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wink killer  作者: 優月 朔風
第8章 少女と「少女」
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第88話 欲しかったもの

  ♪♪


 初めに、私は光の中にいた。


 生前自らを殺めた罪なる過去を持つ私は、天界の掟により「あの方」と契約を結ぶことになった。

 「あの方」の庇護下で様々な能力や特権が与えられる代わりに、「あの方」にその身を捧げること――それが契約の内容だった。


 そして、同じようにして契約を結んだ仲間は皆、等しく、契約以前の記憶を失っていた。



 元より明るい性格だった私には沢山の友人ができた。

 保有するエネルギー量が他者と比べて多かったせいか、養成学校では様々な分野で好成績を修めた。


 誰かに頼られることが、好きだった。

 誰かの道標(みちしるべ)になることが、自分の目標だった。


 そんなある日のことだった。

 私の中で、自らの罪の記憶が蘇った。


 「私は……裏切られて、殺された……」


 思い出してしまったのだ。

 生前の私は、信じていた者達に裏切られ、自らを死に追い込んだのだと。

 その輩共に、殺されたのだと。



 それから、私は闇の中にいた。


 私は心を閉ざし、友人達は次第に私から遠ざかっていった。

 それでいい、と思った。

 再び失うくらいなら、そんな繋がりは要らなかった。


 私は、世界に絶望した。

 けれど、そんな私を暗闇から救い出してくれた存在があった。


 「あの方」は塞ぎ込んでいた私に優しく微笑みかけ、たった一言、私に言ったのだ。



 『キミノ ミカタダカラ』



 その言葉を聞いた瞬間、涙が溢れて止まらなかった。


 それは暗闇の中に差し込んだ一筋の光。

 その手が、その言葉が、まるで救世主のように感じられて、

 そのときの私は、子供のように泣きじゃくった。


 その大きな手が優しく私の頭を撫でる度に、肺の奥に溜まっていた黒いものが消えていった。

 その包み込むような柔らかな微笑みを見る度に、胸の中に温かいものが広がっていった。


 絶望の底にいた私。

 そんな私でも、たった一人手を差し伸べてくれる存在があるだけで、また前を向けるのだと。

 ――そう、気がついた。


 《キミノ ミカタダカラ》

 その言葉を、優しかった手の感触を思い出す度に、私の頬は淡く色づいた。


 「あの方」と結んだ契約。

 私は「あの方」の力になれるのならば、いくらでもこの身を捧げようと思えた。



 それから、図書館に通う日々が続いた。

 人々の喧騒から離れ、ただ文字と心を通わせる時間は、荒んでいた自分の心を癒していった。


 様々な本と出会った。

 ふと目を閉じて思い返せば、出会った文字達が、そのときの感情と混ざりあって、鮮明に脳裏に浮かんでいく。


 そういえば、どこかで読んだ本にこんなことが書いてあった。

 「魂の有するエネルギーは、人の思念が詰まった情報データか或いは人の思念そのものなのではないか」と。


 どこからそんな発想が出てくるのかと思っていたけれど、

 もし自分のこの「膨大な記憶力」が、自分の「膨大なエネルギー」と結びついているものだとしたら、あり得るのだろうか。


 分からないことだらけだ。

 そもそも、この世界とは、何なのか。


 きっとまだ、私の知らないことが山のようにあるのだ。


 《キミノ ミカタダカラ》


 「あの方」の言葉が自分の背中を押す。

 その瞬間、気がついた気がした。


 『奏は何でもできて完璧だね』


 周囲の声は私にそう言うけれど、

 きっと完璧なものはどこにもなくて、私達は、まだまだ知らないことが沢山ある。


 《私は……裏切られて、殺された……》


 誰かを傷つけ、時には自分を傷つけ、

 私達は皆、罪を背負って生きている。

 きっと完璧なものはどこにもなくて、私達は、何度も間違いながら、前に進むしかないのだと。


 絶望に嘆いているだけでは、何も変わらないのだと。

 完璧でない私達は、まだまだ変わる余地があるのだと。

 ――そう、気がついた気がした。



 いつしか、彼女に出会った。

 心を閉ざした彼女の銀髪は血に染まり、ガラスのように透き通った碧い瞳は黒く濁っていた。


 まるで全てに絶望したかのようなその姿がかつての自分のようで、

 気がつけば――私は彼女を抱きしめていた。


 「あなたがどんなに闇を抱えていたとしても、私はあなたの味方でいたい」

 「だって……暗闇の中で一人きりで苦しむのは、とても辛いことだと思うから」


 彼女の瞳が、失った光を取り戻していく。

 そのとき彼女は大粒の涙を流しながら、ただ一言「ありがとう」と言って私に微笑んだ。


 私は信じていた。

 暗闇の中にいても、たった一人手を差し伸べてくれる存在があるだけで、また前を向けるのだと。

 何度も傷つけ、傷つきながら、また前を向いて、進んでいくしかないのだと。


 「だからきっと――その先に『正しい未来』があるのだと、私は信じているわ」


 私は信じていた。

 そうして進んだ先に、理想の世界があるのだと。



 「教えていただけて光栄です、奏先生」

 「ふふ、先生、はやめてよ。恥ずかしいじゃない」

 「いいじゃないですか、奏は博識なんですから」


 「あの方」に託された任務の傍ら、時に他愛無い話をしながら、互いにどこか似たようなものを感じていた私達は絆を深めていった。


 私達に共通していたこと。

 それは、他者と比較して強いエネルギーを有していること。

 そして、それに伴ってか伴わずか、一度自分を殺めた、過去の罪の記憶を有していること。


 「奏の理想は、私の理想でもあるんですから」

 「私達二人で支え合えば、何だってできるはずです。きっと」


 私達は互いの名を「あの方」から与えられた名前ではなく、かつての名前で呼ぶようになった。

 私達は理想を語り合い、任務で離ればなれになっていた間も、私達は互いを想っていた。


 一度絶望の底に落とされた私達は、

 その暗闇に差し込んだ一筋の光によって、また前を向くことができた。


 この先、どんなことがあっても、二人でいれば怖くない。

 私達はもう、一人ではないのだから――


 そう、思っていた。



 それは、「あの方」から託された任務だった。

 下界へ向かう――それは私達天界の者にとって初めての試みだった。


 数人の部下を引き連れて、私は下界へと向かった。

 しかし、実際に辿り着いたのは――私たった一人だった。


 「ビル……キイ……!」

 「皆、どうして……!」


 何が起こっているのか、分からなかった。

 だって、「あの方」はそんなこと、一言も……。


 「どうして……こんなことに……」


 まさか、こうなることを分かっていたのではないか――脳裏に嫌な思考が過ぎり、私は必死に頭を左右に振った。


 そのとき、嘆く私の脳裏に、突然、セピア色の映像が浮かんだ。

 それは、他者に命を奪われかけているある人間の映像。

 おそらく、下界に来る前に「あの方」から渡された力の影響だろう――私はそう思い、映像を頼りにその人間の元へと向かった。


 私は、その人間を助けた。

 そしてその人間は、私の赤く輝く瞳を見てこう言ったのだ。


 ――「死神」と。


 共に下界に向かった仲間を救えなかった私は、もはや人間ではないと言われているような気がして、

 私はただ、自分の無力さに打ちひしがれることしかできなかった。


 そして、その言葉を聞いて初めて、私は――

 私達は、自らが下界の人間にとって「死神」と呼ばれる存在であることを知った。



 天界に戻った私は、「あの方」の元へ向かった。

 「あの方」はいつもの優しい微笑みで私を迎えた。

 私を迎えるその口調は、まるで、私しか戻ってこないことを知っていたかのようで。


 「下界へ向かうには相当のリスクがあること……ご存知だったのですね」

 「どうして、こんなこと……私の部下は……!」


 私は拳を震わせた。

 熱い涙がポタリ、ポタリと地面に零れ落ちていく。


 しかし、「あの方」から返って来たのは、残酷な言葉だった。


 今までずっと――私は、ただ「あの方」の都合の良いように利用されていただけだったのだ。

 それが分かった瞬間、私はその場で崩れ落ちた。


 「何でですか……!」

 「私は……あなたのために……!」

 「どうして、こんなこと……!」


 全て嘘だったというのだろうか。

 あの言葉も、あの微笑みも。

 暗闇の中に一人で彷徨っていた私に、手を差し伸べてくれたのも。


 《キミノ ミカタダカラ》


 全て――私を利用するための、嘘だったのだろうか。


 「どうして……っ! 私は……あなたをずっと、信じていたのに……!」


 私はあなたを信じ、

 あなたのために、この身を捧げると誓ってきたのに――


 涙混じりの声で訴える私を見ながら、「あの方」は腰を掛けたまま、動こうとはしなかった。

 「あの方」は依然として微笑みを浮かべたまま、まるで嘲笑うように私を見下ろしていた。


 しかし、ゆっくりと放たれた次の一言に、私は耳を疑った。



 『キミノ トモダチニ タノマレタカラ』



 一瞬、何を言っているのか分からなかった。

 しかし、その言葉の意味を理解した瞬間、私に強烈な吐き気が襲い掛かった。


 君の理想は聞くに堪えなかった――彼女は常々そう言っていたのだと、

 目前の金髪の人物は嘲笑い、私を見下ろした。


 《奏の理想は、私の理想でもあるんですから》

 《私達二人で支え合えば、何だってできるはずです。きっと》


 (どうして、彼女が……?)


 理解が追い付くよりも先に、凍り付くような寒気が全身を覆っていく。

 胃の底を捕まれているかのような感覚に、吐き気が止まらなかった。


 「あり得ない……あり得ない、そんなこと……。だってあの子は……!」


 その瞬間、「あの方」は立ち上がり、私の元へと歩み寄った。

 地面に崩れ落ちうつむいたままの私の肩に「あの方」は手を乗せ、そしてそのまま私の頭を撫でた。


 「…………!」


 その手からいつも通りの温もりが伝わってきた気がして、


 (そうよ、全部嘘に決まってるじゃない……)


 私の頭を撫でる手つきがいつもと変わらない優しい「あの方」のものである気がして、


 (だって、あなた達がそんな酷いことをするはずないもの)


 私は――地面に大粒の涙を零しながら、切に願った。


 (だって、あなたは私を暗闇から救ってくれた、救世主で……)


 「全て嘘だった」「騙してすまない」と言ってはくれまいか、と。

 敬愛なる、目前の「あの方」に――。


 しかし、沈黙のあと、頭上からゆっくりと聞こえてきた言葉に、私は息を飲んだ。

 それは、この身を捧げると誓い、信じてきた救世主の――最も、残酷な言葉だった。



 『モウ キミニ ヨウハ ナイ』



 驚いて顔を上げようとした矢先――胸のあたりに、突き抜けるような激烈な痛みを感じた。

 おそるおそるその方を見やると、そこには信じたくない光景が広がっていた。


 「ど……どう……し……」


 全身を冷や汗が流れていく。

 呼吸ができなくなる程の痛みが、身体中を支配していた。


 《そうよ、全部嘘に決まってるじゃない》


 目の前に広がる残酷過ぎる現実を、私は受け入れることができなかった。

 金髪の人物の握った剣が、金色の光を放つその刃が、私の心臓を貫いていた。


 《だって、あなた達がそんな酷いことをするはずないもの》


 全てのエネルギーを無効化する金色の光は、傷口に集まろうとする緑色の光を飲み込んでいく。

 傷口から赤黒い血がどくどくと溢れ出し、白い床をみるみるうちに赤く染めていく。


 《だって、あなたは私を暗闇から救ってくれた、救……》


 視界が霞み、意識が朦朧とする中で――私の脳裏には、「あの方」の最後の言葉が焼き付いたまま消えなかった。


 《モウ キミニ ヨウハ ナイ》


 私を見下ろし嘲笑う「あの方」の冷笑を視界に残し――そこで、私の意識は途絶えた。



 目を覚ました私は、再び闇の中にいた。


 「ここはどこなの……真っ暗で、何も見えない」

 「お願い……誰か、私を助けて……私を独りにしないで……」


 生暖かい空気が肌に触れる。

 そこには、私以外の何の気配も感じられなかった。


 生命力の一切が感じられない真っ暗な空間に、自分一人だけが存在しているような感覚だった。

 得も言われぬ恐怖が、じわじわと脳味噌を支配していく。


 目の前に現れた白い木製の扉を開けると、一本道の廊下が続いていた。

 細い廊下には血に染まったかのような赤い絨毯が敷かれ、真っ黒な壁の所々に掛けられた蝋燭の炎が、風もないのに静かに揺れる。


 廊下の壁に、いくつかの絵画が飾られていた。

 一番手前にあった絵画に描かれていたのは、自分の最期の姿だった。


 《モウ キミニ ヨウハ ナイ》


 脳内に響き渡るその言葉は、いつまでも、いつまでも。

 私の耳に纏わりついて、離れてはくれなかった。


 「うそ……嘘よ……」


 いつまでも、いつまでも、いつまでも。


 「だって『あの方』は――」


 絵画は動き出し、金髪の人物が口角を上げる。


 「あなたは……私の……」


 その右手に握った金色の剣は、死神の少女の心臓を貫き、


 「私の……救世主……だったのに……」


 額縁の中で、少女の表情は苦悶に歪んでいった。

 どす黒く染まった血液が、絵画の中を埋め尽くしていく。

 絶望が、私の心の中を埋め尽くしていく。


 《キミノ トモダチニ タノマレタカラ》


 「あの子も……私を……」


 私はその場で崩れ落ちた。

 涙が溢れて止まらなかった。


 私の悲痛な泣き声は、音のない空間の中で空しく消えていった。

 暗闇の中で、私はただ一人、声にならない叫び声を上げてひたすら泣いていた。


 「助け……てよ……」

 「誰か……お願い……」


 私は縋ることしかできなかった。


 《キミノ ミカタダカラ》


 あるはずのない、「愛情」に。


 《奏の理想は、私の理想でもあるんですから》

 《私達二人で支え合えば、何だってできるはずです。きっと》


 あるはずのない、「友情」に。


 《何度選択を間違えたって、何度それを繰り返したって、私達は少しずつ前に進めるはずよ》

 《だからきっと――その先に『正しい未来』があるのだと、私は信じているわ》


 あるはずのない、「正義」に。


 《あなたがどんなに闇を抱えていたとしても、私はあなたの味方でいたい》

 《だって……暗闇の中で一人きりで苦しむのは、とても辛いことだと思うから》


 暗闇の中でたった一人、私は泣き続けていた。

 絶望に嘆きながら、必死に信じていた。


 いつか、暗闇の中に一筋の光が差し込むことを。

 いつか、誰かが自分を助けに来てくれることを。

 そして、自分が再び前を向けるようになることを――。



 しかし、助けが来ることなどなかった。

 私はずっと、一人、暗い部屋の中に閉じ込められたまま。


 そうして、長い、長い、あまりにも長過ぎる時間が過ぎていった。


 「そうよね……。誰も……助けに来るはずないじゃない……」

 「だって私は……もう死んでいるのだから……」


 私は理解した。

 これが「死」であると。

 これが「絶望」であると。


 きっと私は、永遠にこのままこの暗闇の中で彷徨い続けるしかないのだろう。

 死んだ私の魂は、未来永劫この闇の中で、たった一人――。


 長過ぎる時の中で、私は自らの過去を写した絵画を眺め続けた。

 何度も、何度も。

 そして、その中に写る自分を見る度に、吐き気がした。


 生前に一度、信じていたものに裏切られ、

 天界に流れ着いてもなお、信じて、裏切られ。


 ありもしない理想を信じていたかつての私。

 浅はかで愚かだった、どうしようもないかつての自分。


 「……愚の骨頂ね。何度も信じて、裏切られて」


 「あの方」を心の底から敬愛していた自分。

 友人と理想を語り合っていた自分。

 信念を貫かんと栗色の瞳を輝かせる自分。


 どうしようもなく、真っ直ぐで。

 愚かなることこの上ない、かつての自分は――絵画の中で無惨に殺されていた。


 「『正義』なんて、『愛』なんて存在しなかったのよ」

 「『神』なんて存在しなかった」


 《モウ キミニ ヨウハ ナイ》


 「救世主」なんて、存在しなかった。


 「私はもう、騙されない。そんなものにすがったりしない」

 「私はもう、幻を――その裏にある『悪意』を、見抜くことができるのだから」


 だから、私は全てを捨てた。

 己の理想も、希望も。人の心も、全て――

 全て、切り捨てた。



 ――そう、思っていたはずなのに。


 『私だけは、未玖の味方でいたい』


 彼女の言葉も、何もかも。

 全ては幻だと――そう、思っていたはずなのに。


 そんな理想はあり得ないのに。

 そうでなければ、おかしい。

 おかしいはずなのに。


 そうでなければ、私が何度も信じて裏切られた意味が――分からなくなるというのに。


 「あり得ない……。そんな理想、あるはずないのよ……!」


 その瞬間、私は気がついてしまったのだ。


 今もなお私は、心のどこかで、叫んでいたのだと。

 今もなお私は、心のどこかで、欲していたのだと。


 《じゃあ、どうして……神峰君の告白を受け入れたの?》 

 《どうして、満咲と友達のままでいるの?》


 たった一筋の、希望の光を。

 ほんの少しの、温もりを。


 『お前……泣いてるのか?』


 どれだけ否定しようとしても、それは紛れもない事実で。


 《私だけは、未玖の味方でいたい》


 あのときの彼女の言葉は、彼女の想いは嘘じゃなかった。

 何故なら――見えるはずの黒い靄が、そこにはなかったから。


 ようやく掴み取った本当の温もりに――私は事実、救われたのだ。


  ♪♪


 「あなたはもう、気づいているはず」

 「うるさい……」

 「満咲の想いが、幻なんかじゃないってこと」

 「やめろ……私は……!」

 「あなたも本当は信じていたかった。あなたの『正義』を」

 「やめろ……そんなもの、あるはずない……!」

 「本当はもう、誰も傷つけたくないのに」


 来世の自分の言葉が心に突き刺さる。

 私はその場に泣き崩れ、頭を抱えてうずくまった。


 「あなたに……何が分かるのよ」


 私はうつむきながら、震える声で呟いた。

 ポタポタと零れていく涙が、真っ赤な絨毯に黒い染みを作っていく。


 「それならどうして、私はずっと、こんなところに一人で閉じ込められなければならなかったのよ……」


 視界が潤んでぼやけていく。

 視界の隅に、血のこびりついた毛先が映った。

 それは、この世の全てに絶望した自分のものだった。


 そして次の瞬間――うつむいていた私は、全身に強い衝撃を感じた。


 「…………!」


 彼女が、自分を強く抱きしめていた。

 突然の出来事に私は抵抗することもできず、ただ目を大きく見開いていた。


 「あなたの辛かったこと、全部私が受け止めてあげる」


 背中の方から、彼女の声が聞こえた。

 それはどこか芯が通っていて、

 そしてとても――温かかった。


 「な……何言って……」

 「だって私は……」


 《初めまして――来世の私》


 「私は――あなただから」


 そう言うと、彼女は目の前でにこりと微笑んでみせた。

 その言葉を聞いた瞬間、思わず息が止まった。


 何かが、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていく。

 崩れ落ちた固い壁のようなものは心の奥深くへと沈んでいき、中心に秘められた柔らかい部分が露わになっていく。



 ――ようやく、理解したのだ。


 これがきっと、ずっと自分が欲していたものだったのだと。

 自分が欲して止まなかったものは、たった一つ。


 ただ――


 「だからもう、一人で苦しまないで」

 《私だけは、未玖の味方でいたい》


 もう一度、誰かの温もりが欲しかったのだと。



 その瞬間、世界がガラリと変わっていった。

 黒い壁がバラバラと崩れ落ちていき、金色の世界に包まれていく。

 真っ赤な絨毯を塗り替えていくようにして、足元から円を描くように純白の床が広がっていく。


 瞳から、熱を帯びた涙が次々と零れていった。

 濁っていた瞳は次第に澄んでいき、元の輝きを取り戻していく。

 血のこびりついていた栗色の髪が、元の柔らかな色を取り戻していく。


 周囲の世界が、キラキラと淡い光を放っていた。

 フードを外したまま、私は優しく微笑むもう一人の自分にしがみつき、大声を上げて泣きじゃくった。

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