第75話 あなたのことが、大好き。
♪♪♪
この世の中に、永遠に続くものなんてないのだろう。
何かの終わりというものは、いつも突然に訪れる。
終わりが訪れたその瞬間――当たり前だと思っていた日常は、
まるで砂でできた塔のように、ボロボロと、いともあっけなく崩れ落ちていく。
「ずっと一緒に生きていこう」
――そう誓い合っていたその人は、私に大きな借金だけ残してどこかへ消えてしまった。
父親に言うことなんてできなかった。
幼いころに死んでしまった母の分まで、男手一つで育ててくれた大切な父親だった。
だからこそ、そんな父に迷惑を掛けることなんてできなかった。
だって、悪いのは全て私なのだ。
彼に騙された私が、悪かったのだ。
彼の優しさに騙された、この私が浅はかだっただけ。
残された借金を返すため、私は刑事として働く傍ら、風俗店で働いた。
借金に追われる生活から一刻も早く抜け出すためには、それしかなかった。
でも、そんな生活を続けるうちに、身体も心もボロボロになっていった。
それでも、借金はなかなか減ってくれなかった。
いつしか私は、身も心も耐え切れなくなり、その場に倒れてしまった。
そんなとき――私を救ってくれたのは、愛していた父親だった。
《父親ってのはな、娘をずっと守っていたいもんなんだよ。だからもう、無茶はするなよ? お前は俺の、大切な娘だからな》
大好きだった、私の大切な父親。
父親のおかげで、私は再び前を向くことができた。
その翌年――それは、父の日のプレゼントを買った直後のことだった。
世話焼きの優しかった父親は、自分の研究室の中で死んでしまった。
《どうしてっ……どうしてよ、父さん》
《私のこと、ずっと守っていたいって、言ってくれたじゃない……》
嘘つき。
いつもそうだ。
何かの終わりというものは、いつも突然に訪れる。
《私……もう、ひとりぼっちじゃない……》
いつもそうだ。
優しい人は必ず、私を裏切って目の前からいなくなってしまう。
それなら、もう――
誰かを信じるのはやめにしよう。
こんな風に苦しむくらいなら、もう――
もう、誰も信じたりしない。
《父さんは……何故死ななければならなかったの?》
警察は事件について捜査を始めた。
しかし、怪死を遂げた土井教授の死因は分からず、殺人と考えるにせよ、犯人の証拠が一切見つからなかった。
やがて、警察はこの事件を事故として片づける方針を定めた。
《どうして……だって、人が事故でこんな風に死ぬなんておかしいじゃないですか!》
《どうして捜査を続けようとしないんですか! これじゃあ……何のために私達は……》
父さんが事故であんな風に不自然に死ぬなんて、信じられなかった。
父さんを殺した犯人は、必ずいる。
私から大切な父さんを……私の大切な人を奪った人間を、絶対に許さない。
法で裁くことができないのなら、私が裁いてやる。
見つけ出して、私の手で、必ず――殺してやる。
私は警察を辞め、父の敵を討つべく行動を始めた。
父さん――土井教授の周辺人物を調べていくうちに分かったことは、二つあった。
一つは、父が特に懇意にしていた生徒の存在。
そしてもう一つは、その生徒のうちの一人――倉元ひかるに、複数の犯罪歴が存在していたこと。
《コイツだ……コイツが父さんを殺したに違いない》
けれど、コイツがどれだけ素行不良を重ねていることが分かっても、コイツが父を殺した犯人だという決定的な証拠は見つからなかった。
だから、私は――
《お隣、失礼します》
もう一人の生徒――石見高弘に近づいて、倉元ひかるが犯人だという証拠を掴むことにした。
《あの……これ、前回貸してくれた資料》
《あっ、ありがとう! わざわざ持って来てくれて。わ、分かりにくかったかな……》
《……そんなこと、ない》
石見高弘はいつもへらへらと笑っていた。
コイツは、父さんを殺した倉元ひかると関わりがある人間――信用してはいけない。
利用するのはこちらだ。
《良かったら、その……名前、教えてくれないかな……? それと、良かったら連絡先も……。せっかくだし、その、ちょっと仲良くなりたいかな、なんて……はは》
これは好都合――コイツと仲良くするなんて御免だが、これもアイツの情報を得るため。
《あっ俺……高弘っていいます! 石見高弘》
《紗英です。……西田、紗英》
コイツを信用させるために、私は苗字を偽った。
《先輩〜! 何してるんですか? こんなところで》
《見れば分かるだろう。食事だ》
《おや、お相手は三谷さんではないのですか。こんにちは》
《……こんにちは》
倉元ひかる――私は必ず、お前が犯人だという証拠を掴んでやる。
《さっ、紗英ちゃんはさ、何でそんなにラーメンが好きなの?》
《…………別に》
父さんが外食で私を連れていくときは、いつも決まってラーメンだった。
父さんはこってりした豚骨系のラーメンばかり食べていたけれど、
私がいつも食べていたのは、対照的に、あっさりした塩ラーメンだった。
塩ラーメンを食べると、大好きだった父さんのことを思い出す。
この男から、倉元の情報を引き出さなければならない。
大好きな父親を殺した犯人が誰か、聞き出さなければならない。
だから、愛想よく振る舞わなければならないのに。
この男から情報を引き出すためには、どんなに憎くても、笑わなければいけないのに。
《そ、そっか……そうだよね、好きな食べ物に、理由とかないよね。はは、ははは……。変な質問して、ごめんね》
《…………》
石見高弘はそう言って、いつもみたいにへらへらと笑っていた。
この男は、いつも笑顔だった。
私がどんなに冷たい態度をとっても、いつも……
どうして、そんなに……私に優しくするのだろう。
あなたはどうして、そんなに優しいのだろう。
私は、あなたのことを騙しているのに。
《愛想がない人間、って思われてもしょうがないでしょうね》
《私は、他人を信じられない……他人が、怖いの》
優しい人間は、いつも私を裏切ってきた。
だから、私はあなたのことを信じられない。
私はあなたを利用して、復讐を果たす。
そのためなら――
《俺は、その……みっ、味方でいたいな》
《さっ、紗英ちゃんに何があったって、俺は……紗英ちゃんのこと信じたいし、味方でありたい》
彼の瞳は真っ直ぐで、
彼の真剣な眼差しが、言葉が、深く澱んだ私の心の奥まで突き刺さるようだった。
《優しい……お人好し》
彼が優しければ優しいほど、私は彼を信じられない。
《高弘君、あの後輩の女の子のこと、好き?》
《すっ、好きとかそういうんじゃなくてっ、あいつはその……腐れ縁っていうか……》
《……でも、すごく仲が良さそうに見えるけど》
《そっ、そうかな……あいつがただ俺をからかって――》
《……何か、あったの?》
彼は黙っていた。
やはり彼は、倉元の情報を握っている――あの事件と関わりがあるに違いないのだ。
《私……笑ってた……》
《最近、ずっと……笑ったことなんて、なかったから……》
彼のことは、父親を殺した犯人の情報を引き出すために利用していただけのはずだった。
それなのに。
《私のラーメン、あげても良いけど》
《お箸……新しいの取ってきた方が良い……かな》
《別に……一口くらい構わないけど》
いつの間にか、彼に心を許してしまっている自分がいた。
《ありがとう紗英ちゃん……。紗英ちゃんって、優しいんだね》
《たっ……大したこと、ないじゃない。別に、そのラーメン美味しくなかったからあげただけだし、おっ、お箸も、わざわざ取ってくるなんて面倒くさいからそうしただけだし。私なんて、優しくなんか……》
《紗英ちゃんは、優しいよ》
《そんなこと……ない》
私は優しい人間なんかじゃないのに。
私はあなたを騙して、利用しようとしているのに。
《ごめんね紗英ちゃん、ちょっと電話が来てたみたいで》
《もしかして、後輩の子? ……大丈夫なの?》
《うん、大丈夫大丈夫! こいつ、ホントいっつもどうでもいいことで連絡してくるから》
《そう……いつも連絡……してるのね……》
いつも、何を連絡しているのだろうか――。
連絡内容が気になって仕方なかった。
しかし気になっていたのは、今までずっと探っていた情報とは別のものだった。
それは――
《紗英ちゃん……俺……っ》
《……行ってきなよ》
私と一緒に居ても、私と一緒に話していても、
あなたはあの女のことを考えている。
《ふふ。高弘君、泣きそうな顔》
《おっ……俺……》
高弘君は、優しい人だ。
私と大事な話をしているはずなのに、倉元ひかるのことがどうしても放っておけない、優しい人。
《ごめん、紗英ちゃん! 俺、アイツのとこ行ってくる!》
そう言って、彼は私よりあの女のことを優先して行ってしまった。
そのとき、どうして自分が彼に心を許してしまったのか、分かった気がした。
石見高弘――彼は、世話焼きで優しかった、私の大好きだった父親に似ていたからだ。
《父さん……っ》
全力で走っていく彼の後ろ姿が、父親に重なって見えた気がした。
その瞬間――涙が溢れて止まらなかった。
気がつけば私は、彼のことが好きになっていた。
《あのね、高弘君………私、何か大切なことを思い出せた気がするの。あなたと出会えて》
《笑うことって、こんなに素敵な気持ちになれるのね》
将来を誓い合った人に裏切られ、最愛の父親を失い、笑顔を失っていた私に、
彼は笑顔を取り戻させてくれた。
でも私は――そんな彼に嘘をついている。
付き合い始めてから数か月が経ち、彼を騙し続けることの罪悪感に苛まれていた頃のことだった。
倉元ひかると二人きりで話す機会ができたのだ。
何としても事件の真相を聞き出し、コイツが犯人だという決定的な証拠を掴まなければ――
そう思っていた矢先、私に告げられたのは衝撃的な真実だった。
《何か勘違いしてるだろ、なぁ? 土井紗英》
《なっ……私の父を殺したのは、あなたなんでしょう!》
《私は教授に殺されかけただけ。それを先輩が助けてくれた》
《なにを……言っているの……》
《だから殺したのは私じゃない。先輩がやったんだよ……私を助けるために》
目の前が真っ暗になった。
そんなこと、考えたくなかった。
信じたくなかった。
だって、高弘は……そんなことする人じゃ……
《私を救ってくれたのはあの人が初めてだった。お前なんかに、先輩を渡すか……!》
《あなたにそんな資格あるわけないじゃない! たくさん罪を犯しておいて、そんな資格……あるわけない》
《私に先輩を想う資格がなくったって……私は……!》
《お前だって、先輩のこと騙してるくせに!》
倉元ひかるの言う通りだった。
私は高弘のことを騙し続けている。
そんな私に、高弘を好きでいる資格なんて……。
《高弘って、よく見ると女の子みたいなんだね》
《俺、紗英ちゃんのこと守るとか言って、カッコつけて……こんな見た目なのに、その……ごめんなさい》
高弘が、私の大好きな父親を奪ったなんて考えられなかった。
高弘が、人を殺したなんて考えられなかった。
私がずっと恨み続けてきた復讐の相手が高弘だったなんて、信じたくなかった。
《俺はいつだって、紗英ちゃんの味方だからさ》
《何で……そんなに優しいの》
どうして、あなたが父さんを殺したの。
《私は他人を信じられない……でも、あなたのことは信じたい……! だけど……》
《あなたが優しければ優しいほど、私はあなたを信じられない》
どうして、父さんを殺したのが、あなただったの。
《だって、優しい人は必ず……! 必ず、私を裏切って……目の前からいなくなってしまうから》
どうして、あなたまで私の前からいなくなってしまうの……。
《もし君が俺のことを信じられなくても、俺は君のことを信じる。君の味方でいる》
《君が俺のことを信じてくれるようになるまで……何年でも、何十年でも》
その言葉を聞いた瞬間、何かが分かったような気がした。
涙が溢れて、溢れて、止まらなかった。
高弘……
……あなたは本気で、私を好きでいてくれているのに。
《ありがとう、高弘。こんな私をここまで連れて来てくれて。こんな私を……好きだと言ってくれて》
《こんな私に……こんなに素敵な景色を見せてくれて、ありがとう》
私はずっと、あなたのことを騙してきた。
それでも、こんな私のことを、あなたは好きになってくれた。
こんな私に、笑顔をくれて、素敵な景色をくれた。
私にはもう、あなたを好きでいる資格なんてない。
私はもう、あなたに嘘をつき続けることなんてできない。
だから私は……ケジメをつけなければならない。
《まさかあなたが犯人だったなんてね》
《人畜無害なフリをして、本当は人殺しの極悪人だなんて――想像もつかなかったわ》
《そしてさっき、あなたが人を殺した瞬間を、私は確かにこの目で見た。なるほど、証拠が掴めないわけね》
あなたが人を殺したなんて、信じたくなかった。
《本当に愛されたとでも思ったの? ……フフ、自惚れないで。誰にも愛されるはずがないでしょ、あなたみたいな人殺しが》
けれど、そんなあなたを――最愛の父を殺したあなたを、私は愛してしまった。
《あなたがどうやって人を殺しているのかは分からないけど――私は絶対にあなたを許さない》
《法で裁けないというのなら、私があなたを裁く》
違う。
きっと裁かれたかったのは、私の方だ。
ずっとあなたを騙してきた。
あなたに嘘をつき続けてきた。
《私が、あなたのような犯罪者を本気で好きになるはずないでしょう?》
本当はあなたのことが大好きなのに。
《全部、お前のせいだ》
《そう……最期に言い残すことは、それだけ?》
本当はあなたのことを愛しているのに。
《……そう。分かったわ》
ずっとあなたを騙していてごめんなさい。
《さようなら、石見高弘》
そして今でさえ、私はあなたに嘘をついている。
結局私は、最後までずっとあなたを騙し続けていた。
それでも、私は。
私は、ずっと……
《高……弘……》
あなたのことが、大好き。
♪♪♪
白黒の映像が途切れると、静寂が訪れた。
薄汚れた倉庫の中には、自分だけがたった一人残された。
古くなってところどころ穴の開いたトタン屋根の隙間から、白い雪が降り注いだ。
びゅう、と大きな音がして、倉庫の入口から、凍り付くような冷たい風が吹き込んだ。
ひんやりと冷え切った粒が肌に触れ、凍える空気が皮膚の熱を奪っていった。
長い長い、静寂。
コンクリートの冷たい地面の上に、彼女は倒れていた。
彼女の透き通った柔らかい頬は、次第にその温かな色を失っていった。
長い長い、静寂。
静かな空間の中で、自分の呼吸だけが、空しく響いていた。
そこには自分以外の誰一人として存在しなかった。
地面に横たわる俺の上に、白くて冷たい雪が積もっていった。
目頭に積もった雪は音もなく融け、冷たい雫となって、涙のように頬を伝い、転がり落ちていった。
長い長い――長すぎる静寂。
隣で死んだようにして冷めたくなっていく彼女は、
穏やかな微笑みを浮かべていた。
《あなたのことが、大好き。》
「あああああああああああああああああああああ!」
俺は声を上げて泣いた。
溢れる涙は熱く、零れ落ちた雫は、地面の雪を融かしていった。
誰もいない静かな倉庫の中で、自分の声だけが空しく響き渡っていた。




