第90話 懺悔
あれだけ激しく降っていた雨は止み、空一帯を覆っていた黒い雲は、いつの間にか消えていた。
澄みきった空には月が浮かび、月の光が暗い部屋の中に差し込んでいる。
静かな部屋の中で、死神の俺と人間の少女の二人きり。
俺は人間らしからぬエネルギーを放つ少女の両手足を抑えたまま、床に横たわる彼女の顔をジッと見つめていた。
何やら錯乱していた様子の彼女は、ふと何を思ったのか――その瞳から一筋の涙を零したかと思えば、そのまま動かなくなってしまった。
「み……未玖……?」
両目を開けたまま、彼女はピクリともしない。
このまま彼女の頬が青白く冷たくなっていってしまったら――嫌な予感が俺の思考を掠めていく。
そんなときだった。
彼女の瞼が、ゆっくりと瞬きをした。
彼女は乾いた瞳を潤ませてから、柔らかく微笑んだ。
「ミタ……久しぶりだね」
彼女の唇が微かに震え、その隙間から小さな声がこぼれ出す。
その穏やかな顔つきを見た瞬間、俺にはそれが今までの少女のものであることが分かった。
「み……未玖……」
思わず、視界が潤んでいた。
少女は穏やかにこくり、と頷いてから、「迷惑かけてごめんね」と苦笑を浮かべていた。
《私もお前も、大切な人間を失った》
《……でも、お前の憑いた人間は、まだ間に合うかもしれない》
俺は、間に合ったのだろうか。
チサや俺のように、君が、大切な人を自分の手で殺めてしまわぬように。
「良かった……」
俺は、間に合ったのだろうか。
俺達が、大切な人を失う連鎖を繰り返してしまわぬように。
「君が……心配で……俺、間に合って……本当に……っ」
「ミタ……」
カーペットの上に横たわる彼女は、申し訳なさそうに「ありがとう」と微笑んだ。
何とも情けないことに、俺は込み上げてくる涙を堪えることができないまま、ぼろぼろと溢れ出す熱い涙が、彼女の頬の上にポタリポタリと落ちていく。
思わず上ずってしまいそうになる声を抑えながら、俺は何度も繰り返し「良かった」と呟いていた。
雨の止んだ夜空から月の光が差し込み、二人を照らす。
冷んやりとした夜の空気が、二人の肌を撫でていく。
薄明りの照らす静かな部屋の中で、涙の混じった俺の安堵の声だけが響いていた。
☆★☆
あれから、俺は彼女に全てを話した。
自分達が悲劇を繰り返していること、それから――自分が彼女につき続けてきた嘘も。
「そっか……私、ミタの力を無理やり奪った訳じゃないんだ……」
俺は机の前のいつもの椅子に座りながら、ベッドの上に腰掛ける彼女に視線を移した。
薄暗い部屋の中で、白い光が彼女の頬を照らしていた。
彼女はしばらくの間、真剣な表情を浮かべて黙り込んでいた。
俺はゴクリ、と唾を飲み込む。
《……私、こんな力使わない……使えないよ!》
《ねぇ、返せないの? この力……》
俺は君のことを助けた。
でもそのせいで、君はずっと苦しんできた。
《君のせいで仕事が台無しだ》
それなのに、俺は君にずっと嘘をついてきた。
《ごめんね、私がミタの力奪ったりして、こんなに迷惑掛けて》
俺は自分の罪悪感から逃れるために、君に罪をなすり付けた。
君が俺の力を奪ったせいだ、と。
全て君のせいなのだ、と。
《拓也はね……死んだんだよ》
《ミタは居なかったから知らないよね。……私、また力使ったんだ》
そのせいで、俺はどれだけ君を傷つけてしまったのだろう。
《ミタには、ミタのやらなきゃいけない仕事があるんだもんね》
《私がミタの力、勝手に奪ったんだから……勝手に、巻き込まれたんだから……。私のせいだから》
結局俺は、ずっと嘘を告白することもできぬまま、逃げてきたんだ。
《ミタ……良かった……もう目を覚まさないんじゃないかと思って》
《それでも……俺は行かなくちゃいけないんだ》
《どうして、ミタ……っ!》
ここまでずっと、君から逃げてきた。
君に本当のことを打ち明けるのが怖くて、逃げてきた。
自分の罪をなすり付けた君に断罪されるのが怖くて、逃げてきたんだ。
「ミタ……」
彼女は顔を上げて俺を見つめた。
俺は汗ばみ震える己の手を握りしめながら、次の言葉を待った。
すると、彼女はそれまで張り詰めていた表情を緩め――
「ありがとう。やっと本当のこと、言ってくれた」
ぼろぼろと涙をこぼしながら、笑って言った。
「私はもう、『人間A』じゃないんだね」
彼女の瞳から零れ落ちた涙は頬を伝い、ポタリポタリと彼女の膝の上に落ちていった。
月明かりに照らされた雫はキラリと輝き、制服のスカートの上に透明な跡を作っていく。
「お……怒って……ないのか……?」
「……ミタ?」
「君に力を与えて、罪を背負わせて……挙句の果てには、ずっと嘘までついてきた俺のこと……」
俺は君に取り返しのつかないことをしてしまったのに。
君はどうして……
どうして、俺を責めないんだ……?
「怒らないよ、ミタ」
彼女はそう言って微笑んだ。
その優しい声に、俺は張り詰めていた緊張の糸がほぐれていくようだった。
「だって、私達は……繰り返しているんでしょ?」
だからミタのせいじゃないよ、と言って、彼女は切なげに笑った。
涙の混じった彼女の声が、冷え固まっていた俺の心を温め、とかしていく。
「ミタはあのとき、私のこと助けてくれたんだよね」
白い光が彼女の横顔を照らす。
窓の外から差し込んだ月光は、まるで天から差し込む光の柱のようで、
「助けてくれてありがとう、ミタ」
そう言って微笑んだ彼女の笑顔が、淡い光に照らされ輝いて見えた。
救われた気がした。
思わず溢れ出しそうになる涙をグッと堪え、喉の奥まで込み上げてきていた熱いものを押し殺しながら、俺は小さく首を横に振るので精一杯だった。
それからしばらく、沈黙が流れた。
彼女の腕に付けられた腕時計の秒針の音だけが、チク、チクと部屋の中に響く。
ふと、部屋の窓に視線をやった。
月の照らす夜空は群青色に輝き、薄暗い部屋に差し込んだ淡い光が黒い影を作っている。
しかし、やがて月には雲がかかり、差し込んでいた光は消え、部屋の中は薄暗い闇に覆われていった。
「あのね……ミタ」
長い沈黙を破ったのは、未玖の方だった。
俺は彼女に視線を戻し、言葉の続きを促した。
彼女はうつむいていた顔を上げた。
彼女は濃い飴色の瞳を潤ませながら、真っすぐに俺のことを見ていた。
その表情は真剣そのもので、
次の瞬間、彼女が言い放った言葉に――俺は耳を疑った。
「私のことを、転送して欲しいの」