第71話 このギゼンシャ野郎
――その日の夜。
俺は壁に貼ったメモ用紙と、すぐ近くに置いてある小さな白い箱を眺めながら、ひとり顔を綻ばせていた。
メモ用紙に書かれているのは、様々なプレゼント候補――そのうちの一つ、大きく丸で囲まれた文字の横には、「25日紗英ちゃんに渡す!!」とメッセージが書き足されている。
これは、紗英ちゃんに渡すプレゼントを忘れずに持っていくよう、以前から貼っていたメモ用紙なのだ。
「いよいよ、明日か……」
掌サイズの小さな箱の中には、紗英ちゃんに渡す予定の腕時計が入っている。
小さな宝石の散りばめられた腕時計が、箱の中でキラリと輝く。
悩みに悩んだ結果、清楚な紗英ちゃんに一番似合いそうなこの腕時計を選んだのだが……。
「紗英ちゃん、喜んでくれるかな……。どう思う、チサ?」
「ん? あぁ、喜んでくれるんじゃないか」
チサはそう言うと、何やらブツブツと呟きながら、神妙な面持ちで暗い窓の外を眺めていた。
「……どうしたんだよ、チサ。さっきからずっと窓の外眺めて」
「あぁ……そうだな」
この時期になると、夜の住宅街は、普段とは打って変わって明るい電飾でいっぱいになる。
しかし、チサはどちらかと言えばそういったファンシーなものは好まないタイプの人間――否、死神だ。
そんなチサが、長時間わざわざ外のイルミネーションを眺めているとは到底思えない。
だとすると、彼女が外の景色をじっと見つめているのには、何か別の理由があるに違いないのだ。
俺が訝しげな視線を向けると、チサは、重たそうに口を開いて言った。
「……近いんだ。きっと、もうすぐそこにいるに違いない。アイツが……大罪人が」
「何だお前、それなら捕まえに行けばいいだろ。それがお前の『本来の目的』ってやつなんだし」
「でも、同時に何故か嫌な予感がするんだ……今お前の傍を離れてはいけないような、そんな気がしてならないんだよ」
「はは、何だそれ。怖いこと言うなよ」
ハハ、と笑う俺に対し、チサは窓の外と俺とを交互に眺めながらもどかしそうな表情を浮かべていた。
それは死神の、実に人間味溢れる表情であった。
何だかんだ言って、チサはいつも俺のことを気にかけてくれている。
そしていつも、彼女の本来の仕事を邪魔してしまっているのは俺なのだ。
「行ってこいよ、チサ。それがお前の使命なんだろ?」
「……しかし――」
「大丈夫大丈夫。俺にはお前から貰った死神の力もあるだろ? 死にゃしないって」
「お前……」
チサは驚いたように目を丸くしてから、目をそらしてうつむいた。
「恨んでいるだろう、私のことを。……お前に、その力を与えたことを」
彼女の声は、珍しく弱々しかった。
そんなチサを励ますように、俺は小さく笑った。
だって、こいつは最初から何も悪くなくて。
そりゃあ、この力を拒絶したり、チサのことを恨んだりもしたけれど。
でも俺は、ようやくこの力を受け入れることができたんだ。
この力が、何のためにあるのか分かったから。
「もういいんだよ、そんなこと。お前、俺のこと助けてくれたんだろ?」
「しかし、お前はずっとその力のことで苦しんで――」
「俺、分かったんだ。この力が何のためにあるのか」
「…………」
「この力は、大切な人を守るためにあるんだって、分かったから」
そう言って、俺はニカッと笑ってみせた。
ようやく見つけた、この力の――俺の存在意義。
だから、チサ。俺はお前に感謝してるんだよ。
俺を助けてくれたこと。
俺にこの力をくれたこと。
俺に大切な人を――紗英ちゃんを、守る力をくれたこと。
「そうか、高弘……お前は、強いんだな」
チサはそう言うと、ぎこちなく微笑んだ。
それはどこか安心したような表情でもあり、どこか申し訳なさそうな表情でもあった。
窓を開け、縁に足を掛ける。
窓から夜風と雪が吹き込み、思わず全身がぶるりと震えた。
「それなら私は、使命を果たすしかないな」
彼女は真っ直ぐに前を向いたまま言った。
小さく、それでいてしっかりとしたその声からは、彼女の強い覚悟が感じられた。
チサが部屋を出てから、部屋の中は一気に静まり返った。
壁に掛かった時計の針が、重々しくチクタク、と時を刻む。
天井に備え付けられた白色電灯が、寂しげにチカチカ、と点滅していた。
部屋の中にひとり残された俺は、窓の外を見つめながら、小さく呟いた。
「チサ。お前のおかげで、俺は紗英ちゃんを……」
☆★☆
翌日、朝。
身支度を整え、昨夜のうちに用意しておいた衣服に身を包んだ俺は、鏡の前で最終的なチェックを行っていた。
「やっぱりコートは灰色より黒、か……? いや、でもズボンが黒だろ? あまり黒一色だと暗い印象に……うむむ」
昨日チサが出ていった窓の外を眺めながら、「こういうときあいつがいたらなあ」と小さくため息を一つ。
全身黒一色の死神にコーディネートを依頼するのもどうかしているような気もするが、今までデートの際はいつも、チサがいるときは必ずセカンドオピニオンを求めてきたのだ。
だが、今回は自分一人で決めなければ。
散々悩んだ挙句、結局は黒を選択し、俺はコートを羽織り身支度を完了させた。
鏡から離れ、昨日のうちにプレゼントをしまっておいた鞄を手に取ろうとした瞬間――鞄の中から、携帯電話の着信音が鳴った。
携帯電話を手に取ると、そこには「西田紗英」と表示されていた。
それにしても、彼女から電話が来るなんて珍しい。告白したとき以来だろうか……。
「もしもし、紗英ちゃん、どうしたの?」
寝坊した、とかかな。だったら慌てて起きて焦ってる紗英ちゃんも可愛いなぁ、なんて――
「助けて、高弘! 私――」
そこまで聞こえたところで、電話は途切れた。
突然のことに一瞬、脳内の思考回路が停止する。
助けてって、どういうことだ?
だって紗英ちゃんは今日、俺とデートの約束をしていて――
まさか。
次の瞬間、俺は咄嗟に折り返し電話を掛けていた。
つながらない。
それでも、何度も。何度も電話を掛ける。
――もし。もしも。
俺の脳裏に、以前助けを求めてきた倉元のことが過った。
――もしも紗英ちゃんが、誰かに襲われていたりしたら。
《もうひとりじゃないよ、紗英ちゃん。俺が……守ってあげるから》
電話は一向につながらなかった。
電話機の向こうからは、繰り返し機械音声の冷たい言葉が聞こえてくるのみであった。
(ちくしょう……!)
何があっても、絶対に守るって決めたんだ。
だからせめて、今どこにいるかだけでも――
しばらくして、ようやく電話が繋がった。
このまま電話が繋がらなかったら――最悪なケースをひとまず逃れほっとしたのも束の間、
「もしもし紗英ちゃん、今どこに――」
耳元から聞こえてきた声は、予想していたものとは全く違うものだった。
それは、いつもの高く澄きとおった彼女の声ではなく――太くて低い、男の声。
「いいか。愛しい彼女を守りたかったら、今すぐ一人で来い」
☆★☆
冷たい外の空気の中を、ひたすらに走る。走る。走る。
俺は携帯電話を片手に、冬の寒空の中を、ただ一直線に目的地目指して走っていた。
賑やかな街中を抜けた先にある、海近くの静かな廃工場。
その一番奥にある倉庫が、電話の向こう側の声に指定された場所だった。
入口にある大きな重たい扉に、不自然に歪んで切れた鉄製のチェーンがぶら下がっている。
おそらく、重たい鈍器か何かによって無理やりに破壊されたのであろう。
――殺されるかもしれない。
ゴクリ、と唾が喉を通る音がした。
手足が震え出す。
返り討ちにあって倒れる自分の姿が、脳裏を過ぎった。
(やっぱり、警察に頼んだ方が……)
携帯電話を取り出し、電話の画面を開く――
警察に電話を掛けようとしたその瞬間、紗英ちゃんを連れ去った男の言葉が思い浮かんだ。
《警察に連絡したりしたら――分かってるな》
「……ダメだ。俺一人で行かないと」
震える手足を抑え込むようにして、俺は自分に言い聞かせるように笑って呟いた。
「決めたんだろ……俺は」
重たい鉄の扉に手を掛け、全身の力を籠める。
「何があろうと、紗英ちゃんを守るって」
錆び付いた扉はギギギ、と音を立て、ゆっくりと開いた。
扉の向こう側は、広い空間だった。
日光がトタン屋根によって遮られた薄暗い空間の中で、砂ぼこりが舞っている。
地面一面に広がるのは、所々廃棄油が染みついて薄汚れたコンクリート。
その上に、使われなくなってすっかり錆び付いた廃材が、あちこちで積み重なっている。
その真ん中で、地面に横たわっている人物が一人。
両手と両足を縛られ、声が出せぬように口に布が巻かれたその人物は、俺の大切な――
「紗英ちゃん……!」
彼女の姿を認めるや否や、俺は途端に走り出していた。
電話に出たあの男はどこに行ったのだろうか。
そんな疑問が頭の中を過ぎったりもしたが、とりあえず今は紗英ちゃんを助け出すことが先決。
そう思い、彼女の目の前まで辿り着いたところで、
突如――後頭部に鈍い痛みを感じ、俺はその勢いでそのまま前のめりに倒れた。
「やっと来たか、このギゼンシャ野郎」
コンクリートの固い地面に倒れ込んだ俺の頭上から、電話で聞いた時の男の声が降り注ぐ。
鈍い痛みは頭全体を支配し、目の前がくらくらと揺れる。
倒れた衝撃で口の中に広がった血の味を噛み締めながら、俺は拳を強く握りしめた。
こいつだ。こいつが、紗英ちゃんを攫った。
「な……何が目的なんだ」
俺を呼び出すためだけに、わざわざ紗英ちゃんを攫ったんだとしたら。
だとしたら、俺だけ殴るなりすればいいじゃないか。
「この人は……彼女は、何も悪くないだろ」
地面に倒れ込んだ衝撃で身体のあちこちが痛むのを堪えながら、ゆっくりと立ち上がり、声のする方を見る。
その姿に――その男に、俺は見覚えがあった。
「お前……!」
刈り上げた頭に、凶悪な目つき。
薄汚れた黒いTシャツまで――あのときと同じ、倉元を襲ったときと同じ男がそこに立っていた。
「確かに、この女にはなんの恨みもねぇが」
男は横たわる紗英ちゃんを一瞥してから、俺を睨みつけて言った。
「お前らを見てるとどうもこう……ムカついてくるんだよなぁ」
「な……」
俺はこいつのことなんて知らない。
こいつに何かした覚えもないし、恨みを買われる筋合いもない。
なんだ、こいつ。
倉元を傷つけようとしたときもそうだ。
どうしていつも、お前は俺の周りの人間を――
身に覚えのない憎まれに対し呆然としていると、男は不意にハハ、と笑ったかと思えば、俺の顔面に向かって力強く拳を叩き込んだ。
衝撃で俺は再び地面へ倒れ込む。
殴られた箇所がジンジン痛む中、地面に転がる俺の頭上から、男は語気鋭く言い放った。
「それがムカつくって言ってんだよ!」
「な……んだよ……」
「その平和ボケした面構え! 俺らを見下す、その目!」
男はそう言って怒鳴りながら、地面に転がる俺を何度も蹴り、それから吐き捨てるように呟いた。
「お前はそこで大人しく見てろ」
男はそう言うと、紗英ちゃんの方へ歩いていく。
その瞬間、嫌な予感がした。
「さ……紗英ちゃん……!」
こいつを、止めなければ。
しかし、立ち上がろうと力を籠めるだけで全身に激痛が走る。
紗英ちゃんを呼ぶ声も、か細く掠れた音だけが喉を通り抜けていった。
男が紗英ちゃんに近づいていく。
彼女の悲痛な叫び声が、口を縛った布から漏れ出す。
俺は、覚悟してきたんだ。
紗英ちゃんを守るためなら、何でもするのだと。
殴られようが、蹴られようが。
紗英ちゃんを守るためなら、俺は――
「ま……守るんだ」
全身に走る痛みを堪えながら、俺は何とかして立ち上がろうと力を籠めた。
男がこちらに気がついて振り向く。
爬虫類のように冷え切った無機質な目がこちらを捉え、俺の身体は先程の痛みを思い出して一瞬ゾクリと震えた。
それでも、俺は紗英ちゃんを守る。
そう決めたんだ。
俺は恐怖と痛みで膝をガクガクと震わせながらも、精一杯男を睨みつけて言った。
「紗英ちゃんは……俺が守る……!」
恐れも、痛みも、叫び声で掻き消すようにして、俺は力一杯叫びながら男の方へ走った。
男の目の前まで来たところで、拳を大きく振り上げ、そして――
「あん? 何を守るって?」
振り下ろそうとしたところで、拳は振り払われ、代わりに腹部に強烈なカウンターを受ける。
胃液が飛び出そうになるほどの衝撃が腹部を襲い、俺はその場でうずくまることしかできなかった。
「大した力もねーくせに、俺が守るだの何だのほざいてんじゃねーよクソが」
男は歯ぎしりしながら、吐き捨てるようにそう言った。
すぐ近くで紗英ちゃんの悲痛な声が聞こえる。
俺は、どうしようもなく無力だった。
「やっぱお前、今までで一番ムカつくわ」
紗英ちゃんを守ると、そう決めたのに。
「だから、やっぱ殺しちまうことにするわ」
俺が男らしくないのなんて、当たり前だ。
彼女を守ってやることすらできない。
「死ね、ギゼンシャ野郎」
――もう、この方法でしか。
男はどこからか拾ってきた金属バットを振り上げた。
俺の脳裏に、入口の千切れたチェーンが思い浮かぶ。
おそらく、あのチェーンを変形させたのはこの金属バットなのだろう。
これを振り下ろされれば、確実に死ぬ。
俺は――
《大丈夫大丈夫。俺にはお前から貰った死神の力もあるだろ? 死にゃしないって》
《この力は、大切な人を守るためにあるんだって、分かったから》
紗英ちゃんを守るためなら、何だってする。
紗英ちゃんを守るためなら……
こいつだって、殺してやる。
男は振り上げた金属バットを強く握りしめた。
《お前は相手の目を見ながら右目を瞑ることで、相手の魂を天界に転送することができる》
《お前が右目を瞑れば、相手は……死ぬ》
俺はこいつの目を視界に入れつつ、右目を瞑ろうとした――
――そのとき。
男の背後に突然、人影が現れ、その人物が勢いよく男を蹴りつけた。
突然の衝撃に男はよろめき、地面に倒れ込む。
現れた人物はハア、と深いため息をついてから、忌々しそうに男を睨みつけて言った。
「誰が殺せっつったよ?」
舌打ちをしながら、繰り返し何度も何度も男を蹴り続けるその人物の声に、聞き覚えがある気がした。
その姿に、見覚えがある気がした。
いや、まさか。
そんなはず、ある訳ないだろ……。
背筋を、嫌な汗がタラリと流れた。
俺は混乱する頭を整理することもままならぬまま、その人物を――その女の姿を、見続けることしかできなかった。




