〜愛しい人は、女神さま 編〜 プロローグ
本作「PURIFICATION」では、一次情報が圧倒的に多い主人公を描いています。それゆえに優れた体感力のあるものの感覚を記していますので「知識は本当の理解ではない!」といった意味の表現が要所要所に鏤められています。
肉眼で見ている世界と圧倒的な感受性(体感力)により垣間見ることのできる世界との狭間で繰り広げられるリアル感!どちらが現実で、どちらが非現実なのかを問題提起する独創性と新鮮さを兼ね備えた内容でお届けします。
暗がりの部屋でひとり椅子に座り、パソコン画面に向かって文章を書いている結子。屋外からは微かに虫の音が聞こえてくるが、それ以外は時計の秒針が時を刻む音とパソコンのキーボードを叩く音が繰り返し静かに響いている静寂な夜。
「ありがとう、神様!」
幼い頃から何度も心の中で呟いた言葉。そして、何度も声に出して語りかけた言葉。
懐かしさや恋しさがあるにも関わらず、いつも新鮮で清々しく爽やかな気持ちにさせてくれる、そんなフレーズを今夜も書き記したとき、何とも言い難い感慨が結子の胸を過った。
心を鎮め鳴り止まない時計の秒針に意識を向けながら、そっと目を閉じた途端に、瞼の奥から懐かしく愛おしい人の姿が現れた。
溌剌とした笑顔と正義感溢れる風貌の彼は、およそ大人に似た体つきをした高校生だとは思えない赤子のように純粋で素直な心を持った好青年であった。
彼もまた幾度となくこのフレーズを口にしただろう。
結子の脳裏には、朝日朋友と過ごした掛け替えのない日々が切なさや懐かしさと共に甦ろうとしていた。
夜更けになり静寂が深みを増してゆくと、更に鮮明な映像として甦る朋友と過ごした遠い日の出来事。当時の体感と激情が全身を貫き、心の奥底からだけではなく結子の細胞ひとつひとつが再び甦ろうとしていた。
ベッドに横たわり、物思いに耽りながらも眠りについた結子の目前には、溢れる笑顔をした朋友が佇んでいた。
「朋友?」「朋友なのね?」「本当に朋友なのね?」「朋友!」
結子が朋友に近づこうとすると背を向けて歩き出す朋友。細く長いトンネルの中、歩みを進める朋友を追いかける結子であるが、勢いよく足を進める朋友に追い着くことができない。
必死に朋友の後を追い、暗がりのトンネルを抜け眩しい明かりが双眸に射したかと思うと、結子の目前には朋友ではなく苛烈な戦いを繰り広げた禍々しい妖気を身に纏った魑魅魍魎たちであった。
「助けて!」
声にならない声を必死にあげ、その場から逃げようと走り出すが思うように足が前に進まない。魔物の手が結子の首にかかり、穢れた冷気が結子の全身に広がってきた。絶対絶命の結子・・・
「やめて!」と叫んだ瞬間に結子は目覚めた。
ベッドからは布団が落ち、夢の中では激しく動いたにも関わらず、結子の体は冷気を纏ったように冷たくなっていた。
「夢か・・・」
起き上がり、枕元にいつも常備しているグラスの水を飲んで乾いた喉を潤し、溜息をつく。いつもなら夜中に目覚めたとしても暫くすればまた眠りにつくことができるのだが、今宵だけはどうにも再び寝つくことができない結子はひとり散歩に出かけた。朝焼けに有明の月が輝く中、結子は近くの公園でひとり静かに立ち止まり心を鎮めて空間に意識を向けた。
明鏡止水という心境は、結子にとって人が食事を毎日することと同じように当たり前のことである。時に身を委ねると膨大な量の情報が全身に降り注ぎ、それら全てを小さな体で受け止めながら正確に空間からの情報を処理するのである。
「朋友、私を・・・未来を感じたの・・・」
ホテルに戻った結子は、シャワーを浴びて予め準備しておいた朝食を取りながら、SNSのニュースをチェックすると「◯体山 閉山祭」のニュースが目に止まった。
記事に目をやる結子。
「◯体山(標高2486メートル)の登山シーズンに終わりを告げる閉山祭が25日、◯光二荒山神社中宮祠で行われた。山頂へ続く登拝門が神職により閉じられ、奥◯光は冬支度に入った。拝殿では神職や氏子、住民ら約100人が参列して神事を執り行った後、登山道入口から山頂方向を仰ぎ見て祈りを捧げた。」
胸に懐かしい気持ちが込み上げて来た結子は、次の瞬間、参列者たちの写真に釘付けになった。あろう事か、そこには朋友がいたのである。
当時の面影を残したまま、更に清々しく威風堂々とした佇まいの朋友だけが写真の中で意志的な眼差しを此方に向け見つめていた。
世間では何の因果関係もなく、予測していないことが起こることを偶然というが、肉眼では見ることのできない事象の因果系列を含めたうえで総合的に情報を整理すると、偶然と言われる物事の中にも必然が存在することがわかるようになることを当時も朋友と会話したものだ。
朋友の意識を感じる結子は、部屋の荷物を整理すると急ぎ足で駅へ歩みを進めていた。
ドラマ撮影のために訪れた異国の街。撮影の終了後も少しの間、ひとりその街に滞在していた結子は、国際空港に向かっていた。
幸いな事に日本行きの便には空席があり、すぐに搭乗手続きを済ませ、逸る気持ちを押さえながらカップに入った甘めのストレートティーを片手に搭乗ロのロビーに並ぶ椅子へ腰をかけた。繊細な体感の持ち主である結子には肉体への負担が増す航空機での移動は辛く、機内では食事をすることもないまま、肉体の変化を感じながら硬結する人体の各部位を自らの清らかな気で適度に弛緩させ、到着の時を静かに待たなければいけない。
数時間のフライトを終えようとしたとき、窓から眺める眼下には日本の大地が姿を現していた。異国の地から帰国した結子を待ち構えていたのは、季節外れの粉雪が散らついている東京の街だった。
決して煌びやかな装いではないにも関わらず、見目麗しく、淑やかな身のこなしである結子の存在感は、汚穢に塗れた大都会とは相反しており、結子の周囲だけがまるで別世界のように清らかな空間になっている。
東京から栃◯の地へ近づくに連れて、郷愁のようなものを伝えてくる人々の想いが結子の全身を突き抜けるのであった。
車窓に流れる風景は想い出の地に近づくに連れ、豊かな自然に覆われ静けさが増してゆく。懐かしい栃◯の地、ほんの一瞬の出来事のように、足早に過ぎ去って行った時間・・・
タクシーの窓から見える街は、まるで時間が止まったかのように当時とそれほど変わることもないままだった。車は軈て懐かしい渡良瀬川近くの通りに差し掛かり、見覚えのある店先が見えて来た。
「運転手さん、止めてください」
結子はタクシードライバーに声をかけ、静かに車を降りた。
ふたりで一緒に夕月夜を眺めた、あの日、あの時と同じ場所にひとり腰を下ろした結子は、暫くの間、意識を空間に広げて刻に身を委ねた。
吹き抜ける冷たい風に手を当てながら静かに目を閉じれば、昔年の邂逅を経て、共に泣き、笑い、歩み、成長した、あの日の出来事が瞼の裏に浮かび、甦ってきた。