第94話 たとえ記憶を失っても
待合室に残された私達は、一人ひとり順番に「あの方」と契約を結ぶため、自分の番が来るまで沈黙したまま待っていた。
隣の彼女も先程までの覇気を失い、呆然と手元の白い紙を眺めている。
それも仕方のないことだと思う。
唐突過ぎる宣告に、誰も気持ちの整理が追い付いていないのだろう。
かくいう私も、全く不安がないと言えば嘘になるが、
それでも――私にはどこか、安心感があった。
《ああ、天界では『あの人』がプロデュースしてるお笑い番組があるんだけどさ、すっごい面白いんだよ》
《あちらの世界では皆さん全員『あの方』がプロデュースしたお笑い番組を欠かさず見ている、と》
《というか、番組のほとんどが『あの人』プロデュースの番組なんだよ。ほぼお笑いだけど》
《で、皆さんお笑い番組を見ている、と》
《当たり前だろ。俺達死神にとっても、お笑い番組は無くてはならない存在なんだよ》
以前ミタが言っていた「あの方」の像を思い浮かべながら、私は心のどこかで安堵していた。
きっと、私達が「神様」と崇める存在は、温かくて優しくて、気さくで少し変わった、皆のお父さん的な存在なのだろう――
そんな想像をしていたとき、自分の番が呼ばれた私は、契約を結ぶため「あの方」のいる場所へと向かった。
☆★☆
扉を開けると、そこには白を基調とした大きな空間が広がっていた。
床には大理石が敷き詰められ、白い壁には、流線的な彫刻模様の所々に金メッキが施されている。
いくつも並ぶ大きな窓には、金糸の刺繍が煌びやかなカーテンが掛けられ、窓の外から陽光が柱のように差し込んでいた。
天井には宝石の散りばめられたシャンデリアがぶら下がり、奥にある数段の階段の上には、黄金に輝く玉座があった。
そしてそこに座っていたのは、大きな白い布を纏った金髪の人物――。
「…………!」
その姿に、見覚えがあった。
《モウ キミニ ヨウハ ナイ》
脳裏にノイズ交じりの映像が過ぎった。
背中がざわつくのを感じた。
何故なら、その人物は、
「……お久しぶりですね」
紛れもなく、彼女の記憶の中の――。
私は言葉が出せなかった。
その場で立ち尽くす私ににこりと微笑み掛けながら、「あの方」は少しずつ私の元へと歩を進めた。
玉座から立ち上がり、階段を一歩ずつ降りる彼女のすぐ傍に、黒髪の死神が付き添っているのが見えた。
「…………!」
心臓の鼓動が早まっていく。
後ずさりしようとする足は、膝が震えて思うように力が入らなかった。
《『神』なんて存在しなかった》
この時点でようやく、私は前世の自分が言ったことの意味が分かったような気がした。
その言葉の、本当の意味。
彼女が一体誰に殺され、死んでいったのか。
あの金髪の人物の正体は――
「あら、反応に今一つパッションが感じられませんね? ふむふむ。それとも、貴方の想像を上回った私の印象に衝撃を受けている最中なのでしょうか」
先程までは不気味な程に明るい微笑みを浮かべていたかと思えば、はて、と小首を傾げた彼女は、早口で次から次へと言葉を並べていった。
それからというもの、震えたままの私に構うことなく、彼女は言葉を続ける。
「まあ何はともあれ、welcome to 天界! どうです、意外とこの場所も居心地が良いでしょう?」
「…………」
「まず大切なのは笑顔! そう、笑顔だと思いましてね。私なりに工夫を凝らしてみたんですよ。番組をプロデュースしてみたり……」
「……総督」
私の目の前まで来た彼女を呼び止めたのは、その後ろにいた黒髪の死神だった。
片方だけ長く伸びた前髪は右目を隠し、露わになっている左目はミタと同じ漆黒の色をしていた。
感情の籠っていない声で「あの方」を呼び止めた彼女は、目線だけを私の方にチラリとやり、「完全にドン引かれている」ことを合図する。
無愛想な死神の冷たい視線を見て彼女は悟ったのか、私の方を見て「ごめんなさいね」と謝った。
「ついうっかり……テンションが上がってしまったみたいで」
彼女は照れくさそうにはにかんでから続けた。
「ずっと……待っていましたよ。貴方のことを」
目の前の彼女はそう言って私の手を取り、ぽろぽろと涙をこぼした。
一瞬、思わず全身を硬直させた私だったが――
冷たくなっていた私の両手を包み込むその手は、何故だかとても温かく、
「ようやくお会いできて、嬉しいです」
彼女はそう言って微笑み、透き通った水晶のような碧い瞳から、光の粒が零れ落ちていった。
理解が追い付かなかった。
だって、彼女が総督――「あの方」だというのなら。
《モウ キミニ ヨウハ ナイ》
あれは一体、何なのだろう。
前世の私を殺し、あそこまで追い詰めたのは、一体――。
それならどうして、会えて嬉しい、なんて……。
(どうして……)
私が口を開こうとしたその瞬間――全身を柔らかいものが包み込んだ。
金糸のような髪がふわりと揺れる。
その細い髪の一本一本が、柔らかく宙に浮かぶのが見えた。
彼女は私を抱きしめながら、私の背後から小さな声で尋ねた。
「私のこと……覚えていますか」
その声は落ち着いていて、慈愛に満ち溢れているように感じた。
相変わらず無愛想な死神の彼女が、ジッとこちらを見つめていた。
表情は変わらなくても、彼女の瞳が総督のことを優しく見守っているのが分かった。
(どうして……)
早まっていた呼吸が落ち着いていく。
気がつけば膝の震えは止まっていた。
私を抱きしめる腕から、彼女の体温が伝わってくる。
その温もりがじんわりと、冷え切っていた心に広がっていった。
私のすぐ後ろから、彼女のゆったりとした呼吸が聞こえた。
この人はどうして、こんなにも優しいのだろう。
この人の言葉は、どうしてこんなにも温かいのだろう。
それなら、どうして――
「どうして……前世の私を殺したんですか」
気がつけば、思わず口から言葉がこぼれていた。
その瞬間、自分を抱きしめていた彼女の呼吸が止まる。
「どうして……そんなことを」
その声は震えていた。
先程まで無表情を貫いていた目の前の死神の彼女も、私を見て驚いたように眼を見開いている。
一瞬、心の中で焦りが募った。
こんなことを聞かなければ。
もしかしたら、あのまま笑って過ごせたのかもしれない。
死神となる運命を背負った私は――「あの方」のためにこの身を捧げる使命を背負う私は、その方が幸せでいられたのかもしれない。
――でも。
「前世の私が言っていたんです。自分は裏切られて殺されたのだと……あなたに」
「…………」
《何度選択を間違えたって、何度それを繰り返したって、私達は少しずつ前に進めるはずよ》
《だからきっと――その先に「正しい未来」があるのだと、私は信じているわ》
《次は私が、あなたの代わりに、あなたの信じることを証明してみせる》
誰かを傷つけずに生きていくことができないのなら。
誰かに傷つけられずに生きていくことができないのなら。
《俺達死神にとっても、お笑い番組は無くてはならない存在なんだよ》
その傷を笑顔で塗りつぶすよりも、
その傷と向き合って、前に進むしかないと思うから。
「…………」
彼女は私から腕を離すと、うつむいたまま黙っていた。
黒髪の死神も目を伏せたまま、口を閉ざしている。
私は緊張で拳を強く握りしめた。
ゴクリ、と唾が喉を通る。
もしかしたら、このまま殺されてしまうのではないか――心中を一抹の不安が過ぎった後、その不安を払拭したのは「あの方」の次の言葉だった。
「……そうですか」
彼女は震える声でそう言った。
顔を上げこちらを見つめる彼女は、今にも崩れ落ちてしまいそうな微笑みを浮かべ――涙を流していた。
透き通った海のように碧い瞳が、じわじわと滲んでいく。
その色が少しずつ暗くなっていくのが見えた瞬間――その姿に、見覚えがあるような気がした。
見……覚え……?
絵画の中にいた金髪の人物は、口元しか――……
ズキリ、と頭の奥が痛む。
いつしか、彼女に出会った。
心を閉ざした彼女の銀髪は血に染まり、
ガラスのように透き通った碧い瞳は黒く濁っていた。
誰かの記憶のような情報が流れ込んでくる。
まるで全てに絶望したかのようなその姿がかつての自分のようで、
気がつけば――私は彼女を抱きしめていた。
《あなたがどんなに闇を抱えていたとしても、私はあなたの味方でいたい》
《だって……暗闇の中で一人きりで苦しむのは、とても辛いことだと思うから》
痛みの中で、その言葉が、その感情が自分の中に沁み込んでいくようだった。
《奏の理想は、私の理想でもあるんですから》
《私達二人で支え合えば、何だってできるはずです。きっと》
この声。
まさか、目の前の彼女は――。
《…………まあ一応、ずっと前の『あの人』が作った由緒正しい命名法に則ってるらしいから》
《『ずっと前の』って何だろ。『ずっと前に』じゃないんだ》
《この服を考えたのはずっと前の『あの人』らしいからね。いや本当、ああいう人ってセンスがないんだね》
《――ん? やっぱり、『ずっと前の『あの人』』ってどういうことだろう》
以前ミタが言っていた言葉が蘇る。
もし、「あの方」が――下界の人間が神様と崇める存在が、本当は――
《天界でもさ、皆象徴が必要なんだよ。だからそういう存在がある――下界では『神』とか呼ぶんだろ、そういうの》
天界では、代替わりが起こり得るものなのだとしたら……
だとすれば、目の前の彼女は――
「あ……あの、もしかして……」
「……契約を」
「…………」
彼女は真っ直ぐにこちらを見つめていた。
穏やかに微笑むその表情の中に――先程までの輝きは見られなかった。
「あなたは……」
「右手を、出してください」
「…………」
全てを包み込むようなその笑顔は、私に次の言葉を言うことを許さなかった。
微笑む彼女の瞳から溢れた最後の一滴が、頬を伝いポタリと床に落ちる。
「名を、名乗ってください」
私はそれ以上、何も言うことができなかった。
「…………」
彼女の涙を見て、彼女の声を聞いて、理解したのだ。
私が何かを言ったところで――もはや、彼女に届くことはないのだ、と。
「……か……蒲田未玖……です」
「そう……蒲田、未玖……間違いないのですね?」
「はい……間違いありません」
「……そうですか」
「あの方」は小さく呟いてうつむいた。
黒髪の死神は顔色を変えぬまま、視線だけを心配そうに彼女の方に送っていた。
広い空間の中に、静かな沈黙が流れる。
いくつも並ぶ大きな窓の外からは薄っすらと金色の光が差し込み、大理石の床を淡く照らしていた。
それは、今にも消えてしまいそうな儚い光で。
「あの方」が私の頭上へと手を伸ばす。
これが契約であり、私はこの先、彼女のためにこの身を捧げるのだ。
生前の全てを忘れ――「死神」として。
一瞬、身体がこわばった。
《まあ、そんなに落ち込むな。お前らに生前何があったかは知らねぇけどな、》
《そんなモンはすぐ忘れちまうんだよ……俺みたいにな》
私も忘れてしまうのだ。
私が、蒲田未玖という人間であったことを。
それでも。
《俺も、君と同じだったんだ! 俺も生前、君と同じように死神の力を手に入れた!》
《俺達はきっと……また、繰り返す》
もし、私が過去の過ちを全て忘れてしまったとしても。
《でも、誰かが止めなくてはいけないんだ》
《君がこの連鎖を断ち切ってくれると、信じている》
何度同じ過ちを繰り返したとしても、
私達には、進むしか道がないのだ。
《次は私が、あなたの代わりに、あなたの信じることを証明してみせる》
それが、前世の私との約束だから。
頭上から、湿ったものがこぼれ落ちた。
私の頬にこぼれ落ちたそれは、幾ばくかの熱を帯び――
「 」
その瞬間、金色に輝く光が私を包み込んだかと思えば、私の意識は白い光の中へと消えていった。
そのときの彼女の表情も、その言葉の意味も――私が理解したのはずっと先のことだった。
☆★☆
予定していた全ての儀式を終了した総督とその秘書は、誰もいなくなった宮殿の広間に佇んでいた。
少しずつ沈んでいく陽の光が、大理石の床を黄金に染めていく。
夕焼けで赤く染まった服を纏いながら、総督は虚ろな瞳で外の景色を眺めていた。
いつもはやかましい総督が、今日は――否、あのときからすっかり大人しくなってしまったのを見て、秘書の胸中は複雑な思いだった。
「総督……」
秘書は黙り込んだままの彼女に声を掛ける。
一方の総督は、いつもの彼女らしからぬ神妙な面持ちで、宮殿の外の景色を眺めていた。
「彼女……良かったのですか」
「…………」
一瞬、総督の碧い瞳が揺れ動いた。
彼女は唇を震わせながら、今にも消え入りそうな笑顔を浮かべて言った。
「大切な人を失うということは、とても辛いこと……ですから」
夕刻の淡い光に照らされた彼女の笑顔が、秘書の目に儚く映った。
彼女が今何を考えているのか推し量れない訳ではないからこそ、秘書は自分の胸が強く痛むのを感じた。
黒髪の死神は表情を変えぬまま、チラリと自分の胸元を見やり、胸のあたりをギュッと掴んだ。
これが悲しみなのだと、彼女は改めて再認識する。
かつて感情の無かった自分に芽生えた想いを、大切に、愛でるようにしながら。
秘書である彼女は、喪失感に暮れる総督を眺めながら、抑揚のない声で「そうですか」と呟いた。
一人悲しみに暮れる彼女のことを、ギュッとこの両手で抱きしめてあげたいと――そんなささやかな想いを秘めながら。
☆★☆
――地下牢にて。
薄暗い階段を下りながら、総督は目的の場所へと向かっていた。
不安定になる足場を支えるため、右手でレンガの壁を伝って下っていく。
壁一面に敷き詰められた灰色のレンガは、所々が黒く薄汚れており、彼女の手にざらついた表面の感触が伝わった。
壁に掛けられた僅かばかりのランプは今にも消えかかっており、薄闇の広がる階段を下りる中で、彼女は何度か転びそうになった。
(もう少し……灯りを増やすべきでしょうね)
そんなことを考えながら何とか最下層まで辿り着いた彼女は、一番奥にある部屋へと向かっていく。
罪人達の部屋の出口を塞ぐ鉄格子は古く錆び付いているようだった。
酸化した鉄の臭いが、周囲に漂う湿ったカビの臭いと混ざり、彼女は思わず顔をしかめた。
薄暗い牢獄の中を隙間風が通り抜けていき、彼女の肌を冷気が包み込んでいく。
宮殿の地下に位置する静かな牢獄の中に、コツ、コツと彼女の足音が響く。
罪人達の窪んだ瞳に、自室の前を通り過ぎていく彼女の姿が映った。
地下牢の一番奥の部屋へと辿り着いた彼女は、中に囚われた目的の人物の姿を確認すると、申し訳なさそうに微笑んだ。
一方の彼は、目前の人物の到来を確認するや否や、驚き慌てて立ち上がった。
「あ……あなたは……!」
「貴方も大変でしたね」
「そんな……俺は……」
彼は再び座り込み、うつむいた。
彼は力の抜けきった声で続ける。
「すみません……こんなことになってしまって」
肩を落としうな垂れる彼に、総督は温かく声を掛けた。
「そんなこと言わないでください。貴方は十分、使命を果たしてくださったのですから」
彼女はどこか済まなそうに彼を励ます。
その姿はまるで、彼が囚われているのは命令を与えた自分の責任だ、と言っているようだった。
「だから、顔を上げてください」
その言葉に、彼はゆっくりと顔を上げる。
薄暗い牢獄の鉄格子の向こう側に、穏やかに微笑む彼女の笑顔があった。
「私は総督。天界の象徴たる私が天界の掟を破ることはできませんが……」
「…………」
「貴方は、立派に仕事をこなしてくれた。その言葉だけは、どうか贈らせてください」
その瞬間、薄暗かった牢獄が眩い光に包まれた。
その言葉だけで、彼は自分が救われたような気がした。
天界の牢獄に入れられる罪人達は皆、自らの罪の記憶を消される。
それがどのような意図をもってなされているのかは分からないが――己の罪の記憶を消され“リセット”された罪人達は、自らが罪人であるという称号を背負いながら、牢獄に閉じ込められるのだ。
他の牢より一際頑丈に作られた鉄格子の扉。
彼は扉に近づき、彼女は彼の頭上に手をかざす。
天界の大罪を犯した彼は、総督の手によって自らの罪の記憶を消され――“リセット”されるのだ。
「俺は大切な人を殺してしまったんです」
これから罪の記憶を消されるという大罪人は――自らの罪を懺悔し、うつむきながら大粒の涙を零した。
「俺達は、自分の手で……大切な人を殺してしまった」
「…………」
「アイツも――チサも、そうだった。そして、未玖も」
コンクリートの固い地面の上に、彼の涙がこぼれ落ちていく。
透明な雫は地面に吸い込まれ、何もなかったかのように消えていった。
「俺達は……繰り返すしかないんでしょうか」
うつむきながら、彼は両手の拳を震わせて言った。
「どうすれば、俺達は……終わらせられるんでしょうか」
それは、役割を果たせなかった自分自身を嘆く、彼の声だった。
それは、自分達の運命を嘆く、彼の声だった。
そのとき――うつむく彼の頭に、柔らかい感触が伝わった。
頭に乗せられたその手の温もりが、彼の心を優しく包み込んでいく。
「前にもお伝えした通り……完璧な者など、どこにもいないのです。この世界のどこにも」
《完璧なものなんて、ありませんよ。この世界のどこにもね。……あるのは、いつまでも不完全な私達だけです》
《ですから、貴方がそんなに悩む必要なんてないんですよ。貴方には貴方の思いがある。それだけで充分なんです》
彼の脳裏に、以前彼女に言われた台詞が思い浮かんだ。
蒲田未玖という人間の少女に力を与えたことで、彼女を苦しめてしまった。
正しいと思ってした選択が間違っていたのではないかと――罪悪感に苛まれていた彼に、総督はこう言ったのだ。
「私達は……いつだって、不完全なままなんですよ」
彼はうつむいていた顔を上げた。
どこか遠くを見つめる彼女の碧い瞳は、次第にじわじわと黒く滲んでいった。
いつも明るい笑顔を振りまいていた彼女の初めて見せる表情に、彼は驚きのあまり、思わず声を失った。
しばらくして、彼女は呆然と自分を見上げる彼に視線を移してから、「でも、」と付け加えてにこりと笑った。
「だからこそ私達は、少しずつ前に進めるんですよ」
「…………」
「過ちを繰り返しながら、少しずつ、少しずつ――少しでも『完璧』に近づけるように」
そう言って、彼女は再び微笑んだ。
その笑顔が今までの彼女のものであることに安堵する一方、
心の奥で、彼は先程の彼女の憂い顔が気にならなかった訳ではなかった。
薄暗い牢獄を、隙間風が流れていく。
これから記憶を消されようとする大罪人は、これから記憶を消そうとする「あの方」のことを見上げながら、最期の言葉を告げた。
「今、たとえ俺の記憶が消えるとしても……いつかまた思い出してみせますよ」
そして、彼は決意に満ちた表情で続ける。
「その頃にはきっと、俺はあなたの憂いも晴らしてみせますから」
光のない牢獄の中でも、その漆黒の瞳は光に満ち溢れていた。
彼の言葉に彼女は一瞬驚いたが、やがて穏やかに微笑んで言った。
「それは頼もしいですね」
そして再び、いつも通りの日々が訪れる。
天界も、下界も。
記憶を失った二人は、定められた運命へと向かって、再び歩き出す。
その運命に、抗いながら。
宮殿の外には、澄みきった夜の空が広がっていた。
一面に黒が広がる空には雲一つなく、散りばめられたいくつもの星の中に、仄白い満月が浮かんでいた。
天界の空に優しく夜の月が輝き、冷たい朔の風が吹き抜けていった。
これにて、前編完結となります。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
後編はバトル×ファンタジー色が強くなりますが、ご興味持っていただけた方は是非、タイトル上のリンクよりご覧くださいませ。
感想、評価が励みになります。優月を励ましてやるのも満更悪くはないな、と少しでも思われたそこのあなた! 是非、何卒、励ましの一言をこの作者めにくださいませ……!(嘆願)
改めまして、ここまでお付き合いくださりありがとうございました。