第7話 彼の背中
翌日。
秋めく空を見ていると夏が過ぎてしまったことを実感する。
日の暮れた夕方の空は赤く染まり、橙色の光が部屋の中に入り込む。
ミタはぼんやりと外の景色を眺めていた。
「もう夕方だね。私、夕飯の支度手伝ってくるから、ミタはテレビでも見てていいよ」
私はおもむろに椅子から立ち上がる。
すると、ミタはあたりを一通り見渡してから言った。
「……俺、ちょっと散歩してくるよ」
「え?」
てっきり、「やっとテレビが見られる」と言って喜ぶと思っていたんだけど。
ミタの予想外の返事に、私は思わず目を丸くした。
「そっか。でも、そういえば最近よく散歩してるよね」
以前からミタが「ちょっと散歩してくる」と言って私から離れることはしばしばあったのだが、
ここ一週間ほどはその回数が以前より増えているような気もする。
初めはミタのことだからどうせ私に憑いてじっとしているのが飽きたのだろうと思っていたが、毎回散歩から帰ってくるミタがどこか険しい表情をしているのを見ると、「散歩先」で何があったのか、全く気にならないわけではなかった。
「ミタ、散歩散歩って、運動不足なの?」
「ち、違うって。俺太ってないし」
「え、でもほっぺぷにぷにじゃない?」
私がミタの白くて柔らかい頬をつまむと、
「やっやめろ、それはもともとなんだよ!」
ミタが「俺ももっと顔のラインがシュッとしてれば……」と肩を落とすので、私は慌てて「大丈夫、ミタはカッコいいよ!」と付け加える。
(「可愛い」って本当のこと言ったらもっと落ち込んじゃいそうだし、ここは黙っておこう)
私が一人決意を固めていると、ミタは窓を開けて言った。
「まあとにかく、行ってくるから」
ミタが部屋の窓に足を掛け、夕方の涼しい風が部屋に入り込んだ。
彼の顔に強い風が吹き付け、彼は先程までとは違う険しい表情で出て行った。
気がつけば私は、部屋の中にひとり残されていた。
しん、とした空気の中に、私の呼吸音だけが静かに響く。
「かくいう私も、ダイエットしないとなんだけどね……」
私は「まあ、明日から本気出せばいいよね」と笑いながら、夕食の支度を手伝うために台所へ降りていった。
☆★☆
少しずつ、じわりじわりと暗くなっていく道路に、ミタの走る足音が響く。
「――近くにいる……!」
住宅街の真ん中にある小さな公園の遊具が、子ども達が帰ってしまって、寂しそうに揺れる。
あたりは少しずつ暗くなっていき、研ぎ澄まされた感覚は、彼の使命感を奮い立たせる。
夕方過ぎの静けさの中で、ミタは走る速度を上げた。
「――あいつが……近くにいる……!」
☆★☆
「ミタ、遅いなあ……もう12時になるのに」
私は部屋の中から窓の外を見つめた。
もうすっかり外は寝静まったかのような静けさで、住宅街の家の明かりもそのほとんどが消えてしまっている。
私もそろそろ寝ようと思っているのだが、やはり未だに帰って来ないミタが気になってしまう。
「ミタがこんなに長い時間離れてるなんて、今までなかったのに……。ミタ、大丈夫かな……」
ここ最近「散歩」の回数が増えているだけに、長時間の外出が余計に不安に感じられてしまう。
私はミタの身を案じ、窓の外を見つめた。
(何かあったのかな)
異常な「散歩」の回数、不自然な言動、散歩に行くにしては明らかに切羽詰まった表情。
彼の外出が散歩ではないことは、私には分かっていた。
けれど、私は彼が何をしているのかを聞いて良いのか、分からなかった。
彼は、何の意味もなく隠し事をするようなタイプではない。ならばおそらく彼には、私に言えない何かがあるのだろう、と思う。
私にできることはただ一つ――彼の帰りを待つこと。
(もし私に何も言わずに、突然天界に帰ってしまったら……)
あり得ない話ではない。
彼は死神で、私は人間。
私はたまたま彼の力を奪ってしまっただけで、彼にとってはただの――
そのとき、下の方から聞き覚えのある声がした。
「未玖ー、窓から入るよー?」
「みっ……ミタ! 大丈夫な――」
私が言いかけている間に、その人物はふわりと浮かび上がり、窓から私の部屋に入ってきた。
「いやあ、遅くなってごめんね。迷惑かけちゃったよね」
そう言うと、ミタは申し訳なさそうにして頭を掻いた。
「ミタ……どうしたの、その目……!」
帰ってきたミタの瞳の色は、いつもの吸い込まれるような漆黒ではなく――茶色だった。
「あ……あぁ、これは……疲れちゃって」
「……え?」
明らかにおかしいミタのその返答に思わず聞き返そうとしたが、
――言葉が、出なかった。
「……疲れると、何か俺の目の色って変わっちゃうみたいなんだよね」
そう言うと、ミタは「もう寝よっか」と言いながら、カーテンを閉めた。
――ミタのその言葉が嘘であるということは分かっている。
だが私は、何も言わずに部屋の明かりを消し、そのままベッドの中にもぐり込んだ。
掛け布団にくるまり、そのまま顔を埋める。
布団の中で、私は自分に言い聞かせた。
――私は、ただミタのことを待っていれば良いんだ。ミタが私に話してくれるときまで、笑顔で……ずっと……
ずっと――。
涙がこぼれて、止まらなかった。
声が出そうになるのを必死で抑えながら、私は溢れ出す涙を拭う。
(私、寂しいんだ)
ミタと出会ってから、一か月以上の月日が経った。
《一緒に……見てもいいけど、その代わり…………俺の好きなやつを見る権利を……与えろ!》
《悩み過ぎじゃない?》
時にはバカみたいな話をして、
《俺だってこう見えて、君に死なれたら寝覚めが悪いんだよ》
時には落ち込む私を励ましてくれた。
ずっと一緒に過ごしてきて、すっかり打ち解けていたものだと思っていた。
でも、ミタにとってはそうじゃなかったのかもしれない。
ミタは私に何かを隠している。
それは、私に言えない理由があるから?
それとも、私には言う必要がないから?
ミタにとって、私はただの「人間A」でしかないから……?
(勝手に思い上がってたのは、私の方だ)
いつの間にか、ミタが隣にいるのが当たり前のように感じていた。
何だかんだいつも私を支えてくれるミタを、私はこの先支えていくのだろうと考えていた。
ミタが「死神」であるということを忘れてしまうくらいに、彼を近くに感じていた。
私にとって既にミタは、かけがえのない存在となっていたのだ。
私には、話してはくれないのだろうか。
私を、頼ってはくれないのだろうか。
「人間A」では、ミタの力にはなれないのだろうか――
私は平静を装いつつ、顔を埋めたままミタに尋ねた。
「ねえ、ミタ……」
震える声を絞り出し、泣いているのを悟られまいと――ぎこちなく口角を上げた。
「本当に、大丈夫なの? 最近、よく出かけてるけど……私、ミタが心配だよ……」
「え……?」
私は顔を上げ、ベッドの中からイスに座っているミタを見つめた。
暗くてあまり見えないが、私の中で……今にも彼の背中が遠くへ離れていってしまいそうな気がした。
「俺が……心配……? 何言ってるんだよ……」
彼の声がかすかに震えていた気がした。
「俺、死神なんだよ……未玖に憑いている死神なのに……未玖は、俺がいると、迷惑じゃないのか……?」
死神の声はとても小さくて、弱々しかった。
出会ったときの横柄な態度の死神はそこにはおらず、
そこにいたのは、まるで別人のように人間らしくなった死神ミタだった。
「そんな……だって、最初は戸惑ったりはしたけど……でも――そんなことはもう、どうだっていい」
私は真っ直ぐに彼を見つめた。
「……ごめんね、私がミタの力奪ったりして、こんなに迷惑掛けて」
それでも、ミタはいつも私の傍にいてくれたから。
「私は、受け入れるよ。この力を。この運命を」
弱くて、不安で、臆病だった私をいつも支えてくれたのは、ミタだったから。
私にとってミタは、大切な人だから。
「私は……ミタがひとりで傷つくのが怖い。ミタが……居なくなるのが怖いの」
――そうだ。
私は、「ひとり」になるのが怖いんだ。
《誰かを傷つけないで生きてる奴なんて、いないだろ?》
《だからもう、自分のせいだなんて言うなよ?》
私がまた道に迷ったときに、隣で支えてくれるミタがいないのが怖いんだ。
《こんな奴、死んじゃえばいいのに》
《あなたは私から逃れられない……永遠にね》
私は――彼女の「声」に怯える、臆病者だから。
私の瞳に小さく映ったミタの背中が何もかも抱え込んでいるように感じて、私は辛く感じた。
「……俺が心配だなんて、本当に……?」
ミタが弱々しく尋ねる。
「うん、そうだよ。だから……」
私は涙を浮かべながら微笑んだ。
「もう、無茶はしないで……」
ミタはうつむいたまましばらくの間黙っていたが、やがて小さく「ありがとう」とだけ言ってから、その後は何も言わなかった。
カーテン越しにぼんやりと入り込む月の光が、静かに部屋の中を照らしていた。
☆★☆
深夜。
ミタは過去の自分の言動と、未玖の先程の言葉を思い出していた。
《俺がたまたまあそこの路地を歩いていたら、急に君に力を奪い取られたんだよ》
――ああ、分かってるよ。
《あーあ、君のせいで仕事が台無しだ》
――分かってるから、そんなに責めないでくれよ。
《ごめんね、私がミタの力奪ったりして、こんなに迷惑掛けて》
――そんな顔、しないでくれ。
《私は、受け入れるよ。この力を。この運命を》
――全部俺のせいなんだよ……。
目の前で静かな寝息を立てる未玖を見ながら、ミタは自らの過去の行為を悔いる。
と同時に、この状況を作り出した元凶に対し、怒りを露わにした。
(あいつ……俺が取り逃がすなんて……)
(俺もこの力、少し使いすぎたか……くそっ)
ミタは小さく舌打ちすると、忌々しそうに顔をしかめる。
それから、ミタはイスに深く座って、布団の中でスヤスヤと寝息を立てている未玖を見つめた。
(……未玖も心配だし、とにかく今は一からやり直しか……)
ミタは目を閉じ、次第に意識が遠のいていった。
☆★☆
――結局、ミタに聞けなかった。
布団の中で、私は自分の無力さに歯噛みする。
薄れゆく意識の中、私はただ自分の不甲斐無さを痛感することしかできなかった。
私達が寝静まったそのとき――廊下からドアの隙間を覗き、部屋の中をじっと見つめる人影があることに、誰も気がつかなかった。