第80話 目障り
夜の街は、賑やかな声で溢れ返っていた。
駅周辺には大きなビルが立ち並び、多種雑多な人々が街を埋め尽くしている。
飲み屋から出てくるのは、仕事帰りのサラリーマン。
予備校らしきビルからは、鞄を背負った学生がゾロゾロと帰宅していく。
街の真ん中にある大きなデジタル時計は、夜の十時を示していた。
そんな夜の街で、駅へと向かう人の流れに逆らうようにして、制服を着た女子高生が一人。
私は、ただあてもなく人混みの中を歩いていた。
「ねぇ、知ってる? 原因不明の連続不審死の話!」
「知ってる、ネットで噂になってるやつでしょ」
ふと、すれ違った女子学生の会話が耳に入った。
「それにしても、死んだ人全員凶器とか持ってる悪い人だったって、凄いよね……本当に救世主なのかも!」
「……くだらない、そんな人いるわけないじゃない」
スマートフォンを握りしめながら目を輝かせる女子学生とは対照的に、冷静なもう一人の女子学生は、手元の単語帳を捲りながら適当に相槌を打っていた。
人混みの中を、ぼんやりと歩いていく。
すれ違っていく人達の様々な顔が通り過ぎていった。
仕事で疲弊しきった顔や、翌日の試験を憂う顔。
そして、怒りと憎しみに歪んだ顔――。
「……目障り」
私の目に映る、どす黒い靄のような塊。
その男は黒い霧を纏わせながら、大きな荷物を大事そうに抱えて、人混みの中を一心不乱に突き進んでいた。
私は振り返り、その人物の肩を叩いた。
「あの……すみません、道案内をお願いしたいんですけど……」
男は驚いたように振り返ってこちらを見た。
二十代後半くらいの若い男だった。
顔はやつれ、目の下には青紫色の大きな隈があった。
長い間放ったらかしにしていたのであろう髪や髭が、不清潔感を大きく助長させている。
私は片手で携帯画面を操作しながら、マップを開いて目的地を見せた。
にこりと笑顔を貼り付ける私に対し、男はいかにも「焦っています」といった声で言った。
「ごめんなさい、急いでるんで」
そう言って、男は前を急ごうとしたが、
「……何に急いでいるんですか?」
私の一言に、男は足を止める。
男は上ずる声を抑えながら答えた。
「で……電車が、もうすぐ発車しちまうんだよ!」
「本当にそうですかね?」
私は顔に笑顔を貼り付けたまま、男の腕を掴み、耳元で小さく囁いた。
「その鞄の中に何が入っているか、私は知っているんですよ」
「な……!」
「着いてこないなら、大声で叫びますけど?」
男は大きく目を見開いたまま、固まっていた。
ただしっかりと――大きな荷物を抱え込んだまま。
☆★☆
街の喧騒が遠くの方から聞こえてくる。
賑やかなのは駅周辺だけで、駅から少し離れただけで人通りが一気に減った。
古い建物と建物の間は、街灯の明かりが行き届かないせいか真っ暗で、建物の換気扇の音だけがごうごうと響いていた。
人のいない路地裏に、制服を着た女子高生と、荷物を抱えた男が二人。
「な……何が目的だ、お前。こんなところに連れてきやがって」
男は私を睨みつけながら、安物の手提げバッグを大事そうに両手で抱えて後ずさった。
私は、男の抱える荷物を一瞥してから言った。
「あなたのような汚れた人間が、目障りなだけ」
「な……俺が汚れている、だと……!」
男は大きく目を見開き、身体をわなわなと震わせた。
男の目が、じわじわと赤く充血していく。
「どいつもこいつも、ナメやがって……! 許せない……あの野郎もそうだ、そうやって俺のことを馬鹿にしやがった……!」
「だからその人のことを殺そうと?」
「お……お前に、お前に何が分かるってんだよ!」
男は声を荒げ、大事そうに抱えていた荷物の中から、キラリと光る刃物を取り出した。
身体をこわばらせながら、震える両手でその刃物を私に向かって突き付ける。
「ハハ……ハハハ! いっ、いいか、俺の邪魔しようってんなら、こいつで……」
「『悪意』は消し去らなければならないから」
「あ? 何言ってん……」
そこまで言いかけたところで、男はポカンと口を開けたまま驚いたように私を見た。
目の前の男の両目に、赤く輝く自分の瞳が映る。
男は状況の異変を察したのか、全身の力を失い、へなへなとその場に座り込んだ。
「な……何なんだよ……お前……」
「私は、あなたのような『悪意』を持った人間が目障りなだけ」
「悪意……何でそんなもの……」
そう言いかけたところで、男はハッと息を呑んだ。
男の顔から血の気が引いていき、充血していた目は白くなっていく。
「ハハ、ハハハ……まさか、お前が……」
男は震える身体を抑えながら、乾いた笑い声を口から漏らす。
握っていたナイフがその手からこぼれ落ち、カランと音を立てた。
「な……なぁ、許してくれよ、救世主なんだろ?」
男のすがるような目が視界に映った。
男は必死の形相で、何やらペラペラと喋っている。
「だっ、大体あの野郎が俺のことをこんな風にしたんだ、悪いのはあいつだ、俺は悪くない!」
「…………」
「それにほら、俺まだ何もやってないだろ? ハハ、ハハハ……!」
男はそう言って必死に自分を肯定していた。
その内容が、その形相が、あまりにも無様で滑稽だった。
「あなたはまだ何もやっていない……それだけじゃない」
「な……」
男は口を開けたまま私を見上げていた。
先程私の瞳を見てから動けずにいるのか、男はひたすら私を見上げて固まっている。
「お願いだ、頼む……救世主なら、俺のことも救ってくれよ」
「『救う』……ねぇ……」
存在するはずのない慈悲にすがる人間の姿は滑稽で仕方がなかった。
それはまるで、何も知らないかつての愚かだった自分のようで、
「『救世主』なんて――『神』なんて、いるはずないのにね」
かつての無知で浅はかだった自分を見ているかのようで、吐き気がした。
「でも、私にはもうはっきりと分かる」
「な……」
今まで私が追い求めてきた理想は、全て幻だったことに気がついた。
今なら分かる。幻の本当の姿、それは――
「私にはもう、あなたの『悪意』が見える」
「なに……言ってんだよ、お前……」
目の前にある、このどす黒い霧のような「悪意」。
この目障りな「悪意」が、私の追い求めてきた「正義」や「愛」とかいう幻の、本当の姿だった。
私はもう、そんなものに騙されない。
そんなものに、すがったりしない。
「だから、あなたを消し去らなければならない。……目障りな、『悪意』を」
一度死んで、生まれ変わってようやく掴んだ、私の能力。
「悪意」という幻を見抜く、私だけの能力。
「ハハ……なんだ、お前。救世主とか言われやがって、調子に乗ってんじゃねーぞ?」
目の前の男はもはや諦めたようにして乾いた笑い声を上げてから、
こちらをキッと睨みつけ、吐き捨てるようにして言った。
「お前なんてただの人殺しなんだよ、この大量殺人鬼!」
「…………」
何だ、そんなことを言いたくて。
フフ、フフフ。
「な……何笑ってるんだよ……!」
「フフ……ご名答」
お腹の底から笑いが込み上げてきて止まらなかった。
だって、彼の言ったことは、至極当然のことだったから。
「だから、さようなら」
人通りのない路地裏に、制服を着た女子高生と、地面に力なく座り込む男が二人。
すっかり動かなくなった男を置いて、女子高生はその場を後にした。
誰もいなくなった路地裏に、遠くから聞こえる街の喧騒と、古めかしい換気扇の音だけが響いていた。
あと9話ほどで、前半の完結予定です。
残りもどうかお付き合いくださいませ。




