第百三十七話 ただの一人の
「やっと、着いたね」
「ええ。わたくしも久しぶりに登りましたのでさすがに疲れましたわ」
まだ塔の最上部に到達したばかりであり、最上部には外に出る為の観音開きの扉が一つあった。
僅かに開いていたその扉の隙間からは外の光が差し込んでいる。
エレナが小さくヨハンに笑いかけるのだが、どうしてエレナが笑っているのか、その意図が理解出来ずに疑問符を浮かべた。
何も説明がされないまま、エレナは笑みを浮かべたままその扉をゆっくりと両手で押し開く。
外の光、眩い光が差し込みエレナの顔を隠すように照らし出す中、エレナの影はその指を外に向かって指し示した。
「見てくださいませ」
「え?」
暗闇に目が慣れてしまっていたために思わぬ光量に目が眩むのだが次第に目が慣れてくる。
「うわーっ!」
ヨハンは目の前に広がる思わぬ光景に感嘆の声を上げ、前に向かってゆっくりと歩いた。
物見塔の外壁に手を置き、見渡すようにして辺りを見る。
エレナが開けたドアからは遥か遠くに山々が、大きく連なる山脈が見え、広々とした青空には風に流される雲が王都を隠すようにして影を作りながらゆっくりと動いていた。
反対側、西側に目を送ると、地平線を一望できる。
「……すごい」
まさに絶景と言わざるを得ないその景観を広々と見渡した。
「ねぇエレナ」
「はい」
にこやかな表情を浮かべるエレナに向けて続けて口を開く。
ヨハンは物見塔の外壁部分から身を乗り出しながら下を向いていた。
「見て!王都が下にこんなに小さく見えるよ!」
「うふふっ、喜んでもらえたようでなによりですわ」
ヨハンのはしゃぎようをみながらエレナは後ろ手に手を組み満足そうに、微笑ましそうに見ている。
物見塔の屋上に当たるこの最上部からは、眼下を一望出来た。
塔に登る前、エレナからこの塔のことを聞かれた時には、その位置と高さから王都を下に見る景色があるのは当然わかってはいたのだが、想像を遥かに超えたその景色、景観に感動してしまう。
「わたくしがヨハンさんをここに連れて来た理由、わかってもらえましたか?」
「うん! 王都を上から見るとこうなってたんだね!あっ、王宮も見える!」
並び立つ様にしてヨハンの横にエレナが立った。
「これが、この下に広がっているのがこの国の王都なのですわ」
「すごいよっ! こんなにも綺麗な街が広がっているなんて思ってもみなかったよ!!」
見渡した王都内の景色、円形状に作られ外壁の中で地区ごとに整備されている。
各方角に綺麗に区画整備されたその街並みは上から見下ろして初めてその構造を確認できるほど綺麗であり、平面上に見るその景色とは大きく異なっていた。
感心する様にしてしばらくその景色を堪能する。
純粋に初めて見るその景色を眺めるヨハンに対して、時折エレナはそのヨハンの横顔を愛しさと切なさを織り交ぜた表情で見つめていた。
「エレナは…………」
「えっ?」
眺めていたところで不意にヨハンが口を開く。
「エレナは、すごいね」
真っ直ぐにヨハンはエレナの顔を見た。
「どうして、でしょうか??」
突然褒められたことでエレナは困惑する。
「だって――」
そこでヨハンはもう一度王都に向かって、大きく手を広げた。
「こんなにも、こんなにも大きく雄大な、威厳のある佇まいのこの街、いや、この国の王女様なんだよ?」
「そう……ですわね」
「この下には多くの人が働いていて、生活をしていて、楽しそうに笑って、時には泣いて……怒って、それでもやっぱり笑って喜んで生きている。そんな国の王女なんだよ」
改めてエレナの立場の凄さを実感する。
「わたくしは…………確かにわたくしは、この国の王女ですわ。いずれ、父に代わりこの国を導く立場に就かなければいけません」
「そっか、エレナには兄弟がいないんだもんね。そっかぁ…………」
エレナ自身によっぽどの問題、それこそ大犯罪でも侵さない限りは生きていれば王位継承権はエレナにあった。それはヨハンも知っている。
今だけ、学生の間だけ行動を共にしているのだということは。
「…………ですが」
エレナは下を向き、口籠りながらもなんとか伝えなければいけない言葉を、振り絞るようにしてヨハンに伝えようと口を開いたのだが――。
「わかってるよ」
下を向いているエレナの様子を見て、遮るように口を開いたのはヨハンの方。
屈託のない笑顔が向けられていた。
「えっ?」
「ごめん。僕が悪かったね。さっきのはやっぱナシね。今は僕たちの仲間のエレナだよ。うん。王女様だなんて関係のない、エレナ・スカーレットじゃなくてただのエレナだね。ごめんね、学校が禁則にしているのに、つい……」
「い、いえっ――」
慌てて手を振りヨハンの謝罪を否定しようとするのは、ヨハンに悪気があったわけではないのがわかっているから。
「エレナ?」
その表情を見て驚いてしまうのだが、エレナもまたゆっくりと頬に指先を送る。
「あ、あらっ? わたくしとしたことが、どうしたのですかね」
瞬間、エレナはその目に大粒の涙を浮かべ、その大粒の涙はすぐさまエレナの頬を伝うとポツリと地面に落ちた。
「ご、ごめん!エレナ! ぼ、ぼく――」
「ち、ちがいますの!」
あわあわと困惑するヨハンに対して、エレナは泣き顔を見られないようにして後ろを向く。
涙を流してしまったことが恥ずかしくなり、とてもヨハンの顔を見ることができない。
先程ヨハンによって紡がれた言葉は、エレナ自身が伝えたかった言葉。
将来を見据えた時にいくつかの葛藤を胸に秘めたことでどう伝えようかと悩んでしまった。
そんな中で不意に送られた言葉が胸に刺さる。
突然のエレナの涙を見たヨハンは困惑した。
「ど、ど、ど、どうしたの!? ご、ごめん、ぼ、僕、どうしたらいいかな!?」
と、慌てた様子でエレナの両肩を掴む。
そこには珍しくヨハンが心底困惑している様子が背中越しでも手に取るようにわかった。
「――プッ」
余りにもヨハンの困惑した様子が面白くなり、エレナは思わず吹き出してしまう。
「エレナ?」
背中越しなので表情が見えず、どうして笑ったのかわからず疑問符を浮かべながらエレナの様子を窺うヨハンなのだがエレナは顔だけ回してゆっくりと振り返った。
「僕……――」
まだ目尻には涙の残痕があり、目は微かに充血していた。
そして、ゆっくりと口を開く。
「いえ、何もしなくても大丈夫ですわ。ただ…………ただ、こうしている。なによりそれだけでわたくしには十分ですわ」
将来のことなど今は関係ない。
目の前にいる彼を困らせるわけにはいかない。
送られた言葉、それを彼が口にしてくれたことが何よりも嬉しい。
「ありがとうございます」
頬は乾いており、片手は手を乗せられていた肩、ヨハンの手の上にそっと重ねる。
そのまま目尻の涙を拭ってエレナはヨハンに向かって笑いかけた。
「……エレナ」
陽が沈みかけたその夕焼けがエレナの顔を赤く照らし、朱色が頬を伝った涙の道筋に色味を失くして反射する。
エレナのその表情は、ヨハンがこれまで見たことのないエレナの表情であり、今までのどのエレナよりも一際輝いて見えた。
「――えっ!? ヨ、ヨハンさん!?」
ヨハンの行動にエレナの目が泳ぐ。
身体には微かに感じるヨハンの体温、背中にはギュッと回された腕の感触。
ヨハンは思わずエレナをギュッと抱きしめてしまっていた。
自分でも気付かない程、無自覚で力強く抱きしめている。
すぐさま、数瞬の間を開け我に返ったヨハンは自分のしていることに気付いて慌ててエレナの背に回していた手を肩に置いて引き離した。
「ご、ごめん! 急にごめん! び、びっくりしたよね!?」
その顔は恥ずかしさから真っ赤になってしまっており、西日が差す陽の光さえ通り過ぎるほど赤面した赤。
「あっ……――」
エレナは無言で両膝を地面に着き少し俯く。
その表情はヨハン以上に真っ赤になってしまっており、口をパクパクとさせ上手く言葉を発せなかった。
しかし、ヨハンから見ればエレナがショックで膝を着いてしまったとしか思えない。真っ赤になっていることには気付かない。
「ご、ごめん、ぼ、僕――」
顔面蒼白するのだが、突然の行動に戸惑い困惑するのはお互い様。
エレナも慌てふためいているヨハンにすぐさま気付く。
「だ、大丈夫ですわ!」
慌てて立ち上がり、しっかりとヨハンの顔を見るのだが、赤面していることを気付かれたらどうしようかと脳裏を過った。
「あっ――」
「ごめん!」
真っ赤に染まった夕日が照らしていることと、困惑してしまっているヨハンはすぐさま頭を下げたのでエレナの表情に全く気付かない。
「あ、あの、エレナ?」
どうしたらいいかわからず目線だけをゆっくりと見上げながら恐る恐るエレナを見る。
その距離もまた十分に近いのだが、このまま何も言えなかったらヨハンを困らせてしまうのがわかっていたエレナは必死に平静を装った。
「だ、大丈夫ですわ。じ、実はわたくし、あまり高いところが得意ではないのですわ」
「えっ?」
通常なら言わない言い訳。
取って付けたような言い訳を口にしてしまう。
「そ、それで少し立ち眩みがしましたの」
「え?そうなの?」
「そ、そうですわ」
困惑しながらもその言葉を聞いてヨハンはホッと息を漏らした。
「そ、そっか。な、なんかごめんね、僕だけがはしゃいでしまって」
「いえいえヨハンさんに喜んでもらいたくてお連れしましたので、そんなに喜んでもらえたのならわたくしも嬉しいですわ」
もうそこには泣き顔も羞恥もなくなっている。
「そっか、じゃあそろそろ降りようか。あんまり遅くなってもね」
「ええ、そうですわね」
そこに夕暮れの冷たい風が吹き荒ぶ。
「ほらほら、夜風は冷えるから早く帰ろうよ」
塔内に戻るためにヨハンがエレナの手を握る。
「あっ――」
突然手を握られたエレナは、先程抱きしめられたことを思い出し、再びその顔を紅潮させた。
しかしヨハンは前を向いている為にそれに気付かない。
「ヨハンさん?」
「ん?」
塔に入る扉を抜けようとしたところで声を掛けられる。
「夜の灯りに照らされた王都も綺麗なのでまた来ましょうね」
「えっ!? 高いのはだめなんじゃないの?」
「暗ければ下は見えないので大丈夫ですわ」
「そんなもんなの?」
高所恐怖症の気が無いから実際のところはわからない。
「ええ」
「ふぅん」
軽く笑い返すエレナの様子を見る限りは恐らく大丈夫だろうということはわかった。
エレナは決して高いのが怖かったわけではないのは勿論なのだが、平静でいられなかったことを誤魔化すことしかできない。
しかし、誤魔化したとしても、もう一度。もう一度ここの景色を一緒に見に来たかった。




