第五百七十六話 たとえ偽物であったとしても
ヨハン達と共に円卓の間へと戻ったモニカ。その表情からして無事に乗り越えられたというのは見て取れる。
すぐさま深々と頭を下げる様子に、アトムたちは互いに目を見合わせて小さく頷き合った。
「別にモニカちゃんが悪いわけじゃないわ」
不意に響くその声。
「え?」
信じられない。その声を聞き間違えるはずがない。
深く下げた頭を勢いよく上げ、声の主を探す。そしてそれはすぐに見つかった。
「どう、して?」
戸惑いながら見つめるその先、円卓の対面、そこには敬愛する母ヘレンの姿。
「おかあ……さん?」
困惑の瞳で見つめるのだが、ヘレンは軽く笑みをこぼす。
「はぁい。久しぶりねモニカちゃん。あれ以来帰って来ないからどうしているか心配していたのよ?」
その様子とこの場の圧倒的な乖離。
「…………」
動揺をまるで隠せない。どうしてこの場に母の姿があるのか。
魔王の呪いの真相を明かすために集まった人物たち、先の場に於いては母の姿はなかった。それどころかまるでそのようなことを何も知り得ないかのような様子に疑問を抱かずにはいられない。それ程にいつも通りの佇まい。
「っ!」
しかしこの場にいる以上、何も知らないなどあり得ない。どこまで伝わっているかという疑問を片隅に抱きながらも言葉が出て来ない。反応できない。
「うーん。普通にしてもらいたかったのだけど、やっぱりそうもいかなさそうね」
軽く頭をかくヘレンは立ち上がり、ゆっくりとモニカの方へと向かって歩く。
事態が呑み込めないのは何もモニカだけでない。ヨハン達にしても同じ。誰も何も言わない様子からレイン達も何も言えない空気に襲われていた。
(父さん? 母さん?)
ヘレンが歩く姿を横目に捉えながら、ヨハンが向ける先は父と母の顔。その様子から、黙って見ていればいいのだと。
「みんなもごめんなさいね。少しモニカちゃんとお話しさせて」
ニコリと微笑み、ヘレンはモニカの前に立つ。
そうしてそっとモニカの頬に手の平を当てるのだが、モニカはビクッと肩を揺らした。
「ごめんなさい。急にこんなことを知っちゃって驚いたよね?」
「……うん」
「予定では、本当はもっと順序立ててから話すつもりだったのだけど、まさかこんな形で知られてしまうなんてお母さんも思ってなかったの」
「…………」
「モニカには、本当に申し訳ないなぁって気持ちでいっぱいなの」
「…………」
ヘレンの言葉にただただ静かに耳を傾けるモニカ。いくらかの怯えを抱くのだが、全てを受け入れる心積もりはできている。そのための力を仲間が、ヨハンがくれた。
そのモニカの心境の変化、感情の動きをじっと見つめながら、ヘレンはゆっくりと口を開く。
「モニカが怒るのも無理はないわ」
「う、ううん。怒っては、いないわ」
恐る恐るながらも交差する親子の視線。
「ただ、気持ちの整理がつかなかっただけの…………」
「そう。それも当然よね」
「でも、ヨハン達のおかげで整理はついたわ。もちろん全部ってわけじゃないけど」
決意を胸に宿して母の顔をはっきりと見つめた。
「そっかぁ。ありがとねヨハンくん。それにみんなも」
ニコッとヨハン達に微笑むヘレンはすぐにモニカへと視線を戻す。
「結論から先に言わせて」
ほんの少しだけ沈むヘレンの声色。
何を言葉にされるのかと、覚悟を決めたはずのモニカの表情が僅かに強張った。
「え?」
しかし、すぐさまその光景に思わず目を疑う。目の前のヘレンが弱気な表情を――それどころか涙を浮かべている。
そんな顔、モニカは一度たりとも見たことがない。
「お……かあ、さん?」
「ごめんなさい。いざ口に出そうとすると私も怖くなっちゃって」
「それって……」
「お母さんたち、モニカちゃんがいない間に話し合ったの。モニカちゃんさえ良ければ、私をこのままモニカちゃんのお母さんのままでいさせてもらえないかなって」
「えっ!?」
予想していた話の内容とはまるで真逆。
母の口からはてっきり役目を終えて他人に戻るものだと思っていた。
「どう、して?」
あの過去見によれば仮初の親子に過ぎない。全てが露見した今となっては、魔王の器となるこの身体としては、ヘレンが自身の母である必要などない。
「だめ、かな?」
問い掛けに対して小さく首を振る。迷う必要などない。それはモニカの願いと正しく一致していた。
「だめ、じゃない」
俯き言葉を紡ぐ。
「でも……――」
あのことはどうなっているのか。言葉にせずにはいられなかった。
「――……でもお母さん、もしかすれば私を殺すかもしれないって言ってた」
小さく、小さく言葉にする。
その言葉を聞いたヘレンは難しい顔をしながら大きく頭を振った。
「ごめんなさい。確かにあの時はそう言ったわ。まだお母さんが現役の冒険者だったっていうのもあるけど、あの時はあれが私の真実。それは間違いないわ」
「……うん」
「それぐらいの覚悟を持ってあなたを預かったの。育てたの」
「……うん」
軽はずみな、安易に返事をしていたわけではない。それはモニカもその当時のことを直接目にしている。
「不安がなかったかって言われれば嘘になるけど、けどね、モニカちゃんを育てていって、私はすぐにモニカちゃんのことを好きになったの。モニカちゃんが優しい子ってわかったの。魔王になんて絶対ならないって」
「…………」
優しい笑みを浮かべる表情は幼い頃より何度も見ていた顔。記憶の中と同じ。
「私ね、モニカちゃんがある程度大きくなるまで戦い方を教えてこなかったじゃない?」
「…………うん」
きっかけになる出来事が起きるまで、もっと言うならモニカ自身が願い出るまで母から戦闘訓練の一切を受けてこなかった。
「あれはね、モニカちゃんが魔族になる可能性を考慮してのことなの。ある程度の年齢までは普通の子として、ね。だから戦いとは縁遠いようにしながら」
そう言われてしまえば納得しないわけにはいかない。自身でその気配が見られれば殺すとまで断言しているのだから、その時に力を身に付けて返り討ちにでもあえば目も当てられない。
「でもね、私はあなたに全てを教えることを決めたの」
「それって……」
「私がモニカちゃんに戦い方を教え始めた時の事を覚えているかな?」
忘れるわけがない。あの時のことは今でも鮮明に思い出せる。
まだ幼い頃、将来のことなどほとんど何も考えていなかった程に幼い頃の記憶だが、その時の出来事が戦い方を学ぶきっかけ。
「私が……――」
そうしてモニカはゆっくりと言葉にしていった。
「――……私が、お母さんの仕事に付いて行って、ペドロさんのお店で暴れていた人たちをお母さんが相手をしていて」
「ええ。それでモニカが私を助けてくれたのよね? あの時は今よりももっともっと小さかったこの手で」
「うん」
握られるその手から伝わってくる温かさ。それと同時に得られる僅かな振動。小刻みに震える母の手。
(おかあさん?)
まるで何かを怖がっているかのよう。握られている手がこんなにも弱々しく感じたことなど一度としてなかった。
「それから教え始めたよね」
「う、ん」
「あの時ね、お母さん確信したの。こんなに優しい子が、他人の痛みをわかってあげられる子が魔族になんかなるはずがないって。もしそんなことがあったとしても、この子なら、あなたならきっと乗り越えられるって」
ゆっくりと離されるその手を見つめながら、顔を上げる先に映るヘレンは儚げに笑みを見せている。
「だからそのために、乗り越えられるための戦う力、抗う力を身に付けてもらおうと思っていたの。そんなことを考えていたの」
「そう、なんだ……」
初めて聞かされる母の気持ち、その考え。
「お母さんとの鍛錬、物凄く大変だったでしょ?」
「うん、お母さんめちゃくちゃ厳しかった」
思い返すだけでも苦い記憶。
「だって、出遅れた分を取り戻さないといけなかったから」
「それであんなに厳しかったの?」
「いけないかな?」
苦笑いするしかない。しかし小さく首を振る。
「ううん。厳しかったけど楽しかったもの」
それは間違いなく事実。充実した毎日だった。
「そっか。それでね、ローファスとの約束の十年が過ぎた時、モニカに何の変化も見られないってことをローファスに報告して、それで私とお父さんと、マリアンさんも入れてみんなで話し合ったの。冒険者学校への入学を。まぁあなたは物凄く嫌がったけどね」
「……うん」
「ただ、まさかそれから二年程度でこんなことになるなんて思ってもなかったなぁ」
「……うん」
「そんな中、今日を迎えたわけだけど、全部を知ったモニカちゃんはお母さんのこと嫌いになっちゃったかな?」
不安気な眼差しでモニカを見つめるヘレン。
「……ううん、お母さんのことは好き、もちろんお父さんも」
迷いは見せないが、それでも幾ばくかの逡巡を見せながらモニカは答える。
「ありがと」
「けど―――」
「私達が本当のお母さんとお父さんじゃないってことだよね?」
「…………うん」
実の両親ではない、ただその一点のみに疑念が生じていた。
見つめ合う互いの瞳。
「それでね、最初の話に戻るんだけど、お母さん……もちろんお父さんもだけど、モニカのことをもう本当の私たちの子どもだと思っているの」
「…………」
「本当よ? それでモニカさえ良ければ、良ければの話なのだけど、このまま私達をモニカの親でいさせてもらえないかな? ローファスとジェニファーへの話はもう済んであるから」
モニカはそこで確認するようにローファスとジェニファーへと僅かに視線を送る。二人共にその視線の意図を感じ取ると浅く頷いた。そうして再び母の顔を見る。
その頬に伝う一筋の涙は音もなく地面へと落ちた。堪えきれないヘレンの恐れ。
「ありがとう、お母さん」
対するモニカは大粒の涙を浮かべ、ぼろぼろと地面へと落とす。
「お礼を言わなければいけないのは私の方よ」
抱き寄せられる温もりは以前と同じ。違いがあるのは成長したモニカ自身の身体。大きく感じていた母がいつのまにかそれほどに大きく感じられなくなっていたのだと。
「……うん、うん、うん!」
何度も頷き、それでも変わらない確かな母の愛情をその身体に得ていた。母の背に腕を回す。
「モニカ」
「王妃……様?」
そこには目を潤ませているもう一人の母。
「本当にごめんなさい!」
謝罪の言葉と同時に深く下げられる頭。
「ううん、もう……いいです。謝らないでください」
既に答えは出ているのだから。
「……モニカ」
申し訳なさを表情に映しながら顔を上げるジェニファーへの答えも決まっている。
「よく考えたら、私って得してるなーって」
その言葉の意味がわからないヘレンとジェニファーは互いに顔を見合わせた。
「得って?」
「どういうことでしょうか?」
疑問符を浮かべる二人を前にして、はにかむモニカ。
「確かに生まれた時には色々とあったかもしれないけど、私はこんなにも周りの人に愛されて育ったんだなって思ったら嬉しくなっちゃった」
周囲には自分の為に尽力してくれる仲間たちが大勢いる。後ろで見守ってくれている想い人にしても。
「それに、お母さんとお父さんが二人ずついるのってそんなこと普通ないもの」
強いて言えば養子をもらう貴族ぐらい。
「しかもそれが王様と王妃様って、逆になにそれ? って感じじゃないですか? 笑っちゃいますよね」
さらに付け加えるように顎に指を一本持って行くモニカ。
「あと、さすがに表立っては言えないにしても、そうなるとこれから色々と援助してもらえるなーって」
いたずら顔のような笑みを浮かべて打算を口にする。
その様子にヘレンは呆れながら溜め息を吐いた。
「モニカ……それはちょっと厚かましいわ」
「えー? だめかなぁ?」
「だめに決まってるでしょ!」
怒りを露わにするヘレンとは対照的に思わず笑ってしまうジェニファー。
傍目には仲の良い親子の喧嘩にしか見えない。
「ふふっ。本当、ヘレンのおかげで良い子に育ったみたいですね。ありがとうございます」
「ううん。確かに最初は私もあなたのためにしたことだけど、今はもう私のためにしていることでもあるから」
わだかまりを払拭することができた。
「それで、二人に伝えたいことがあるの」
真っ直ぐにジェニファーを見るモニカ。
「まず、ジェニファーお母さん」
「はい。なんでしょう?」
「私を生んでくれてありがとう! 私は今とても幸せです」
「モニカ……」
突然の感謝の言葉にジェニファーは思わず涙を堪え切れずに両手で顔を覆う。
その様子にモニカは満足気に微笑んだ。
「ヘレンお母さん」
次にヘレンを見る。
「はい」
「私を育ててくれてありがとう」
「いいえ。どういたしまして」
笑顔で言葉にするのだが、自然とこぼれる涙。
「二人のお母さんのおかげで、私は今、大切な仲間と出会って、前を向いて生きていけるから! これからもよろしくお願いします!」
はっきりと、紛れもない二人の母に向かって言葉にして伝えた。




