第五百七十三話 涙の果てに……
あと数歩でも歩けば、腕を伸ばせば、その細い身体へと手が届くかという距離。
「モニカ」
「っ!」
小さく声を掛けると、険しい顔を見せるモニカはぎゅっと唇を結んだ。
「来ないでっ!」
まるで怒鳴られるかのような大声。しかし立ち止まることはない。
距離が縮まるにつれてモニカは顔を俯かせていく。
「どう、して、来たの……?」
消え入りそうな、震える声。
「ごめん。どうしてもモニカが心配だったから」
「そんなこと言ったって……。ねぇ、私は、私は、どうしたらいいのよ」
「モニカ……」
絞り出すようにしてなんとか言葉にするモニカにかける言葉が見つからない。
表情は見えなくとも、とんでもない気持ちに苛まれて、突き付けられた事実に圧し潰されようになっていることはわかっていた。共感など、誰もできはしない。
「なにも、なにも言わないってことは、ヨハンも…………視たんでしょ? 知ったん、でしょ?」
俯くモニカが必死に、少しずつ言葉にしていく姿をただただ見つめるのみ。
「あの魔道具、時見の……水晶の力で、過去を。シグとスレイの戦い、を! ミリアの気持ちを……人魔、戦争をっ!」
徐々に大きくなっていく声量。尚も顔を上げることはない。
「その結果、何が起きたのか! 誰が魔王だったのか。その後どうなったのかっ! この国の歴史を! エレナのっ! エレナのッ! わた、わたしのっ! 私のッ! 私が生まれた瞬間を……――」
大きくなり始めていた声量は徐々に音を失くしていく。
「――……私の、私のこの身体の中に、魔王の呪いが生まれたことを…………―――」
そこでようやく顔を上げるモニカと目が合った。感情の整理がつかない。今にも泣きだしそうな少女。
「――……ねぇ、どうなの?」
悲し気な笑みを浮かべる。
「うん。モニカの言う通り、僕も、視た。あの壮絶な歴史を。モニカと…………エレナが生まれるその時を」
「…………」
言い終えると、そこに流れる間。ただただ見つめ合い、互いに言葉を発することなく無言の時間が流れた。夕暮れ時の冷たい風の音だけが木霊する。
「――……それに、僕だけじゃない。あの場にいた全員が視えたみたいなんだ」
嘘偽りのないようにその事実を言葉にすると、僅かに目を見開いたモニカなのだが、誰がどれだけいたのかを思い返すとすぐに目線だけを斜めに落とした。
「……そっか。なんとなくそう思ってたけど、やっぱりみんな、視ちゃったんだ」
振り返り、背を向けるモニカはそのまま外壁の上に両腕を乗せる。遠くを見つめていた。
「ねぇ、ヨハン。私、どうしたらいいのかな? ここでしばらく考えていたんだけど、答えなんてでなかった」
再度正面に振り返るモニカは外壁に手の平を置き、儚げな笑みを浮かべている。
「モニカ…………」
覚悟はしていたものの、いざモニカ自身を前にして何をどう言葉にすればいいものなのか。
「もしかして、魔族になっちゃったりするのかな? スレイみたいに」
「そんなことはないよ。モニカはモニカだよ」
それは正しく本音なのだが、その言葉を受け取ったモニカは表情を険しくさせた。
「でもわからないじゃない! 呪いが、魔王の呪いは今ここにあるのよ!」
胸に手の平を当てる。
「私の、私のこの身体の中にっ!!」
「……うん」
そのモニカに一歩近付いて、腕を伸ばした。
胸に当てている手の甲へと指先を伸ばして触る。
「そうだね、それが真実なのかもしれない」
「…………なんでそんな風に平然と言えるの?」
感情の起伏が激しく、今にも泣き出しそうなモニカ。それでも必死に涙を流すのを堪えていた。
「ヨハンはさ、私が、わたしが魔王になったら…………私を殺すの?」
「そんなことはしないさ。絶対に」
「でも、もしかしたら私は私じゃなくなるかもしれないのよ?」
魔族の、魔王の器としてのモニカが、自我を失ってしまうかもしれない可能性。そうなれば今までのモニカではないということはシグとスレイが千年前に証明している。
「僕は、ううん、僕だけじゃない。レインやカレンさん、ニーナもナナシーも、もちろんエレナだってそんなことは絶対にしない」
「ッ! なんでそんなこと言いきれるのよ!?」
手の甲に当てていた腕を振り払われるのと同時にきつく睨みつけられた。
「そんなの決まってるじゃない。だってモニカは僕たちの大切な仲間、強い絆で結ばれた大切な人なんだから」
だらりと下げる手を握り直す。その手には確かに感じるモニカの温かみ。血の通い。
そこにははっきりとモニカという一人の少女の存在を感じられた。
「っつぅぅぅ~~!!」
再び振りほどこうとされるのだが、その手をしっかりと掴んで離さない。
「放してよっ!」
「離さない。今離したらいけないんだ」
「な、んでよ! だいたいあれを視てどうしてそんな無責任なことを言えるのよっ!」
涙は陰りを見せ、怒りが顔を出している。
「え?」
直後、呆気に取られるモニカ。放心状態。
どうしてそのようなことになったのか理解出来なかった。
「大丈夫だから。だいじょうぶだからモニカ。落ち着いて。大丈夫だから」
不意に得る身体の前面に感じる温かみ。温もり。互いの体温。
「不安は全部吐き出したら良いよ。僕が受け止めてあげるから」
背中に回される少し大きな腕が身体全体を包み込んでくれている。
喉元まできていた怒りが、ヨハンの身体の感触、その確かな温かみを感じ取っていく内に和らいでいき、大きく吐き出される息と同時にその怒りが抜けていくような感覚。
「なに、してるのよ」
「ここでモニカを離すわけにはいかないから」
「……わかったわよ。じゃあ少しだけ、聞いて、くれる?」
「うん」
これだけ力強く抱きしめられたら逃げようなどとは思わなかった。正確には全力を出せば振りほどける。拘束しようとする程の力が込められているわけではないのだが、それとはまた別。意識が振りほどくことを拒否している。
「落ち着いたみたいだけど、無理そうなら待つから。言ってくれるまでいつまでも待つから、ゆっくりでいいよ」
「ううん。そんなに時間はかからないわ」
伝えるべきことは最初からわかっていた。ただ受け止めることができず、納得ができなかっただけ。
「わたしね……――」
ヨハンの背中に回している腕が、指先がその背中を強く掴む。
「――…………わたし、私ね、怖いの」
ゆっくりと、その思いの丈を言葉にし始めた。
「……正直、エレナのためだったらなんだってするつもりだった。でも、どこかで自分とは違う話なのだと思っていたのかもしれない。全然そんなことなかったのにね。こんなの、エレナに会わせる顔がない」
「…………うん」
背中に感じる指先が、腕が震えているのが伝わってくる。
「なんなのあれ? 私は何を信じれば良かったの?」
これまでの偽りだらけの人生を不意に突きつけられた。
「それだけじゃない。それだけだったらまだ耐えられた。でも、呪いが、呪いがこの身体の中にあるだなんて……――」
胸に顔を埋めるモニカの震える声。
「――……どうにかなっちゃうんじゃって考えると、本当に……ほんとうに怖くなったの」
そこまで言ったところでモニカは言葉を詰まらせる。
「…………」
「……うん、僕はモニカの気持ち、怖さがわからない。どんな言葉を掛けたって気休めにもならないと思う」
「…………」
そんなこと、わざわざ言う必要がないことなのかもしれない。しかし取り繕った言葉なんかではいけない。今は寄り添うための本音が必要。
「じゃあ――」
背中に回していた腕が、指先が背中を離して胸の前、正面へと持ってくるモニカは真っ直ぐに押し出す。温もりが離れ、見上げられるモニカの目尻には涙が浮かんでいた。
「じゃあ、どうしてここに来たのよ」
責めるような視線。しかし、わざわざ問い掛けなくともモニカもわかっている。ただ言葉にして伝えて欲しいだけ。
独りで考えていた不安、恐怖、疑念、焦燥、空虚、葛藤といった様々に入り混じる感情。話すといっても全てを言葉にして言い表せられるはずがない。これまでの人生全てを否定するかのように唐突に襲い掛かって来た孤独。
「シグは……――」
そのモニカから目線を逸らすことなく見つめ返す。
「――……シグは、スレイを助けることができなかった」
「…………」
「でも、最後まで諦めてなかった。戦争が終わった後も」
人魔戦争が終わった後の歴史。自身の身体に取り込まれた魔王の呪い。その解呪の方法を探していた。
しかし、結局わからなかったことにより、師であるパバールに全てを託している。
だがそれだけでないのは、モニカも知っていた。視ていた。その全てを。本当に最後の最期まで諦めていなかった。
「僕はやれるだけのことをするよ。シグと、ミリアの希望を叶えるために」
それがあの戦いを見届けた責任のように感じられる。
「だから、シグのように僕も諦めないから、モニカも最後まで僕に力を貸してくれないかな?」
「ヨハンに?」
真っ直ぐに見つめられるその微笑み。
「うん。僕にモニカを助ける――ううん、一緒に乗り越えるための力を貸して、その時がくるまで」
数瞬考えるその言葉の意味。
これから一緒に悩んで、手段を模索して、解決してくれるのだと。隣で。
「けど――」
とは言っても、口だけでは、言葉だけでは不安は拭いきれない。
「――……どうやって」
小さく問い掛けようとしたところ、正面を見た先にいるヨハンは上空を見上げていた。
何をしているのかと、疑問に思いながらその様子を見つめていたところ、「見ていて」と声が聞こえてくる。
「なに?」
何を見ていればいいのか疑問を重ねた時、ヨハンの両の手の平が瞬時に赤青黄といくつもの光を放っていた。
およそモニカには成し得ない圧倒的なまでの魔力操作だということは理解している。複数の属性の魔法の同時使用。尋常ならざる魔法技能・技量に驚きを示す。
大きく輝きを放つ光は魔力の込められた魔力弾だということはすぐに理解できたのだが、しかしそれをどうするのかと。
「はっ!」
疑問を抱いていたところでヨハンは両手を掲げて練り上げた魔力弾、人間大程もあるそれを高々と打ち上げた。
一体何をしているのか、全く理解できない。
「いくよ」
次に声が聞こえた時、続けて視界に映るヨハンは巨大な魔法の弓を射る態勢になっていた。
「だっ!」
上空高々と打ち上げられた魔力弾に対して物凄い勢いで追いかける一迅の魔法の矢。すぐに追いつこうかと一気に迫っている。
矢が追いつく頃にはその魔力弾、魔力玉は眼下に広がる街々の誰もが目視できる程の光量。
そうして矢によって魔力玉は寸分違わず中心を貫かれた。
王都全体を見渡せる程に高く打ち上げられた魔力玉は、穿たれたことによりドパンッと激しい爆発音を響かせ、光を伴い広大に弾け散る。
「…………」
不意に行われたその行動に呆気に取られるのは、それが圧倒的なまでの魔法操作によって行われたからではない。突然理解不能な行動を取ったことからでもない。
何をしたのか、何故それが行われたのか、そんなことは目の前に起きた事象で一目瞭然。王都全体へ広がる様に、大きく飛び散るいくつもの魔力の粒子。
「ヨハン…………」
視線を落とした先にいるヨハン、そこにある笑顔に目を奪われる。背後に背負うのはいくつもの色とりどりの魔力の粒子。
「ちょっと驚かせちゃったけど」
驚いたのはモニカだけでなく、王国民ほぼ全て。それはちょっとどころの騒ぎではない。突如として王都に舞い降りたのは幻想的な光景。
飛び散った魔力の粒子は、物見塔を中心として広く覆いかぶさるように、前後左右へと落下している。
「すっげ……」
「きれぇ……」
感嘆の声を漏らすレイン達。
ドアの隙間から二人の様子を窺っていた仲間たちも突如訪れた光景に思わず目を奪われていた。王都にいる多くの人々もまた、突然鳴り響いた爆発音と同時にその光景を指差し見上げている。
「僕にはこんなことしかできないけど」
巨大な魔力弾を貫いたことによって四方八方に弾け飛ぶ色とりどりの魔力の粒子は空中で霧散していき、それはさながら王都の華やかさを照らす巨大花火のよう。
「それでもこんなこと、モニカと出会ったあの頃にはできなかったことだよ」
「…………」
初めて出会ったその当時から劇的に向上させたその技術。
笑顔で簡単に言われるもののモニカが考えるのは、他に誰がこれほどの芸当ができるのかと。およそ見当もつかない。それでも僅かに脳裏を過ったのは、師事した英雄――賢者シルビアか千の魔術師シェバンニぐらい。
「…………」
「だから、これからも僕はもっと多くのことを知って、色んなことを学んで、その先できっとモニカを救う方法を見つけてみせるから、僕を信じてくれないかな?」
目の前まで来て差し出される手の平。
「そのためにモニカの力を貸してほしい」
「…………」
その手の平をじっと見つめる。この手で、先程の幻想的な光景が描かれたのだと。誰にでもなし得ることではない。その力強さ。
(ヨハン、ヨハン、ヨハン)
心の中で叫び続ける衝動。堪えきれなくて溢れ出てくる感情。本音で、本気で言ってくれているのだと。
それまで我慢していた、流れることを拒否していた感情が決壊する。
「あり、がとう」
手を取りながら、目尻から零れる一筋の涙。
この場で初めて訪れる感謝の気持ち。
「ねぇ、凄いものを見せてもらったけど、一つお願いしてもいい?」
「もちろんだよ」
どんな無茶な願いだって構わない。それがモニカの支えになるのであれば。
次の瞬間、両手を大きく広げるモニカ。
「さっきみたいに、もう一度抱きしめて。さっきのヨハン、凄く安心させてくれたから」
「え?」
「でき、ないかな?」
上目遣いの問いかけ。
「い、いや、できるけど」
それでも若干の迷いが生じていた。先程と同じその体温を重ねるということなのだが、感情の波が先程とは異なる。
「じゃあ、お願い」
これだけの笑みを向けられると断るにも断れない。そもそもできることはなんだってすると答えたばかり。
「で、では、失礼、します」
「うん」
そうしてゆっくりと、モニカの背に腕を回す。
改めて考えてみると、色々とマズイ気がしなくもない。正面に感じるモニカの胸の感触。それに先程とは打って変わった背中に感じるモニカの腕。腰に回されるのは、包み込まれるようだった。
「だいじょうぶ?」
「うん。ただ、ちょっとだけ恥ずかしいなぁって」
「別に恥ずかしがることはないわ。こうしていると安心するから助かるの」
「そう、なの?」
「うん」
それならば仕方ない。モニカが楽に話せるのであれば。
「思い出すなぁ。お母さんのこと」
「え? ヘレンさん?」
「うん。私が小さい頃、ううん、その時だけじゃなくて、鍛えてもらっている時も、辛くならないようにいつもこうして抱きしめてくれていたから」
「そうなんだね」
嬉しそうに話し始めていたのだが、モニカの声の調子は徐々に大人しくなっている。
「どうしたの?」
「ううん、ちょっとだけ考えちゃった。お母さんとお父さんのこと」
「そっか」
いくつもの意味が含まれているその言葉。
「このまま、もう少しだけ話を聞いてもらってもいい?」
既に陽は大きく傾いており、顎を上げるモニカの頬を西日が紅く照らした。
「もちろんだよ」
「ありがとう」
スッと二人の間に生まれる僅かな隙間。その隙間へとモニカは顔を俯かせる。
「あのね。何度も言うけど、正直どうしたらいいかわからないの」
「うん」
「急にエレナの妹だって言われても、そんな急にエレナをお姉さんに見られないし、王様と王妃様を両親だなんて思えない」
「うん」
「だって、私のお母さんとお父さんは、レナトの商人だもの。強くて可愛いお母さんと、強くはないけど仕事熱心でお母さんのことが大好きなお父さんなんだもん」
「うん」
「私は二人とも大好きなんだ」
レナトを訪れた時にそれはありありと感じられた。
「それがさぁ。なんなの? 急に、急によ? ほんとなんの心の準備もないまま、意味もわからないこといくつも突き付けられて。だから思わず逃げちゃった。みんな怒ってるかな?」
「それは大丈夫だよ」
「ねぇ、私はどうしたらいいの? つまりあれって、私は生きていちゃいけないってことなのかな? ねぇヨハン。どうなのよ」
その言葉の真の意味。それは、最愛の母であったヘレンが口にしていたことだと。魔王たらしめる何かが起きればその手を以てしてモニカを、娘を殺すのだと。
その最後の言葉を問い掛けるようにして口にすると同時に綺麗な瞳を潤ませ、大粒の涙を流す。
「もう、だめだ。だめだよ」
「いいよ。いいから」
「うっ……ぅうっ、う、うわああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ…………――――」
物見塔の頂上で木霊する少女の残響。
モニカとしても、初めてこれだけ大きな声を出して泣いた。これまでどれだけ厳しい鍛錬だろうと、絶望に襲われようとも、立ち向かうだけの勇気を兼ね備えていた。その強さを敬愛する、最愛の母がくれた。その身に刻まれている。
それが全て、自身の強さの源たるもの全てが根本から覆されて、崩壊してしまった。
(モニカ…………)
そのまま胸の内へと顔を埋めるモニカは深くむせび泣く。
「ねぇ、モニカ」
「ぅう゛、ぐすっ、う゛……――」
「僕は、モニカのことが好きだよ」
「――……う゛ぅ゛」
「もちろんみんなもモニカのことが好きだよ。レインも、カレンさんも、ニーナも、ナナシーも。きっとサナだって、サイバルだって、もちろんエレナだってみんながモニカのことが好きだよ。大好きだよ」
「う゛……ん」
それはモニカにしても同じ。仲間のことが本当に大切であり、大好きな存在。
「そんなモニカが生きていちゃいけないなんてことは絶対にないよ」
「ぅ゛…………」
「それにモニカも、わかってるはずだよ」
「…………」
「あの中にあったでしょ。本当の気持ちが。だからこそ王様はモニカをヘレンさんに預けたんだよ。しっかりと大きくなって欲しいから。幸せになって欲しいから」
「…………」
ありありと伝わって来たローファスの、ジェニファーのその願い。
「父さんたちもそうだよ。いくら王様から話があったとはいえ、父さんたちがあれだけ必死になって、今日まで繋いできたことは、モニカのためにしたことだと思うんだ。もちろん王様と親友だからってこともあるとは思うけど」
「…………」
「それに、モニカはヘレンさんとヨシュアさんの愛が偽物だったって思う?」
「……ううん」
胸の中で小さく首を振るモニカ。同時にヨハンが思い出すのはレナトを離れる時のヘレンの言葉。
『モニカちゃんのことをよろしくね――なにがあっても』
と言われていた。その言葉の本当の意味を理解する。あの時のヘレンの顔、その表情には確かに母としての迷いのない愛情が表れていた。
「だから、ヘレンさんは赤ん坊だったモニカを預かることになったあの時、ああは言っていたかもしれないけど、そこからの二人のことも、全部が本当だったと思うんだ。二人の本当の愛を受けてモニカは育ったんだよ」
「…………う゛、ん。う゛ん! う゛ん! う゛ん! う゛ん!」
優しさが沁みる。思い出す。幼少期から向けられてきたいくつもの愛を。何度も両親から向けられていた偽らざる気持ちを。
それを、目の前の少年が言葉にしてくれることが安らぎを重ねてくれている。
(ありがとう……ヨハン)
それを伝えてくれるこの人ならきっと大丈夫。一緒に最後まで絶対に隣にいてくれるのだと。そんなどこか確信めいたものを抱きながらそっと顔を上げた。見つめ合うその距離は互いの息がかかる程。
「ほら、だからもう泣かないで」
涙でぐしゃぐしゃになったモニカの顔を見ていると不思議な熱が身体へと帯びていく。指の腹で目尻の涙を拭ってあげると、向けられる笑顔はどこか色気を感じさせた。
頭の片隅ではそんなどこか冷静さを感じながら、妙に脈打っている鼓動。
「ヨハン」
「なに?」
加えてモニカもいくらか緊張しているのだろうと。お互いの緊張の度合いを、重なる体温と肌感触を通じて理解し合う。
「ねぇヨハン」
背に回されていた腕を首の後ろに回され、グイっと引き寄せられると耳元で小さく囁かれた。
「ありがとう。大好き」
「っ!?」
吐息を耳に浴び、耳だけでなく頬も含めて顔中真っ赤に染まる。
「好き、好き、好き。大好き」
「ちょ、ちょっとモニカ?」
「いいじゃない。今ぐらい」
「今ぐらいって……」
「ねぇヨハンは?」
「そ、そりゃあ僕も好きだけど」
「ありがとうっ!」
声を大きくさせて再び背に回される腕の力強さ。
苦笑いしながら息を吐く。
「わかったから。まったく。でもその調子だと、落ち着いたみたいだね」
「うん、ありがとう。でもお願いついででもう一つだけ、お願いしてもいいかな?」
見上げるモニカは疑問符を浮かべていた。
「これで最後だから」
「わかったよ。もうここまできたらなんだっていいよ」
「やった。だったらキスしていい?」
「えっ!?」
突拍子もない突然の提案に、驚き目を丸くする。
「なによその顔? だって、さっきは僕の大切なひとーとかって言ってくれたよね? だったらあれは嘘なの?」
「いや、まぁ嘘じゃないけど」
だからといってどうしてそのようなことになるのか。
「私は今ヨハンに気持ちを伝えたわ。ヨハンが好きなの。大好きなの。キスがしたいの」
「け、けどさ」
「それにカレンさんとはキスしたよね? じゃあカレンさんのことが一番好きなの? あの時順位は付けられないって言ってたあれは嘘なの?」
「嘘じゃないけど、そういう問題じゃない気が……。それに、カレンさんのあれはキスをしたというよりされたという方が表現としては正しいんだって」
「じゃあ、別にいいのよね?」
首を傾げる様子にどう答えたらいいものなのか。
「それとも、私はキスしたくないくらい可愛くない、かな?」
「うっ!?」
涙の残痕が上目遣いのモニカの可愛さをより引き立て、まるで動揺を隠せなくなる。
「その、か、可愛いと思うよ。その、とっても……むしろ、すごく」
「ありがと。嬉しい」
はにかむ様に一層恥ずかしさが込み上げてくる。
「じゃあキスしてもいい?」
「わ、わかったよ」
こんなに艶っぽく、可愛らしくおねだりされてしまうと断り切れない。そもそもこれだけ可愛いモニカとキスをしたくない男なんていないのではないかと思う程。
「嬉しい! じゃあヨハンからお願いね」
「えっ!?」
何を言っているのかよくわからなかった。
「だってカレンさんにはされたんでしょ? ヨハンのキスの一番を取られたんだから、だったら私はヨハンからキスをする一人目になりたいの」
そうは言われるものの、抱くのは僅かの逡巡。
それでもこの調子だと逃れようがない。
「う……ん、じゃ、じゃあ」
「ぅん」
目の前でそっと目を瞑られる。そのモニカへ向けてゆっくりと顔を近付け、唇を寄せる。緊張によって明らかに震えている自覚はあった。
(いいのかな?)
同時にそう考えるのは、本当にキスをしてもいいものなのかと。確かにモニカは初めて会った時から綺麗で可愛い少女。これに間違いはない。それに、事態がこんなことになってしまったとはいえ、こんなにも守りたいと思ったこともなかった。
(モニカ……)
衝動的だったらどうしようかと思わず保守的な思考に苛まれる。片隅のどこか冷静な思考。
しかしここまできて拒否することもできない。後戻りはできない。
(ええいっ!)
決心して一息でキスをしようとしたその瞬間。
「はいそこまでー。ストーップですわ」
不意に飛び込んで来る聞き慣れた声。
それはすぐ近く。真横。
「「えっ!?」」
驚き声のする方向を見るとそこにはエレナがいた。
その表情は明らかに不貞腐れている。
「「エレナ!?」」
「まったく。事情が事情なだけにある程度は好きなようにしていたらいいとは思っていましたが、それは些か行き過ぎではありませんの? お二人とも」
エレナの顔を確認したモニカは物凄い勢いでヨハンの顔を見る。
「ちょ、ちょっと! どうしてエレナがここに!? ねぇヨハン!?」
「どうしてって言われても……――」
しかし困惑するモニカへ苦笑いを返すことしかできなかった。
「――……いやぁ、僕もすっかり忘れてたけど、エレナだけじゃなく、実はみんないたりして……」
顔を向ける先は内部に入るドアがある方向。
「え?」
モニカはその言葉を聞いて、恐る恐る顔を向ける。ぎちぎちと、ゆっくりと。
「おいおい、いくらなんでも見せつけ過ぎじゃねぇのか? 羨ましいじゃねぇかこの野郎」
「あわわっ。お兄ちゃんとお姉ちゃんがキスするところだったのに、どうして邪魔するのさエレナさん」
「さすがにそれは行き過ぎだとわたしも思うわ。あとでゆっくりと話したいところね」
「ふむ。人間は不特定多数の女性と関係を持つというのは本当なのだな」
「バカねサイバル。そんなわけないでしょ。あっ、私たちのことは気にしなくていいから続きをしてていいわよ。ね」
それぞれが歩きながら思い思いの感想を口にしていた。
「ちょっとどうなってるの!?」
問い詰めるようにヨハンへと顔を向ける。火照っていた身体から一気に熱が抜けていく。
「いや、だからみんなもモニカのことが心配だったんだよ」
「うっ!?」
それを言われると何も言い返せない。迷惑をかけたという自覚はあった。
「そんなことよりも、いつまでお二人は抱き合っているのでしょうね」
エレナが目を細めながら見る先。未だに互いの背に腕を回している。
「「あっ!」」
慌てて離れるのだが、羞恥が最大まで込み上げて来た。
どうしたものかと困惑しながらモニカはヨハンの顔を見やると同時に疑問符を浮かべる。
「あれ? 今気づいたけど、ヨハン、どうして怪我してるの?」
モニカがじっと見るのはレインに殴られた箇所、赤みと若干の痣。
「あ、あぁ、これはレインが僕を叱ってくれたときのやつで、治療せずにそのままモニカのところに来たからだね」
「どういうこと?」
モニカが疑問を重ねている間に、頬に当てられる手の平の感触。ぐるりと顔を回された。
そこには慈しむような笑みを浮かべているエレナの顔。
「え、エレナ?」
優しく撫でる様に擦られる。妙な色気。
「これはですね、ヨハンさんが優しさを履き違えたのをレインに怒られて殴られましたのよ。まったく、レインも加減をすればいいのに」
目線を逸らさずにそっとエレナの手の平が光る。それは治癒魔法の光。
「いや、それはだな」
「言い訳しない方がカッコいいわよ。大丈夫、みんなちゃんと見てたから」
慌てるレインにそっとナナシーに声を掛けていた。ナナシーに言われれば仕方なしと、ぐっと喉元まで出かけた言葉を飲み込む。
「レインがヨハンを殴ったの? へぇ。珍しいわね。レインもそんなことするのね」
「ええ。それほど、レインもモニカのことを心配しているのですわ。もちろん、わたくしも」
「う、ん。わかってるわよ。大丈夫、これからちゃんと向き合うから」
「もちろんみんなで、ですわよ?」
「……うん、ありがとうエレナ」
「あ、あの?」
二人で話している間、エレナはずっとヨハンの頬を擦っていた。
「どうかされましたか?」
「いや、そろそろ離してもらっても、いい? もう治ってるみたいだし」
「そうですわね。では次はわたくしの傷を癒して頂けますか?」
「別にいいけど、どこか怪我してるの?」
そんな風には見えない。どこを怪我しているのかと探るように観察する。
「あんまりジロジロと見られると照れますわ」
「でも、どこも怪我しているように見えないけど?」
「見えなくて当然ですわ」
手首を掴まれ、自身の胸の方へと運ぶエレナ。
「え?」
「だって、ここ、ですもの」
そうして手の平を当てられる胸。
「あっ、やっ、ちょ、ちょっとエレナ?」
妙な柔らかさが感触として訪れる。
「これから、妹をよろしくお願いしますわ」
向けられる複雑な感情。王女然とした余裕を保ちながらも陰りを見せるその笑顔。
「うん。わかってる。一緒に、ね」
「さすがヨハンさんですわ」
そう言って少し背伸びするエレナはその唇をそっと重ねた。
「エレ、ナ?」
「お先に。モニカ」
踵を下ろすと同時に突然できた妹へと向ける意地悪な笑み。一切の悪びれる様子はない。
その様子に肩を震わせるモニカ。
「なにが、お先よ? あんたは急に何をしてんのよ……」
「いえ、それほど難しい問題ではありませんわ。カレンさんには先を越されてしまいましたが、さすがにこればっかりは譲れそうにありませんでしたので」
「ななな、なにをわけのわかんないことを言ってるのよ!」
憤慨するモニカに対して、エレナは余裕の態度。
「ちょっと、ヨハン、私にもキスさせなさいっ!」
「え? いや、さすがに無理だよ……。それに同意する方がおかしいでしょ」
グイっと詰め寄られるのだが、周囲を見回しながら断る。
「そんなことよりエレナ」
「そんなこと?」
瞬間、モニカの目が据わっていた。
「いや、ちがっ、だって」
「なんでよ! さっきはキスしてくれそうだったじゃない!」
「いや、さっきは、その、雰囲気に呑まれたといいますか、なんといいますか――」
「何をごちゃごちゃ言ってるのよ! 黙ってキスさせてくれたらそれでいいのよ!!」
「えぇっ!? どういうこと!?」
「もう、モニカったら、ヨハンさんが困っているではありませんか。あまり困らせてはいけませんわよ?」
手の平を顎に当て首を傾げているエレナ。
「あんたは黙ってなさい! 不意討ちでキスをしておきながらっ! それになんか姉っぽく振る舞っているのも微妙に腹立つし!」
「実際、姉でしたからねぇわたくし。お姉さん、って呼んでもらってもかまわないですわよ?」
「呼ばないわよっ!」
それから何度もキスしようとヨハンに詰め寄るモニカなのだが、のらりくらりとかわされ、結局キスをさせてもらえなかった。
(――……ああもうっ! まったく、しょうがないわね)
あれだけのことがあったにも関わらずいつも以上にいつも通り過ぎて思わず笑みがこぼれる。
(ふぅ)
大きく息を吐くモニカ。
「あのね! みんな!!」
大きな声を発して、その場にいる面々を見た。
逸らされることなく真っ直ぐに目が合うその姿は頼りがいのある仲間の姿に他ならない。心配事がなくなったわけではないのだが、これまで通り信じられる仲間。
「ごめん。それと……――」
はっきりとした気持ちを伝えなければいけない。
「――……これからも迷惑かけると思うけど、一つだけ言わせて」
何を求めなくとも、呪いの解呪のために尽力してくれることは間違いない。それだけの絆を感じる。
だから、ここで必要なのはたった一言だけ。
「大好きっ!」
片手で目尻を拭いながら言葉を紡ぐモニカは、思わず涙を流してしまうのだが、それは先程まで流していた涙とは別。
そこにはいつもと変わらない無邪気な笑顔の華が咲いていた。




