第二百九十七話 閑話 メモリーライフ(後編)
「――……ここ、どこ?」
結果迷子になってしまった。それはカレン自身も自覚があった。
「ま、まあ適当に歩いていれば帰れるわね」
楽観視。いつも訪れている森だからこその安心感を抱いていたのだが、それが間違いだと気付くのにしばらく時間が掛かることになる。
そのまま思い付きのまま森の中を動き回った。
「うっ……うぅっ、ここ……どこなの?」
もう既に半泣き状態。帰り道どころか方角もわからなくなり途方に暮れる始末。上、空を見上げて見ても陽が既に傾き始めていたので直に日が暮れる。このままでは足下も見えなくなることは理解しているのだがどうにもできない。
「えぐっ、うぐっ、にいさん、助けて」
かすれる声で思わず呟いた兄への言葉。それと同時に視界に映ったのは遠くで夕陽を浴びる小さな花。どうにも日光を反射してキラリと輝いて見える。
「あれ?」
初めて見るその花には見覚えがあった。正確には実物を見たことなどなく、植物図鑑で目にしただけの希少な花。
「うそっ!? クリスタルフラワーだわ!」
深い森の中でのみ芽吹く水晶のような光沢を象るその花。それだけでも植物として相当に珍しいのだが、更に稀少だとされている理由は、クリスタルフラワーは土地から魔素を吸い上げ、深い森の中であるにも関わらず陽の光を十分に浴びなければいけないという条件があった。
「すごい。こんなところに咲いているなんて。それにすごいきれぃ」
深い森といってもこの森はそれほど深くない。まるで信じられない。うっとりするほど見惚れてしまう程の輝き。これほどの輝きを放つクリスタルフラワーがこんなところにあるのなど薬剤学の先生も知らないのではないかと。もしそんな稀少な物があるのなら既に教えてもらっているはず。
「そうだわっ! これを母様とルーシュの部屋にかざってあげよ!」
苦労しながらもようやく見つけた贈り物。
ゆっくりと手を伸ばし、クリスタルフラワーを引き抜こうとしながら植物図鑑で得た知識を思い返す。
「そういえばこの花って確か動物にとってはごちそうらしいのよね。こんなきれいな花を食べるだなんて勿体ないわね」
クリスタルフラワーに限らず魔素を多く含む自然の植物は栄養素が多く、動物の大好物とされており、そういった植物の群生地には獰猛な獣が縄張りを築いているほどなのだと生物学の授業で習っていた。
となれば近くに獰猛な獣がいるのかと一瞬身構えたのだがすぐに頭を振る。
「まぁこれ一本だけならそんなこと……――」
そのままクリスタルフラワーを引き抜いたカレンは目的のものを見つけられたことで満面の笑みを浮かべた。
「――……え?」
不意に巨大な影が自身の影を隠したことで何かと思い振り返る。
「ゴフッ、ゴフッ!」
そこには巨大な猪が荒い鼻息を上げてカレンの真後ろに姿を見せていた。
「あっ……」
状況の理解をするよりも早く目の前に迫って来たのは白い塊。巨大な猪の角。
「きゃあああっ!」
ドンっと激しい衝撃と共にカレンは吹き飛ばされ、持っていたクリスタルフラワーを地面に落とす。
「い、いたぃ」
突然の衝撃によって全身に走る痛み。激痛。感じた事のない痛みを覚えながら顔を上げると、猪の視線はクリスタルフラワーに向いていた。
「ゴフッ!」
ご馳走を目にして、興奮しながらどすどすと重量感溢れるその身体を花に向かって進める。
「だ、だめっ!」
グッと身体を前に飛び出させ、バッとクリスタルフラワー目掛けて飛び付いたカレンは花が潰れないように覆い隠した。襲われたのは自分ではなく、クリスタルフラワーが目的なのだと即座に理解する。
「これはルーシュに持ってかえるのだからっ!」
これがあれば母ルリアーナも喜び、モリエンテも褒めてくれるはず。
「ぜったいあなたなんかにわたさないわよっ!」
キッと睨みつけて猪を威嚇するのだが、所詮小さな女の子の眼光。凄んだところで何の効果もなく、猪はどすどすと近付いて来ていた。
「あ、あっちにいきなさいよっ! これはわたしが先に見つけたのだからねっ! よこどりするなんてズルいわよっ!」
必死に声を掛けて追い払おうとしたのだが全く効果がない。
「ゴフッ!」
鼻息荒く、大きな角でカレンを吹き飛ばそうと頭を振る猪。
「……助けて! ラウルにいさんッ!」
目を瞑りながら無意識に思わず口にした兄ラウルの名前。
「呼んだか?」
「え?」
まるで幻聴かのように聞こえてきた兄の声に思わず耳を疑ったのだが、すぐさまそれが幻聴などではなかったのだと。目の前でドンッと猪が地面に力なく倒れる姿を目にして、その奥にいたのは正に助けを求めた人物に他ならなかった。
「に、いさん?」
「探したぞカレン。こんなところにいたのだな」
ラウルは呆れながらカレンを見る。
「どう、して?」
「どうしてもなにも。カレンがいなくなったと会議が終わってから耳にしてな。それでここを探しに来たのだ」
城内のどこにもカレンの姿が見られなくなり、もう大騒ぎになっていた。一部では誘拐の線も視野に入れられ捜索隊の投入がされ始めていたのだが、会議を終えたラウルがモリエンテから聞いたカレンの直前の様子。ルーシュに対する贈り物のことを尋ねていたことを知ってもしかしてと思い探しに来ていた。
「勝手なことをしてごめんなさい」
涙ぐみながら謝罪を口にする。しかし言えなかった。言えば確実に誰かが付いて来る。それだと意味がなかった。一人でできるのだと、ルーシュに、母に、ただ喜んでもらいたかっただけ。
「……そうか」
カレンの謝罪を無言で聞いていたラウルはゆっくりとカレンに向けて手を伸ばす。カレンはビクッと身体を揺らし、それだけ城内が騒ぎになっているのなら相当怒られると思い覚悟をしてグッと目を瞑った。
「え?」
しかし、頭上に得られた感触は柔らかな手の平の感触。
恐る恐るゆっくり片目を開けると、目の前にはラウルが屈んでおり笑顔でいる。
「にいさん?」
「カレンの気持ち、俺にはよくわかる。俺もカレンが生まれた時に似たようなことをしたからな」
「にいさんが? わたし知らない」
「ああ。カレンが覚えてなくても当然だ。今のルーシュよりちょっとだけ大きい程度だったからな」
「何をくれたの?」
「あー……それはまぁ、覚えてない」
どうにも言い淀んでいるラウル。
「……そう」
親愛なる兄ラウルから過去に何をもらったのか気になって仕方なかったのだが、それよりも今は怒られなかったことに安堵した。
「とにかく、帰るぞ」
「……うん」
そうしてラウルに連れられ城内に戻ったのだが、ラウルと違ってそれはもうこっぴどく怒られる始末。ある程度は覚悟して戻っていたのだが、それでも中々に堪え、大泣きしてしまった。
「ご、ごめんなさい」
もう何度となく口にした謝罪。それでも目の前の母親は未だに怒っている。
「もうそれぐらいでよろしいではありませんか」
「あなたは放っておいてくださいラウル様」
どこかお互いに気を遣い合う他人行儀な母と兄のやりとり。その理由が実の親子関係ではないのだからということを知るのはまだこの歳のカレンにはわからなく、空気が悪く感じるそれはカレンにとって居心地のいいものではなかった。仲良くすればいいのにという程度にしか考えていない。
「それよりもルリアーナ様。カレンが渡したい物があるそうです」
「えっ?」
そこでルリアーナの視線はカレンに向く。もじもじとするカレンに対してルリアーナは疑問符を浮かべて首を傾げた。
「どうしたのカレン?」
いじらしさを見せる、まるで見たことのない娘の姿に思わず問い掛けたのだが、そのままスッとカレンが後ろ手に持っているクリスタルフラワーを突き出すように前に出すとルリアーナは目を見開く。
「これ、ルーシュに!」
意を決して口にした。目をパチクリさせたルリアーナなのだが、その言葉の意味を理解したルリアーナは思わずプッと息を漏らす。
「…………そう。カレンはこれを採りに行っていたのね。あの森にはこんな珍しい花は咲かないはずだけど、弟想いのカレンにご褒美をくれたのかもしれないわね」
柔らかな笑みをカレンに向けながらルリアーナはクリスタルフラワーを受け取った。
「モリエンテ。これをルーシュの近くに飾っておいて」
「かしこまりました」
そのままルリアーナから受け取ったモリエンテはカレンにそっと笑みを向けるだけに留める。
「でもカレン。その気持ちは確かに嬉しいのだけど、あなたはもう少し落ち着きなさい。危険なことをする必要はないのです。それに、女であるあなたにはただでさえ継承権がないのだから身に付けるべきはそんなことではありません」
「……はい」
生まれた時から耳にしている継承権のこと。元々男に生まれていたとしても第三位なのだから帝位を継承することなどよっぽどのことでも起きない限りほとんどない。生まれたばかりのルーシュにしてもそれは同じ。だからこそ女であるカレンには教養や知識を人一倍身に付けられることが求められていた。
「ではルリアーナ様。俺はこれで失礼します」
「ええ。ありがとうね。カレンを助けてくれて」
「大切な妹なのだから当然です」
「……ええ」
どこか複雑な感情を抱きながらルリアーナは部屋を出ていくラウルの背中を見送る。
「そういえば母様。にいさんがわたしが生まれた時に何かくれたって言っていたけど、何をもらったの?」
口元に人差し指を持っていき問い掛けるカレンの言葉を聞いたルリアーナとモリエンテはブッと声を漏らした。
「彼があなたに贈ったものですって?」
「あんな物贈られても困りますよね」
「あんなもの?」
プククと笑いを堪えきれない二人を見て疑問でならない。
◇ ◆
どんな物が送られたのかというのは、翌日もう一人の兄であるアイゼンが教えてくれた。連れられたのは定期的に武闘大会が開かれるその闘技場の入り口。
「え? これ?」
口をあんぐりと開けるカレンは眼前を見上げており、そこには大きな生物の骨が飾られていた。
「これが兄上がカレンに贈った物だよ」
「こんな……大きなもの?」
闘技場の入り口に飾られていたのは竜の骨。その大きさは森で襲われた猪の十倍以上にも見える。
「どうしてこれをわたしに?」
「私も詳しい話は知らないのだけど、あの時、兄上は戦場にいたのさ。あの兄上でさえ死にかけたらしいのだから相当なのだと思うよ。その時戦った竜の死骸、それをカレンに贈られたのさ」
「へぇー」
話の内容を半分も理解できなかったのだが、竜峰でスフィンクスと共に戦って生還したラウルは生まれたばかりのカレンの為に持ち帰ったというその竜。肉はカレンの生誕祭と停戦協定の祝杯。宴会で振る舞われたらしいのだと。
「こんなの倒せるだなんて、にいさんってすっごいつよいのね!」
剣聖の称号を受けているのだから当然といえば当然。ぼんやりとだがわかっていたとしてもそれはまるで想像以上。雲の上のお伽噺に匹敵する。
「ああ。だからこそ兄上には自由に生きて欲しいのだよ」
「へぇ」
ただただその竜の骨を見上げながら兄の凄さをその身に感じさせられた。それがどこか自分のことのように誇らしく語るアイゼンの姿に気付かず、カレンは見惚れる様に見上げていた。




