思えない。結果、バニシュは死んでしまったと思うしかない。
しかし、バニシュは生きていたのだが、バニシュ自身その時の記憶がないのでどうやって助かったのかはわからないらしい。
「だいたいこんなところだ」
「その時の出来事がきっかけで火が苦手なのよねぇ」
心的外傷を負ってしまっていた。
「ああ。だから……――」
アイシャが料理を始めて以降任せっきりになったのだと。火を取り扱うことは多い。
「そうそう。アイシャちゃんが来てくれて随分と助けられたわぁ」
頬に手の平を当てながら片肘を立てるミモザ。
「それは違う。料理の火ぐらいなら問題ないだろう。ただサボりたかっただけだな」
「うぐっ」
「……あはは。ミモザさんらしいですけどね」
目を泳がせているミモザは見事に図星なのだと。
「でも、良かったじゃないですか。無事だったんですから」
「それはそうなのよ。ただ、やっぱり不思議な感じはするから、一応教えておこうと思ってね」
「もちろんこちらの事情は話していない」
「そうなんですね。わかりました」
「あっ、あと、明日バニシュにあなたのことを紹介することになったから」
指を一本立てるミモザ。
翌日の予定が火の聖女のところに訪問することに決まる。




