第二百六十二話 シトラス・ブルネイ(後編)
◇ ◆ ◇
「今日のご飯はなんだろうねぇ」
陽が沈むよりも前、いつもよりも早く帰宅出来たことを脅かそうと、一体サリナスがどんな顔をするのだろうかと笑みをこぼしながらシトラスは帰路に着いていた。
「ん?」
そのまま家に着くと、戸が僅かに開いているのが視界に入る。
「おーいサリナスぅ。不用心だなぁ。ドアが開いていたよ?」
ドアを開けながら家の中を覗き込んだ。
「――な、んだ……これは!?」
同時にドクンと心臓が大きく跳ね上げるように音を立て、目の前の景色に驚愕する。徐々にその鼓動、心臓の音が速く大きく鳴り始めた。
焦燥感。
眼前、家の中は食材が調理途中かのようにいくつも散乱しており、周辺の戸棚の中も引き出しが開けっぱなしになっている。どこもかしこもひどく荒らされた形跡があった。
「サリナスっ!?」
慌てて家の中に駆け込み、辺り一帯を見回す。
「サリナスっ! なにがあった!?」
尋常ではないこの状況。焦りと不安ばかりが増していく。
グルンと首を回して見たその先、壁の角に隠れたその床に見えたのは人間の足。上体は隠れていた。
しかし顔が見えなくともそれが誰の足なのかということは知っている。理解している。
「サリナスッ!」
慌てて駆け寄り、それがやはりサリナスなのだと確認して屈むと、床に倒れていた娘をそのまま両腕に抱き起こした。
「お……とう、さん?」
薄っすらと目を開けるサリナスは青白い顔をしている。
「――っ!」
左手にはぬめッとした液体の感触とほんのりとした温かさ。ゆっくりと手の平を確認する様にして見ると、腹部からはドクドクと血を流れていた。
それを目にした瞬間、シトラスは一気に血の気が引く。
「はぁ、はぁ、おと……ぅさん」
意識を朦朧とさせるサリナスは息も絶え絶え。か細い息で今にもこと切れそうな様子を見せていた。
「しっかりしろ! なにがあったのだ!?」
「あ……のね、」
「いや、もうしゃべるな! くそっ! 早く治癒魔法を!」
娘に向かって治癒魔法を施そうと必死に魔力を練り上げそのまま右手をかざす。
「き、いて……おとう、さん」
「いいからしゃべるな! 余計な体力を使うなッ! お父さんがすぐに治してやるからなっ!」
「きを……つけ、て、おとうさん。あい、つら……お……とうさん、の、けんきゅう、を、ねらって……いる、の」
「……私の…………研究を、だと?」
ヒュー、ヒュー、と息が細くなっていく娘の姿を前にして、シトラスは茫然とした。
「わ……た、しは……もう、たすから……ないわ」
「そんなことあるものかっ! お父さんを信じろッ!」
しかし、治癒魔法の効力が一切見られない。魔法自体は正常に発動している。それがなにを差しているのかということはシトラス自身も理解している。
だが受け入れることはできなかった。
「サリナスッ! しっかりしてくれよサリナス! お前にまで逝かれるとお父さんどうしたらいいのだ!」
「お……とう、さん?」
小さな、小さな声。
もう今にも消え入りそうになっているサリナスの声。
「なんだ!? なにが言いたいのだ!?」
既にシトラスの視界は涙によってぼやけてしまってはっきりとは見えない。
それでもせめて娘の最期の言葉を聞こうと、しっかりとその口に耳を近付ける。
「ご、めんね」
震えている声。
「何を謝る必要がある!」
「こ、んな、ことば、が……さいごに、なっちゃって」
「最後だなんていうなっ! お父さんが絶対に助けてみせるから!」
必死で励ますように口にしてみるものの、もう助からないのはわかっていた。
「ふふっ。お父さん。愛してる、よ…………」
震えを我慢して、最期の力を振り絞ってはっきりと告げられる言葉。そのままサリナスは目尻からぽつりと涙をこぼす。
「おとうさんもだ! だから頼む! 生きてくれッ! 生きてくれサリナス!」
涙で滲む視界の中、眼前のサリナスは小さくだがはっきりと笑みを浮かべた。父にも娘のその笑顔がはっきりとわかる。
「サリナス! サリナス! サリナスゥゥゥゥッ!」
「………………――――――」
そうしてサリナス・ブルネイは笑顔のまま静かに息を引き取った。
「サリ、ナス……」
もう息をしていない娘のその身体を、きつく、きつく抱きしめる。
愛しい妻との間に生まれ、これまで育てた。幼い頃は何度も向けられた笑顔。それに大人になった今の身体、最近では全く適わなかった父のその抱擁。愛おしい妻の忘れ形見を、愛娘の身体を、これまでで一番、一番強く抱きしめる。
「うわあああああああああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ――――――」
これまで生活してきた、いつもと変わらない、同じはずだったその空間。本来であればそのいつもと変わらない、同じ景色が毎日繰り返し送られるはずだったその空間。
しかし、圧倒的なまでの違いを生み出しているその空間。昨日と、今朝までと同じ場所とはとても思えない。
その場所にはただ一人、たった一人だけの、目の前で娘を失った父の、シトラスの悲痛なまでの叫び声が響き渡った。
◇ ◆ ◇
「――フム。同胞の気配を感じたので来てみれば、なるほど。やはり生まれていたか」
薄暗いその部屋の中、辺り一帯はただただ壊れた家具や食材が散乱している。
「…………」
背後からの声に対して、男は一切の反応を示さない。
「オメデトウ。どうやらお主には素質があったようだな。魔族に転生するだけの」
女性の亡骸を抱えたまま微動だにしない男に向かって、黒衣を纏った白髪の男が声をかけるのだが、未だに男からの反応は見られない。
「…………」
「にしても、妙よな。術も使わずに人間としての原型としての身体を保っておるとは……」
黒衣の男が一人で口を開き続けた。
「……はて。どういう理屈なのか興味が湧くのだが、しかしこのままではどうにもならんのぉ」
「…………」
顎を擦りながら男は目の前の男、シトラスに向かって語り掛ける。だがそれはまるで独り言。
「状況から見るに、お主の転生のきっかけはどうやらその娘のようだな。死んでおるの」
「…………ッ」
シトラスは微かに唇を噛む。
やっと見せた僅かなその反応を受けて黒衣の男は口元を緩めた。
「ほほっ。ならば、魔王様の力があればその娘を蘇らせることもできるやもしれぬぞ?」
「――――なッ!?」
それまで無反応だったシトラスは、男の言葉を聞いた途端、弾けるようにして顔を上げた。
「どう、いう……ことだ?」
振り返り、初めて会う黒衣の男の顔を見る。
「フム。良い眼じゃな。これだけの目、久しく見ておらぬ」
黒衣の男の眼には、目の前にいるシトラスが悲しみと憎悪の渦に飲み込まれているのがすぐに理解できた。
「いいから今言ったことをもう一度言えッ!」
シトラスはサリナスの身体を抱えたまま立ち上がり、目の前の黒衣の男を睨みつける。
「よいよい。それが人間の持ち得る本能。その本能のままに行動するがいい」
「……なんだってするさ。サリナスのためならなッ!」
そのままシトラスは立ち上がり、亡骸を抱えたまま黒衣の男と共に姿を消していった。
◇ ◆ ◇
それから約二百年後。
果樹園の地下、カレンの手に持たれている日記にシトラスは視線を向ける。
「(人間の頃の習慣で書き続けていたが、どうやら仇になったか。だがまだだ。あの竜人族の娘の血があれば完全なるサリナスが生まれるかもしれない。こんなところで邪魔をされてなるものか……――)」
そのまま目の前に立って鋭い眼差しを向けてくる二人、ヨハンとカレンを見た。
「(――……常識など、そのようなもの、全て覆すことができる)」
実際この身に実感を得ている。魔族となったこの身体に。
元々人間だった頃、常識に囚われないような研究をいくつも重ねて来た。だからこそ新しい発見をいくつも見付けることができた。
しかし、それでもそれはまだまだ常識の範囲内。
人間が魔族に転生できるなどと、不死の身体を得ることなどと、魔王なる存在が実在しているなどと、人間を超越したこの身体になって何十年も積み重ねることによって知り得たいくつもの真実。
「全ての常識など打ち破れば良い」
小さく呟く。
ここまで積み重ねて来た多くの研究を思い返した。
『それにしてもお主は変わっておるのぉ』
黒衣の男はシトラスに向かって問いかける。
『そーうですかぁ?』
『元来、魔族に転生すれば人間などどうでもよくなるはずなのだが? 無論人間だった頃の経験から衝動的に突き動かされることはあるが』
『ウフフ』
シトラスは培養液に浸かるサリナスの身体が入ったいくつもの容器を見上げた。
『いーやいや、私もどーうでもよいのですよ?』
それは本音そのもの。
かつてシグラム王国、その地下の実験室にいくつもの人間の被検体を持ち込み、実験と研究を重ねている。それほどに人間などどうでもいい。倫理観や道徳観などというものは既に持ち合わせていない。
『しかし未だに人間の時のその娘に対して固執しておるではないか。あれからどれだけの時が経つと思っておる。そもそも、あの時儂が助けてやらんとお主は処刑されておったではないか。魔王様の復活を待っておればそれだけの危険を冒す必要もないというのに』
『えーえ。あの時はさーすがにこまりましたねー。その節はどーうも』
いくつもの人体実験を重ねた結果、それが露見して処刑されようとしていた時のこと。寸でのところでシトラスは目の前の魔族の男によって助け出されていた。
『いよいよ待ちに待った時がくる。魔王様は目覚め始めようとしている』
『そーの件でーすが、ほんとうなのでーすね?』
シトラスは振り返り、黒衣の男を見る。
『ああ。間違いない。これまで感じられなかった魔王様の波動を感じる。かつてと同じ……およそ千年前になるか。恐らく当時と同じように、人間の身体を媒体にして、目覚めの時の為にその力を蓄えておられるはずだ』
『なーるほど。そのような話。かつての私ならとーても考えられない話でーすね。魔王が実在していた、などと。いやいや、常識などというものはあってないようなものでしたね』
だからこそ、サリナスを蘇らせることが可能だと思えた。
『魔王様の目覚めの時はその力、頼りにしておるぞ。再びこの地を混沌に陥れるのにな』
『えーえ。あーなたには借りがありますのーでね』
龍脈の存在を黒衣の男に教えてもらい、再び実験と研究を重ねている。
『ではまたの』
そうして黒衣の男は影の中に姿を消していった。
◇ ◆ ◇
「――常識など、そんなものに縛られる必要などないのだ」
底冷えするほどの黒く冷たい声がカレンに向けて放たれた。




