第三百五十六話 サナの成長
「無事に帰って来れたんだね!」
ヨハンの腕の中、顔を見上げるサナは目尻に涙を溜めていた。涙を浮かべている割にはその表情は満面の笑み。喜びに満ち溢れている。
「ただいま」
「うん! おかえり!」
笑顔で答えるとサナは再びヨハンの胸の中に顔を埋めた。
「ちょ、ちょっとサナ、どうしたの?」
突然のサナの行動。どうしていいかわからない。
「え? だめ、かなぁ?」
サナは目線だけ上を向き、ヨハンの顔を見上げる。
「だめではないけど――」
「じゃあいいよね!」
全部言い切るよりも前にサナは見上げた視線を再び下ろし、ヨハンの胸の中で大きく鼻を吸った。
(ど、どうしよう……)
突き放すのも何か違う。かといってこのままでは進めない。
困惑するのはそれだけでない。
(……む、むねが)
突然抱き着かれたことももちろん困惑の要因なのだが、何よりも困惑するのは胸の辺りに得る柔らかな感触。
(さすがにちょっと困るな)
小柄なサナではあるが、明らかに以前と比べて大きな違いがあるのは、その胸の大きさ。成長が顕著に見られていた。布越しであるとはいえ、妙な気まずさが訪れる。
(どうしよう)
助けを求める様にしてカレンとニーナを見ているのだが、ニーナはムフフと笑顔でカレンを見ていた。対してカレンは俯き加減に肩をわなわなと震わせている。
「い、いい加減にしなさい! いつまでくっついているのよ!」
結果、ガッとカレンはサナの肩を掴んで無理やりヨハンから引き離した。
「え?」
思わず目をパチクリさせるサナ。一体この人は誰なのだろうかとカレンを見る。
(だれだろう? でも、凄く綺麗な人)
最初はヨハンにしか目がいっていなかったのだが、視界に映るその容姿端麗な銀髪の女性。
「久しぶりの再会だと思って黙って見ていればいつまでやっているのよあなたは!」
「は、はい」
突然語気を強めて話す銀髪の女性の剣幕に圧倒されるのだが、そもそも誰なのかサナは理解できない。
しかし、カレンもまたサナを間近で見て内心驚いていた。
(この子、めちゃくちゃ可愛いわね。綺麗な黒髪に大きな目。そ、それに、む、胸も……わたしよりちょ、ちょっとは大きいみたいだけど)
その美少女然とした少女に複雑な感情を抱く。そして、これだけ親しくヨハンと接することからしてもヨハンに近しい人物なのだという結論に至った。
「もしかして、あなたがモニカさん? それとも、エレナさん?」
「違いますけど?」
「え?」
即座の否定。きょとんとしたままサナは小首を傾げる。
「何言ってんのカレンさん。お姉ちゃんもエレナさんも金髪だよ? それにモニカお姉ちゃんもエレナさんもこんなに胸が大きくないしね」
横から割って入るニーナ。腰をかがめてサナの胸を食い入るように見た。
「なっ!?」
思わずサナはバッと両腕で胸元を隠す。
(ちょ、ちょっと何言ってるのこの子!? 何? やっぱり馬鹿なの!? あの人たちと比べるなら普通に髪の色だけでいいじゃない! む、胸を比べるなんて)
ニーナとはほとんど会話をしたことはないのだが、ヨハンの妹を名乗るニーナの印象がサナには強く残っていた。
「じゃあこの子は?」
「あ、はい。はじめまして。私は、ヨハン君の同級生のサナといいます。あの、えっと、それで、あなたはどちら様でしょうか?」
「そう。ただの同級生だったのね。それにしては仲が良いみたいだけど」
サナの返答を受けたカレンはニコリと笑みを浮かべる。どこか不気味さを孕むその笑顔にサナはぐっとたじろいでしまっていた。
「申し遅れました。わたしはカサンド帝国第一皇女、カレン・エルネライと申します」
「えっ!? 皇女……さま? 皇女様がどうして?」
不意のカレンの自己紹介。意味がわからない。
「いえ、ヨハンさんとは向こうで知り合い、この度婚約を結んでいますので自然と一緒にいることになりまして」
「えええっ!?」
全く以て想定外の内容にサナは衝撃を受ける。聞き間違いではないのだろうかとヨハンをチラリと見るのだが、明らかに真偽を問い掛けるようなサナの視線を受けてヨハンは苦笑いするしかできない。
「……ははは」
「ほん、とうなの?」
「あー、うん。一応、色々あってそうなっているんだけど」
一言で説明できるわけでもない。そのヨハンの言葉の中に否定するものが含まれていないことでサナはクラっと身体を倒し、そのまま膝を着いた。
「どうしたのサナ、だいじょうぶ?」
「うん。ごめんね、ちょっと状況が呑み込めないからだいじょうぶじゃないかも」
「具合が悪いなら医務室に連れて行こうか?」
「違うの、そういうわけじゃないの」
いつも通りのヨハン。変わらないその優しさが胸に沁みるのだが、同時にそれが妙な痛みを伴っている。
(どう、いうことなの?)
吐き気を催す。しかしここで吐くわけにはいかない。大きき深呼吸をしてそのまま笑顔を浮かべる。
「そっか。ヨハン君、婚……約したんだ。へぇ。そ、それで、どうして遠征に出たヨハン君が婚約を結んで帰って来ているのかな? 良かったら教えてもらえる?」
それでも必死に我慢して笑顔のままニコッと問い掛けた。
「あー、そのことなんだけど、どっちみちレイン達にも色々と話さないといけないから一緒でもいい?」
「も、もちろんいいわ! 話してくれるなら!」
事情を話してもらえるならどんな条件だろうと受け入れられる。むしろ気になって仕方がない。
「あのさ。それでレイン達がどこにいるか知ってる?」
「え? レインくん達? それだったら、今日はもう学校も終わってるし、いるとしたらたぶんいつもの談話室じゃないかな?」
「そっか、じゃあサナも一緒に行く?」
「私はもうちょっと気持ちを落ち着かせてから行くから先に行ってて」
「? わかった。じゃあ先に行ってるね」
「うん」
何の気持ちを落ち着かせるのだろうか意味がわからないのだが、具合が悪いならやはり医務室に連れて行った方がいいかとも。とはいえ、先程の返答からしても大丈夫そうなのでそのまま歩き始めた。
「……ヨハン君に婚約者?」
やっと帰ってきたかと思えばわけのわからない事態。思わずサナは両手を地面に着いてガックリと頭を下げる。
「あっ! ねぇサナっ!」
「え?」
不意に駆けられる声に反応して顔だけ上げると、前に向かって歩いていたヨハンが振り返っていた。
「どうしたの? 本当に大丈夫?」
「ううん。なんでもないの。大丈夫」
すくっと立ち上がり、再びニコリと笑みを浮かべるとそのまま右手を首元に送り、無意識に指先で毛先をくるくるといじる。
「それより、どうしたの?」
「ううん。髪、伸ばしたんだね」
「え?」
「似合ってるよ」
くるくるといじっていた指を止め、不意にかけられた言葉の意味を遅れて理解すると同時に恥ずかしさで顔を赤らめた。
「あ、ありがと」
そのまま毛先を鼻の頭に持って来て思わず顔を隠してしまう。
「じゃ、じゃあ私先に行ってるね!」
パタパタと走り出したサナは駆け抜けるようにしてヨハン達を追い抜いていった。
「あれ? 後から来るんじゃなかったっけ?」
「別にいいんじゃない。本人がいいなら」
「……まぁ、そうだけどさ」
ニーナの言う通り、走る元気があるのだからとそれでいいかと安堵の息を漏らす。
「ヨハン?」
「はい?」
静かに声をかけるカレン。
「今の、どこまで本気?」
「どこまで本気って、何がですか?」
「……いいわ。わかっていないようなら別に」
「え?」
ヨハンのその返答と目に映る様子、態度だけで十分理解した。
(この子、無自覚なのね……――)
首を傾げているヨハンの横で内心考える。
(――……これは気を付けておいた方がいいかもしれないわね)
ただの同級生であの態度。明らかな好意を向けられているのだと。
だとするとそのヨハンの仲間であるモニカとエレナが既にヨハンによって籠絡されている可能性もあるのではないのだろうかということを。




