彼女だけがいない
アリア(姉)、ルード(姉の婚約者)、イルク(従兄)、元婚約者、アルテイシア(公爵令嬢)
の順でお送りいたします。
白い顔。
アリアは寝台に横たわる妹の頬に触れる。生きているのか不安になるほどの白さ。記憶にあるのは幼い頃の健康そうに灼けた肌。生真面目な顔をして、剣を振り回す危うげな姿だった。
あれから遠くに来てしまった。
「レティ」
小さく名を呼ぶ声は弱々しい。思ったよりも動揺していることに驚いていた。男爵家及び流派の主として厳しく育てられたアリアと違い妹は彼女から見れば甘やかされていた。アリアほど剣技は求められず、知識も魔法も全て劣っていてもそれで良しとされているのが気に入らなかったのだ。
女性らしい立ち振る舞いや美しく装うことは妹へ、強さを求められるのはアリア。アリアとて少女らしく美しく装ってみたりしたかった。しかし、彼女に与えられたのは次期当主としての責任や義務だった。
その違いに苛立ち、妹から距離を取るのはそう時間のかかることではなかった。嫌いだったわけではない。羨ましかったのだ。
それは、いずれ他家へ嫁ぐ娘であり要求されていることが違うからに過ぎないと気がついたのはもう10代も半ばくらい。外に出れば決して甘やかされることのない妹に偏っていたとはいえ愛されていた記憶を持たせたかったのだろう。
だが、そう気がついたときには妹とアリアは疎遠だった。妹と顔を合わせるのはもう数年ぶりと言うほどに。
「貴方が居ないと皆悲しむわ」
微かに上下する胸が生きている証。
アリアはその皆に自分が入っているかどうかさえわからない。
震える目蓋が、目を開いたときに何というのかさえも。
□ ■ □ ■ □ ■
婚約者が見る異形の娘。
彼女の妹であったもの。
似ている違う者。
今日、レティシアが失われることはルードだけは知っていた。
神託とは気まぐれな神の呟きでしかないと思っていた。具体的に指示を出されたことは彼に取って初めてだった。
世界が壊れないために、レティシアは失われる。それを婚約者に告げることはなかった。
神託は許しがなければ語ることはできない。
二人しかいない姉妹なりにレティシアを気にかけていた。
婚約を破棄すべきと両親にかけあっていたことも聞いている。直接話をすることはなかったけれど、それも過去のあれこれが気まずかったからだ。
時間が解決するだろうと静観していたことが悪かったのだろうか。
しかし、起こってしまったことは仕方がない。
ルードは婚約者の傷をどう癒すかだけを考えれば良い。
「神託が下りました」
「ルード?」
「アリア、残念ですが、そこにいるのはレティシアではないのです」
「よくわからないわ」
「魂が違っています。いつもと違ったでしょう?」
思い至ることがあったのか彼女が考え込む。婚約式でのレティシアは常ならばしないことばかりやらかしていた。
まず、婚約しない宣言などせずに黙っていただろう。
「ご家族を呼ばれてはいかがでしょう?」
この神が使わしたという使徒の自由を奪うためには彼女は邪魔だ。
目的が何かまでは知らないが、危険ではないとは言えない。拘束しておかない理由はなかった。
ルードは大切な婚約者が傷つく可能性は残らず消しておきたかった。
にこやかに部屋を送り出した彼が、そんな事を考えているとは彼女は知りもしなかった。
□ ■ □ ■ □ ■
家族会議、とも言えない尋問から解放された彼女は背伸びをした。
一人ずつ部屋を出て行く中、少し離れたところにいたイルクを見つけると寄ってくる。
「ごめんなさい」
彼女はイルクだけにはこっそり謝った。
他の誰にも謝罪の言葉を口にしなかった彼女が、だ。
「従兄殿、と呼ばせて貰うけど。あなたにだけは、こんなことになって本当に申しわけないと思っているの」
神からの使徒の中身が、レティシアの顔で申し訳なさそうに見上げてくる。
罪悪感が半端なかった。
「どうして、俺に?」
「繰り返しても、あなただけは、生きているレティシアのために色々してくれたから。取り上げるような形でいなくなったから」
他の者とは違ったと彼女が特別にそう言う。それに胸の奥が痛んだ。彼女の境遇を思えば、さっさと婚約解消をした方が良かった。
イルクはレティシアに婚約者について聞いたことがない。他愛もない話をして、笑ってまたねと去る。
追えば、捕まえれば良かったのだろうかと自問する。
そうしている間についに二人きりになってしまった。
未婚の男女としては問題がある状況だ。イルクも早々に立ち去るべきだろう。中身がレティシアとは全く違うとしても。
しかし、イルクはこの神の使徒に聞いてみたいことがあった。
「まだ、間に合うだろうか」
「次があれば頑張って? そのときには覚えてないと思うけど」
漠然とした問いに苦笑を含んだ返事があった。
「次?」
「そう。これは正規の歴史にはならないと思う。いくつかある試みの一つ。次にあえるかは神のみぞ知る」
「そんなこと知らせても良いのか?」
「レティシアのために頑張った人は特別扱いすることに決めているので。信用しているの」
レティシアのにこりとした笑みは子供の頃に見た以来だった。外見はそうでも中身が違うと思い知らせてくれる。
そして、中の使徒が過大な信頼を寄せていることも知ってしまう。
言葉に詰まったイルクを置いて彼女は背を向けた。もう一度、寝台に潜り込むつもりらしい。
「ああ、もう」
レティシアの姿をしたものは大層たちが悪い。
滅多にない赤面した彼の姿を見た者はいない。
結果、数日悩んだ後、仕事を辞めてしまうのだが、彼女はその結末をまだ知らない。
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元気で良く笑う少女だった。
彼の記憶に残る少女はいつだって微笑んでいた。
婚約者から拒絶されるとは一度も思ったことがなかった。漠然と好かれていると思っていたのだ。
彼を嫌う女性はほとんどいない。
嫌うものには徹底的に避けられていただけだったのだが、彼が気がつくことはなかった。
常に誰か友人がいた。
ハーレムみたいと揶揄されても何のことかさっぱりわからなかった。友人の域を超えることも二人きりになることもない。
特別な贈り物もしたことすらない。
憤慨してそう訴えれば奇妙な生き物を見るような目で見られることもあった。
「婚約者はどう言っている?」
そうよく言われた。
「友好関係に口出しはしないと」
いつものように微笑んで。
婚約者を大事にしろと言われても、既に大事にしている。
家格が釣り合わないけれど、政略上大事なことだと言われていた。そんなことを抜きにして、彼女には好意を持っていたんだから。
出来ないことが多くても。
美人とは言えなくても。
無駄な努力をしていても。
うっかりな怪我が多くても。
それでも良いと思ったくらいだから。
彼の友人たちとは仲良くしているようで、良く一緒にいる姿を見た。
そんなことに安心していた。
婚約式は滞りなく終わり、その先も一緒だと。
「私はあなたとは絶対に婚約も結婚もいたしません」
ちょっと姿が見えなかった彼女は戻って来るなりそう宣言した。
控えめな微笑みではなく、笑顔で。
意味を理解出来なかった。
結婚出来ることを喜んでいたのではかったのか?
あれは嘘だったのか。
「レティ、どうして? 君は喜んでいたじゃないか」
「あなたのような素晴らしい方の隣にはたてません。いつぞや言われましたように取り柄もない、美人でもない、役にも立たない娘には荷が重いのです」
それでも良いと言ってあげたじゃないか。
まだ、足りなかったのだろうか。
レティはアルテイシアへ視線を向ければ目を細めた。またつまらない言いがかりをつけるつもりだろうか。
嫉妬も可愛いものだとおもっていたけれど、これはちゃんと話しておかなければ。
「だから、そんなの気にしなくて良いよ。家のことを何とかしてくれればいいのだし。難しいことじゃないだろ?」
家のことは全て使用人がやることで、着飾って微笑む程度できるでしょう? ここまで譲歩しているのになにが気に入らないのかわからない。
「そのような事も出来ませんので、常々、ワタクシよりも優れていると言われておりましたお友達と婚約なされば問題ないかと思います」
「レティシア様より、ふさわしい方などいらっしゃいませんわ」
アルテイシアはそれは承知しているはずだ。ただの友人でしかない。彼女にはちゃんとした婚約者がいる。
疑われるようなことをしたことはない。
「いいえ、アルテイシア様のような素晴らしい方が、隣に立っていただけるならばワタクシも安心です。婚約者というような立場を奪ってしまい申しわけございませんでした」
「アルテイシアはそれは素晴らしい人だけど、婚約者がいるよ」
「ですが、取られたと何度も言われておりましたし、アルテイシア様のほうが似合っているのにと他の方もいってらっしゃいました」
レティシアは悲しげに顔を伏せた。
そんな話冗談じゃないか。
慰めの言葉よりも先に、それは公開された。
「こちらに、証拠が」
世界が、反転したようだった。
愉快そうに、レティシアは笑う。
隣の男に甘えるように、何事かを囁く。彼が顔をしかめていたから良くないことだったんだろう。
そこは、自分がいる場所だった。
全ての問題を片付ければ、戻れるはずの場所。
「ねぇ。これでも、レティのことは大事に思っていたんだよ。傷つけて良いと誰が言ったの?」
全部、謝らせたら戻ってくれるよね?
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なぜ。
彼女の心にはその言葉しか残っていなかった。
ただの無力な少女は、しかし、無力ではなかった。
彼女に公爵家という家があったように、流派の当主の娘という立場があった。害されることを許されないという立場が。
彼女たちの知り得なかったこと。
貴族社会からでは見えないこと。
ただ、不思議だったのはなぜ彼女はそのカードを切らなかったのだろう。
当主に言えば良いと。そうでなくても彼女の婚約者でも良かったのだ。
そして、思い当たる。
現状に至るのがイヤだったのかもしれないと。軍がまとまっていられない状況は国として好ましくない。
その状況を作り出したのが己であるということ。
「ああ、本当に、馬鹿馬鹿しい」
幼い初恋を踏みにじられた位で。
それも約束されたものですらなかったのに。
彼女は、何もしていなかったのに。
それでもあきらめ切れなかったのだ。
彼女が逃げ出せないことも分かっていた。
好きではない相手と添うことも。
そして、彼が全く気がついていないことにも。
誰も幸せにはならなかった。
謝罪など今更意味がない。家の当主を介さなければ会う事さえ難しい。その上、家格が下である以上、頭を下げるわけにはいかない。
出来ることなどなにもない。
確かに修道院でもさっさと行っていれば良かった。
贖罪の日々は心が安らかだろう。己が正しくなったと思い込めて。
「あの子の名前を知りたいんです」
「え、教えてあげない」
「なぜです」
「本人から聞く楽しみがなくなっちゃう」
「聞けるんですか?」
「聞けるといいねぇ」
彼方でそんな会話があったとかなかったとか。