第87話 涙
気がつけば、私は見覚えのある部屋の中で、床の上に倒れていた。
目の前に、真っ黒なコートを羽織った色白の青年が見える。
「気がついたか」
起き上がろうとするが、身動きが取れない。
どうやら、彼に両手と両足を抑えられているようだった。
「お前の力なら、俺のことを無理やりにでも押し退けられるかもしれないが……そうはさせない」
すると、彼の両目が赤く輝いた。
死神は真剣な眼差しで私を真っ直ぐに見つめ、言い放った。
「そのときは、俺がお前を天界へ転送する」
ゴクリ、と唾が喉を通る音がした。
おそらく私は、彼にここに連れて来られたのだ。
あの状態で、この死神は私に――。
「だから……未玖を返せ」
机の上にある積み上がった教科書、伏せられた写真立て。
それらを見た瞬間、私は理解した。
ここは、蒲田未玖の部屋である、と。
「お前に、彼女の大切な人を殺させるわけにはいかない」
「うるさい……」
電気のついていない暗い部屋を、窓の外から雷の光が照らした。
無数の雨粒が窓にあたる音がする。
静かな部屋に、ゴロゴロ、と重苦しい音が鳴り響いた。
――消えてなるものか。
絶対に。
「私は消えない……! 幻をこの世から消し去り、そして……悪意の塊であるアイツを殺すまで……!」
無惨に殺されて、このまま消えてなるものか。
復讐も果たさぬうちに、このまま消滅してなるものか。
この絶望をすべて押しつけられたまま。
許せない。
何もかも、絶対に許せない――
私は歯を強く喰いしばり、目の前の死神を力一杯睨みつけた。
近くで雷が落ちたような大きな音がした。
低い声で唸る私の脳裏に、ふと、先程の彼女の言葉が蘇る。
《私だけは、未玖の味方でいたい》
思わず視線がぐらつく。
それでも、必死に目の前の敵を睨みつけた。
あり得ないのだ。
きっと彼女もいつか、信じることの無意味さに気がつき、私を突き放すに決まっている。
そんな理想はあり得ないのだ。
そうでなければ、おかしい。
おかしいじゃないか。
そうでなければ、私が何度も信じて裏切られた意味が――分からなくなるじゃないか。
「あり得ない……。そんな理想、あるはずないのよ……!」
私はキッと目の前の死神を睨みつける。
すると、彼は驚いた顔で私を見て言った。
「お前……泣いてるのか?」
その言葉を聞いた瞬間、世界中の一切の時が止まったように感じられた。
思わず、呼吸が止まる。
次の瞬間、右頬を一つの雫が伝っていくのが分かった。
温かい雫は寝転がる私の右耳に入り込み、冷たくなっていく。
泣いている……私が……?
あり得ない。
そんなこと、あり得るはずがないのだ。
あの暗闇の中で全てを失った。
己の理想も、希望も。人の心も、全て――
全て、切り捨ててきたはずなのに。
ゆっくりと、時が動き出す。
ふと、心の奥から小さな「声」が聞こえてきた。
彼女の声は、孤独だった私を包み込むかのように優しく、そして、温かかった。
『本当はあなたも気づいているんでしょ』
「黙れ……」
視界がぐらつく。
目の前の死神が何事か、と私の顔を覗き込んでいた。
動揺する心を抑えるように、低い声で精一杯威嚇する。
それでも、彼女は言葉を止めなかった。
『気づいてるんでしょ? こんなことをしても、空しいだけだって』
「うるさい……黙れ」
『あのね……あなたのこと、少しだけ分かった気がするんだ』
「黙れ……!」
『あなたは、本当はとても優しい人』
その言葉が聞こえた瞬間、私はハッと息を飲んだ。
視界が霞んでいく。
狼狽える私の意識は、やがて、真っ暗な闇の中へと移っていった。
☆★☆
目の前に長く続く廊下には毒林檎のように赤黒い絨毯が敷かれ、壁に取り付けられた蝋燭が相変わらず怪しげに揺れていた。
壁に掛けられたいくつもの絵画は、そのどれもが黒々と塗りつぶされていた。
忌々しい、記憶の数々。
私の目の前に、蒲田未玖が立っていた。
彼女の瞳は、不気味な暗闇の中でもその輝きを失っていなかった。
そこにいたのは、以前のような絶望に満ちた彼女ではなく――揺るがない決意を心に秘め、真っ直ぐに前を向いた彼女だった。
「あなたの記憶が、少しだけ見えたの。そして、わかったんだ……あなたがかつて、何を信じてきたのか」
彼女はそう言って微笑んだ。
その瞬間、すぐ近くに掛けられていた絵画がいくつかその色を取り戻していく。
「…………!」
私は思わず息を飲んだ。
そこにあったのは、いくつもの笑顔だった。
それは、切り捨て、封じ込めたはずの――沢山の、かつての自分の心だった。
ある絵画の中で、銀髪の彼女がこちらに微笑みかけている。
その隣で、絵画の中の私が心からの笑顔を浮かべている。
「や……やめろ……」
ある絵画の中で、大きな白い服を纏った金髪の人物が、誰かの頭を撫でている。
それが自分だということはすぐに分かった。
黒いフードの下で嬉しそうに色づく頬を抑えながら、絵画の中の私が微笑んでいる。
「嘘だ……そんなもの……」
ある絵画の中で、たくさんの分厚い書籍を抱え、友人に尊敬の眼差しを向けられる私の姿があった。
その栗色の瞳は凛々しく輝き、その決意に満ちた眼差しに、友人の瞳もまた淡く輝いていた。
《何度選択を間違えたって、何度それを繰り返したって、私達は少しずつ前に進めるはずよ》
《だからきっと――その先に「正しい未来」があるのだと、私は信じているわ》
「そんなもの……あるはずなかったのよ……」
全て捨てたのだ。
だって、ようやく気がついたのだから。
私が盲信していた理想は全て、幻でしかなかったのだと、
何度も裏切られ、傷つけられて――ようやく、気がつくことができたのだから。
全ては幻。
私は絶望の中で、たった一人なのだと――




